ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

あひる余話(4)通史

2025-01-04 | Weblog

 いつまでたってもアヒル漬けです。そろそろ卒業したいのですが…それで、終盤戦に入ることにしました。もう少しで卒業ならぬ中退します。

 本日は18世紀初まで、わたしが見つけた過去の「アヒル」記事を並べてみました。そろそろ総決算が近いです。またここに出てくる鶩文字から、なにかしら気づくかもしれない。そんな思いで、これまでに出てきた呼称を、古い順に並べてみます。

 鶩ボク 鶩肪ボク 家鴨 唐の鴨 白鴨 高麗鴨 アヒル あひる AFIru 安比呂 阿比留 アヒロ あひろ

 

〇918年延喜18年 『本草和名』「鶩肪、一名を鴨ともいう。のろのろ歩くので舒鳥。和名は加毛という。」鶩(ボク)・鶩肪(ボク)・鴨(オウ)/舒鳥(ジョチョウ/のろのろ歩く鳥)/和名:加毛(かも)。和名鶩アヒルの初出か。

〇931年~938年『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)「鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨であり鳧といい、家で飼育しているのが鶩である。」鴨(オウ)/ 野鴨、鳧(フ)。家鴨/鶩(ボク)/呼称「アヒル」は室町時代からか。

〇1173年承安3年5月『玉葉』「院中鴨合之事有」。鴨合(かもあわせ)開催。鳥を競わせる「鴨合」は、カモかアヒルか。合わせも不明。度々開催。

〇1226年家禄2年5月16日『明月記』「伝え聞く。去今年宗朝の鳥獣が都に充満した。唐船の輩が自由に舶載し、これを豪家が競って購入している」

〇1233年~1234年 『古今著聞集』「天福の頃、殿上人のもとに、唐の鴨をあまた飼われたる云々」

〇1436年永享8年『蔭凉軒日録索引』「将軍、聯輝軒より進上せられし白鴨11羽を西芳寺の池に放たれた」。

〇1474年文明6年『文明本節用集』「下 鴨 アヒル」呼称アヒルの初出か。

〇1490年延徳2年9月『蔭凉軒日録索引』「白鴨は高麗に生息しているとのこと。」

〇1503年文亀3年『実隆公記』「高麗白鳧申出常盤井殿遣玄番頭許」

〇1504年永世元年3月26日『実隆公記』「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」。宮中に献上。

〇16世紀半ば『饅頭屋本 節用集』「家鴨 アヒル」

〇1587年天正15年2月19日『御湯殿上日記』(お湯とののうへの日記)「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」 清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す

〇1590年『節用集 天正18年本』「鴨鳧鶩」 鴨カモ、鳧々、鶩々 鴨カモも鳧フも鶩ブク・アヒルも、どれも同じである。

〇1603年慶長8年『日葡辞書』「AFIru」(家鴨 アヒル)

〇1630年『食物和歌本草「鶩あひるこそ虚を補ひて客熱を除臓腑を利するものなれ…しかしあひる玉子多く食せば身も冷えて心みじかくせなかもだゆる」

〇1649年『多識篇』林羅山「鶩/安比呂」あひろ。

〇1669年版『増刊下学集』「鶩・アヒル/唐ノ鴨也。」

〇1661年/台湾救援のため長崎からオランダ船で家鴨百羽送る。

〇1694年『和爾雅』貝原益軒の養子、貝原好古編著「鴨ア/ヒロ」

〇1697年「農業全書生類養書」で、アヒルの飼育を奨励しているが、それは肉を食べるためではなく、卵を売って利益を上げるため。

〇1697年。『本朝食鑑』人見必大/「鶩/俗に阿比留という」

〇1706年『唐通事日録』元禄5年「当地にては、ふた(豚)、には鳥(ニワトリ)、<あひる>殺害多数之候様に被聞召候付、云々」。生類憐みの令。

〇1708年『大和本草』貝原益軒「鶩/訓アヒロ」の項で「家鴨ト云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」「長崎ニ於テ異邦ノ人好ンテ之レヲ食フ」

〇1712年『和漢三才図会』「按ずるに鶩/あひろは人家に多く、之を蓄ふ」「あひろ/家鴨」

〇1719年『東雅』新井白石「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。その闊歩するを云ひしと見えたり。」

<2025年1月4日>

 

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