<石亭画談>
明治十七年(1884)、竹本正興石亭が『石亭画談』に書いている。
近時伏見に遊び百丈山石峯寺に到り、親しく寺中をめぐるに、本堂の右、小高き所に一小楼門あり。漸次山にのぼるに、その石像、もっぱら五百羅漢に止らず。阿弥陀三尊観音地蔵釈迦誕生および涅槃、その他諸仏獣畜等、ことごとくこれを山間樹隙に点続し、配置の位置などにも工夫をなして東西南北に布列す。また若冲の墓あり。これは貫名海屋撰文の若冲の小伝である。すべて一奇観というべし。惜しいかな、これを保存するに意を用いるものなく、苔癬剥蝕(タイセンハクショク)あるいは破壊し、あるいは崖下に転落するものもあり。散失もまた疑いなきなり。寺に入り主僧と話す。主僧いわく、寺は資力に乏しく、これらを保存することが困難であると。ともにその荒廃につくを嘆いて別れる。
寺では石像諸仏布列の図を版画にし、信者のためにこれを施している。山中精一後に書する所の詩、また載せて図上にあり。その詩にいう。「斗米先生画才有リ、雲ヲ被ヒ石ヲ刻ミ像ハ奇ナリ、峯頭活溌霊気ヲ発ス、五百ノ群ニ成リ羅漢来ル」。その図は実に若冲七十五歳の筆である。好事の士は、必ず寺に詣て石像をみてその奇なるを知るべし。
なお石峰寺は竹本石亭が記した版画を二枚所蔵しておられる。一枚は複写だが、扁額に「遊戯神通」と明記されており、もう一枚は画はほとんど同じで、額に「遊戯」とのみ記されている。
同寺はいまも、版画「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」を頒布している。現在使用している版木は大正七年(1918)、原摺画よりの再刻だが、大正四年の同寺火災で版木元版を焼失してしまったためである。門も扁額も描かれていない。
参考までに、大正七年新版木・裏面の記載を紹介しておく。「寄附洛南深草里百丈山/石峰禪寺蔵版/為、亡兄宣東宗興居士/十七回忌居士菩提也/大正七年五月十九日/洛東五條袋町住/平野保三郎/敬白」
さらに大正十五年には、秋山光男が京都の錦市場に出向き、当時は雑穀商を営んでいた橋本屋の主人、安井源六に取材している。若冲の伊藤家は幕末に衰退し、あとは親戚筋の安井家が同家の後を継ぎ、近くの宝蔵寺にある伊藤家の菩提も弔っていた。秋山著『若冲研究序説』によれば、安井家には「若冲下絵の版画横物、石峯寺五百羅漢図に長崎僧、桃中一の着賛したものがあった。その箱の底裏には米斗庵所蔵と書かれていた」。横物とは横長の画で、版画を軸装にしていたのであろうが、それらは失われてしまった。
ただ現在の石峰寺版画には、余白がない。大正期に再刻した折、トリミングしてしまったのだろうか。画面に詩を彫りこむ余地がない。
そして明治二十二年刊の「絵画叢誌」にも五百羅漢の記述があるが、筆者は寺に来ることもせず、伝聞をもとに記述しているので割愛する。
大正7年版「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」
<『京都府寺誌稿』>
石峰寺の若冲五百羅漢について、もっとも詳しく正確な明治期の資料は『京都府寺誌稿』である。明治二十四年に北垣国道京都府知事の提唱により、府内の有名各寺に寺の来歴や什宝、原状などを報告させた資料をまとめた寺誌集である。石峰寺の原稿は、住持拙門和尚によって、二十四年か翌年に記されたものであろう。石峰寺が提出した文書のなかの「五百羅漢石像」項を意訳してみるが、やはり後山はかつて、釈尊一代記のパノラマであり、佛伝テーマパークとでも呼ぶべき、石像数は千体を超す壮大な光景であった。
「長さは六尺八寸から二尺五寸ほど、現在おおよそ六百体あり。羅漢建立の年度は安永末年で寛政年間に竣成したという。当時石峰寺前所に閑居していた斗米庵伊藤若冲が画類を描き、石像を石川石をもって造った。石峰寺六世俊岳哲和尚が願主となり、そして第七世密山修和尚が洛中洛外、近隣の国郡にも出向いて、首に勧進の函箱を懸けて鉢を持ち、鐘を叩き“深草石峰寺五百羅漢建立”と、東奔西走し金銭米穀、有信の施物を仰ぎ、その喜捨浄財をもって星霜十余年を経過し、竣切したとのこと。一体の像でも、一人あるいは二人三人の寄附によって建立された石像群である」
若冲の石像造営作善は、わずか数年にして当初の完成をみた。第一期五百羅漢完工を成し得たのには、密山和尚の勧進勧化、粉骨砕身の尽力が大きかったことが知られる。若冲が画を米一斗と交換していただけでは、これだけの短期間に事業を完遂することはできなかったであろう。第二期以降も、密山和尚の勧進業、民衆の喜捨、それらが合力されての十数年にわたる事業が完成された。
