美人画で知られる上村松園は、京都四条の生まれ育ちです。「まだ四条通りが、いまのように電車が通ったり、道はばが取りひろげなかったころ、母と姉とわたしと三人で、今井八方堂という道具屋の前にあたる、いまの万養軒のところで葉茶屋をしておりました」と松園は語っています。電車とは、いまはもうない市電です。京では、茶葉を商う店を葉茶屋といい、花街の遊興の店をお茶屋といいます。
松園の本名は上村津禰[つね]。明治八年(1875)、四条通御幸町西入ル奈良物町に生まれました。彼女がまだ母の胎内にいるうち、出生の二ヶ月前に父は急死。
母の仲子は気丈なひとでした。再婚の話があっても断り続けた。「石にかじりついてでも、わたしひとりが働いて、親子三人どうにかやっていきます」。多感な少女、娘の時代、十九年のあいだ、津禰は母姉と四条で暮らしました。
絵が大好きだった松園は、四歳にして六銭を無心し気に入りの絵を買い求める。開智小学校を出てから、府立画学校に通う。最初の師は鈴木松年ですが、松園の雅号は松年によります。
「わたしのこころのなかには、いつも母がいて、母とともに画の道を歩いています」。松園を産んだ母は、彼女の芸術をも生んでくれた。姉妹にとって母の仲子は、父と母をかねた両親であったのでしょう。葉茶屋を商うつましい生活のなかで、娘ふたりを育てあげた、すばらしい母親でした。美人画にはあまり例のない母性愛を松園がよく扱ったのは、母の愛がこころに沁みていたからだといわれます。
河原町通四条上ルには、少女の津禰が大好きだった本屋「菊安」がありました。いま油とり紙屋「象」のある場所です。幕末に坂本龍馬や中岡慎太郎らがいつも集った、書肆[しょし]「菊屋」です。この店には、江戸時代に刊行された古い読本がいっぱいありました。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」や「椿説弓張月」や「水滸伝」など、葛飾北斎の挿絵に津禰はいつも見入っていました。
そして夏、祇園祭にはいつも津禰は屏風を見てまわります。「一寸ごめんやっしゃ! 屏風拝見させていただきます」と玄関でひと声かけて、座敷にあがりこむ。祭のときにだけ公開される秘蔵の絵を、これはと思うものをあますところなく、花鳥人物や山水など、さまざまの作品を縮図帖に写してまわりました。
また小さな帖面と矢立をもって、博物館でも美術品の競売、売立[うりたて]の場であろうが、かまわず筆をとって模写しました。食事を抜くのはたびたびです。絵を描いていると、いつも空腹を忘れた。
松園が絵で一生を立てようと決意したのは、火事類焼で自宅を失い、四条をはなれて二年ほど後、二十一歳のころでした。花が咲こうと月が出ようと、絵のことばかり考えている毎日に拍車がかかる。画に専心させるため、母は松園を家事や雑務から完全に解放しました。
松園は青眉[せいび]がすきでした。明治のころまで、結婚して子どもができると女は眉[まゆ]を剃った。それを青眉といいます。松園は青眉を思うたびに聖なる母の眉を想い出しました。「母の眉はひといちばいあおあおとし、瑞々[みずみず]しかった。毎日のように剃刀[かみそり]をあてて眉の手入れをしていました。いつまでもその青さと光沢を失うまいとして、眉を大切にしていた母の姿は、いまでも目をつぶれば瞼[まぶた]の裏に浮かんできます」
上村松園がこれまで描いた青眉は、四条通で葉茶屋を営みながら、ふたりの娘を育てあげた母の眉です。
<2008年8月23日 青眉抄 南浦邦仁記>