梅雨が明けた江戸 界隈(かいわい)である。ムッ! とする暑気(しょき)が汗を呼び、巷(ちまた)を行き交う町衆は、誰しも恨めし気にギラつく空を見上げた。夏はまだ、始まったばかりだった。その中の一人、月影兵馬も扇子をパタパタと小忙しく煽(あお)りながら、日射しを避けようと蔦屋の軒先(のきさき)で立ち止まった。
「まっ! いいか…」
蔦屋に…とは奉行所を出た折りから決めていた兵馬だが、一応、紋切り型に自己弁護の言葉を吐いた。ここ最近、これといった探索事もなく、奉行所の誰もがダレていた。
蔦屋の縄暖簾(なわのれん)を潜(くぐ)ると、店先に桶盥(おけだらい)に立たせた氷柱が目を見張った。冷気が僅(わず)かに涼を呼ぶ。とはいえ、暑いことに変わりはない。
「いつものヤツだ…」
「へいっ!」
お勤めの間は冷や水と田楽、勤めが終われば冷酒と田楽と兵馬は決めていた。
「おっ! 旦那だっ! 暑いですねぇ~!」
魚屋の喜助が、床几(しょうぎ)に座った兵馬に店奥からヒョイ! と声をかけた。
「おお、喜助ではないか。ははは…梅雨明けが暑いのは当たり前だ。…で、商(あきな)いは?」
「へへへ…。この暑気の最中に売り歩いてちゃ旦那、魚が腐っちまいますよっ!」
「ああ、それもそうだな…」
「珍しくおっ母(かあ)が駄賃をくれたもんで、今日は涼(すず)んでやす」
「連れ合いがのう。ははは…それは結構なことだ。して、何か変わりごとはないか?」
兵馬は運ばれた味噌田楽を頬張り、それとなく喜助に訊(たず)ねてみた。
「まあ、あるといやぁ~ありやすがね。ないといやぁ~ねぇ~んですよ…」
「ははは…ややこしい言い方をするなっ! どちらだっ!」
兵馬は冷や水を飲みながら、小声で訊ねた。
「あとひと月もすりゃ~、また盆でしょ!」
「ああ、そうだが、それがどうかしたか?」
盆といえば七月十五日である。
「二年前の盆から、どうも乗り気がしねぇ~んでさぁ」
「なぜだっ?」
「盆になりやすとね、出るんですよっ!」
「ははは…幽霊か?」
「図星でっ! 実は…」
「勿体(もったい)ぶらず、有り体(てい)に申せ!」
「二年前、大川に飛び込んで心中した若い娘と手代の一件、旦那、ご存じでやんしょ?」
「ああ、そういや、そういうこともあったのう…」
二年前、大川に飛び込んだ町娘のお染と回船問屋の手代、仙吉の悲恋の心中事件は、当時、多くの町衆を涙させる悲劇だった。
「あっしね、その折り、近くを通りがかったんでございますよ」
「見たのか?」
「ええ。石を懐(ふところ)と袂(たもと)に、ザブ~ンにボチャ~ンで、やした」
「近くにいたのだろ? 止められなかったのか?」
「あっしは、離れた川向うにいやしたから…」
「止められなかった・・という訳だな」
「ええ、まあそうで…」
「その二人が、なぜお前に化けて出るんだ?」
「いや、それが、あっしにも分からねえんで…」
「なにか思い当たる節(ふし)はないのか?」
「思い当たるといやぁ~、橋を渡ってその場へ近づきやしたが…」
「それだっ!」
「どれでっ!」
「馬鹿野郎! 三河万歳やってんじゃねぇ~んだっ! お前はお染と仙吉の霊に憑(つ)かれたのよっ!」
「憑かれるって、あっしは見に行っただけですぜ、旦那」
「夢に出てくんだろっ? そりゃもう、憑かれたに違(ちげ)ぇねえや、ははははは…」
兵馬は大声で呵(わら)った。
「笑いごとじゃすまねぇ~んですよっ、旦那っ!」
「すまん、すまん。だが、こういう一件は奉行所でものう…」
「旦那は得体の知れねぇ~もんとお付き合いがあるんでやんしょ?」
「馬鹿を申せ。付き合いなどないわ。まあ、縁がないとは言わんが…」
「後生だから頼んでみて下さいやしよっ!」
「頼むと言われてものう。こちらから会える術(すべ)がないのだ」
「向こうが勝手に現れるってこってすかい?」
「ああ、まあそうだ…」
よくよく考えればその通りで、兵馬が出食わしたこの世の者でない全(すべ)ての物の怪(け)は、一方的に向こうから現れる訳で、兵馬が呼び出したことは一度もなかったのである。
「一度、盆供養を寺に頼んでみちゃどうだっ!」
「盆供養ですかい?」
「ああ、盆供養だ。飛び込んだとこで、坊さんに有り難てぇ~とこをなっ! 少し多めに包むんだぞっ!」
「多めって、そんなにありやせんやっ、旦那っ! こちとら、日銭(ひぜに)で生きてやすんで…」
「まあ、それもそうだな…。ほれ、回向(えこう)料だっ!」
兵馬は財布から一分銀を一枚出すと、喜助に手渡した。
「有難うごぜぇ~やす、旦那っ!」
喜助はその一分銀を頭(かしら)に頂くと、懐(ふところ)の巾着(きんちゃく)へ納めた。
「おっ! いけねぇ~やっ! 長居しちまった。こりゃ、お駒の機嫌を損ねたな…。親父、こいつの払いも拙者に付けといてくれっ!」
兵馬は軽く咲(わら)って床几を立つと、縄暖簾から出ていった。彼の愛想は月払いである。
『またのお越しをっ!』
店主の声を背に受け、どこか気分が上向きの兵馬である。ただ、鼻の下についた味噌田楽の味噌には気づいてはいなかった。
その後、喜助は盆供養を寺に頼み、悪夢を見なくなったということである。
完