また若冲の大作モザイク画「鳥獣花木図屏風」「樹花鳥獣図屏風」などは、石像山の造営資金を集めるために、若冲工房の総力を動員して制作されたのではないかと思う。画の升目描きには西陣織との関連が指摘されているが寛政十二年、相国寺主催の若冲四十九日法要に、西陣の富商・金田忠平衛とおぼしき人物が招かれている。金田がこの屏風制作に関わり、勧進に貢献したことも推測される。豪商たち、パトロンもかかわっていたであろう。
深草石峰寺の拙門和尚によると、後山の若冲石像の配置は世尊在世中の逸事を形取り、第一画題は世尊の誕生。第二は世尊が王家嫡男である系統を捨てて入山。第三画題は、雪山(せっせん)での六年間におよぶ苦行を終え、山を降りての出山外道教化。第四は華厳教悦法。第五は般若浄土。第六は霊山會上。第七は祇園精舎二十五菩薩雍護。第八は法華教授。第九が涅槃。第十は塔所に至る。世尊に附帯表順させて羅漢を配置している。
それ故に諸佛や羅漢、そして鳥獣などを合わせて合計千体を超える。すべて石峰寺山上に羅列し、また山間渓谷に橋梁を架け、二十四橋を構え、実に壮厳に造り上げている。見る人すべてが驚嘆した。
ちなみに塔所とは、石峰寺歴代住持の墓所である。いまも一般墓地とは離れ、西方の少し低い地に一角を占める。開山僧・千呆禅師の遺骨も埋葬されている。
そして拙門和尚は語る。願主の俊岳和尚は寛政八年(1796)に、若冲居士は同十二年に、密山和尚は文化十二年(1815)に、おのおの物故してしまった。そして経ること百余年の今日に至り、破戒僧および奸僧のために石造物は散乱し、往時の盛観を失ってしまった。現今は十画題の内、誕生佛、霊山会上、涅槃、塔所の四所のみを残すのみになってしまった。六百余個が在しているが、四百個以上が売却され、三都や地方の有数の邸園に翫弄物として散在してしまったのである。
ところで石峰寺が明治前期にこれほど凋落してしまった原因のひとつは、寺の大きな収入源であった伏見船から得ていた運上が、幕府の瓦解とともに失われたためである。伏見の港を中心とする伏見舟は、淀川船すなわち過書船同様に、淀川や宇治川に就航した人荷運搬船である。伏見船の運上益金は、正徳四年(1714)に伏見の郷士・坪井喜六益秋が、幕府から与えられた免許権利の一部を寺に寄進したものである。淀川通船のうち、小回り船三十艘の運上を寺門香燈の資として、坪井が永代寄附したことによる。また福建省から長崎に来航する支那船からの香燈金収入も、伏見船以上に大きかった。
黒川創氏によると、幕末期の石峰寺収入は、まず支那船の香燈金が年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合わせて年四百両ちかい。
明治初期、廃仏毀釈と上知令の嵐が、寺宝流失や堂の破却にも拍車をかけた。拙門和尚から破戒僧と名指された二代にわたる住職が、かつて俊岳と密山両和尚の勧進、若冲の奉仕や、たくさんの庶民の浄財喜捨でもって完成された石峰寺と石像らを、それこそ破壊してしまったのである。
しかし、そのころに全国の宗教界を突如襲った激流を振り返ってみて、ふたりの和尚だけを責めるのは、あまりにも酷であるとも思う。
<『京都府紀伊郡誌』と『新撰京都名所圖會』>
大正四年刊『京都府紀伊郡誌』によると、同年一月六日に石峰寺は火を発し焼燼してしまったが、残っている山門、小門ともに漢風に擬し形状は頗る奇巧である。後山には釈尊槃像(坐像六尺ばかり)を中央に安置し、周囲に十六羅漢、五百大弟の石像を置く。風餐雨食、彫鑽粗朴、わずかにその面目を認るのみ。
その後、昭和の初年になって、拙門和尚の後を継いだ、第十六世龍門和尚が山を整備し、数少なくなっていた石像を、現在の配列に並べかえた。吉井勇がかつてみた若冲の羅漢たちは、現在われわれが目にする様子とほぼ同じである。
ちなみに昭和三十八年刊『新撰京都名所圖會』では、石像群を九所に分けて記載している。釈迦誕生、来迎諸菩薩、出山釈迦、十八羅漢、説法場、羅漢座禅窟、托鉢修行、釈迦涅槃、賽の河原である。この分類は、石峰寺にて頒布している現在の寺案内冊子と同じである。
若冲五百羅漢に興味ある方はぜひ、伏見深草の石峰寺を訪れてみてください。寺は伏見稲荷の南東、徒歩わずか十分たらずに位置しています。そして若冲の墓にも参拝に立ち寄りください。
また石峰寺と若冲五百羅漢を守るための「石峰寺伊藤若冲顕彰会」(年会費三千円)への入会もおすすめします。同寺で年ニ回開催される若冲画展と、九月十日の若冲忌にも招待されます。
どの駅からも徒歩10分以内です。
<2016年12月19日 南浦邦仁>