暑い最中(さなか)、隅田川の花火が色鮮やかに夜空を彩(いろど)っていた。咲いた花火を見上げれば、刹那(せつな)、暑気を忘れられる。それでも昼間の熱気はまだ失(う)せてはいなかった。兵馬は、いつものホロ酔い気分で前栽(せんざい)に置かれた床几(しょうぎ)の上で扇子(せんす)を煽(あお)る。高台(たかだい)のお芳の置屋は、上手(うま)くしたもので頃合いに観える特等席になっていた。兵馬の隣りには酒、肴(さかな)を挟んでお駒が座ってる。花火が揚(あ)がるたびに、『玉屋ぁ~』『鍵屋ぁ~』と町衆が放つ掛け声が微(かす)かに聞こえる。いい風情である。
「兵馬さま…」
お駒が冷えた提子(ひさげ)の酒を兵馬に勧(すす)める。
「…ああ。早いものじゃ、夏も峠を越したか…」
兵馬はそう言いながら盃(さかずき)を手にし、グビリ! と口に含む。
「ええ…。今年は凶事も少なく、ようございました…」
お駒はそう言いながら、兵馬が置いた空(から)の盃に酒を注ぎ入れる。
「そうだな。ここ十年、飢饉(ききん)で元号がよう変わったからのう…」
「翌年に変わった年もございました。凶事や飢饉には、何か巡りがあるんでございましょうか?」
「ははは…拙者に訊(き)かれてものう」
兵馬は軽く暈(ぼか)したが、物の怪(け)の仕業(しわざ)に相違あるまい…と心の底では思えていた。
「そろそろ揚げも終わりだな。どれ! 戻るとするか…」
兵馬は残った盃の酒を飲み干すと、勢いよく床几から立ち上がった。次の日は非番で、その夜はお芳の置屋に泊まる算段(さんだん)抜きの手筈(てはず)がすでに決まっていた。いつもながら・・といえばそれまでだったが、そんな歳月(さいげつ)が繰り返し流れていた。
翌朝、兵馬は軽く朝餉を取ると、隅田川の土手沿いに漫(そぞ)ろ歩いてみるか…と思うでなく思った。心地いい川風に身を晒(さら)したくなったともいえる。
四半時後、兵馬は川べりの土手沿いを歩いていた。昨夜の打ち上げの余韻が河原に見られる。心地いい朝風が流れる中、観る方(かた)はいいが、揚げ方は大変だな…と思えた。ふと見下ろせば、雀長屋の又次と与蔵が土手の草叢(くさむら)をうろつきながら何やら探している。
「おう! 又次と与蔵ではないか。こんな朝っぱらからどうしたっ!?」
「月影の旦那だっ!! お早うごぜぇ~やす。いやね、昨日の晩、巾着(きんちゃく)を落としちまいやしてねっ!」
「花火見物で巾着を落としたかっ! 見料(けんりょう)を取られ訳だっ! ははははは…」
兵馬は賑(にぎ)やかに呵(わら)った。
「笑いごとじゃござんせんよ、旦那。こちとら、暮らしがかかってんで…」
「中には、いかほど入っおったのだっ!?」
「波銭二枚とビタ銭(ぜに)が数枚…」
「それは大変だっ! 大金(たいきん)ではないかっ!」
兵馬は軽く哂(わら)い、同情する振りをした。
「そうなんで…」
「このような草叢、出てこんぞっ!」
「銭はいいんでやす。銭はいいんでやすが、おっ母さんが持たしてくれた守り袋が…」
又次は泣きそうな声で、そう訴えた。
「なにっ! 母御の守り袋が入っておったと申すか?」
「さようで…」
「それは難儀だな…」
そう慰めた兵馬だったが、すでに内心に一計(いっけい)が浮かんでいた。ただ、その一計は、こちらからどうなるというものではなかった。見えないモノの在(あ)り処(か)が分かる物の怪(け)だが、こちらからは呼び出せないのである。
「ほれ!少ないが取っておけっ! 守り袋は拙者の神通力でなんとかしよう…」
兵馬は胸元の皮財布から一朱銀を一枚、抜き出すと、又次に手渡した。
「こんなに…有難うごぜぇ~やす。神通力と言やぁ~、よくお出会(でえ)ぇ~になる物の怪ですかい?」
「ああ、まあその類(たぐ)いだ。お上(かみ)に届け出るほどのことでもなかろう」
「へえ、そうでやす…」
「奉行所の拙者が申すのもなんだが、門前払いにされるのが落ちだっ!」
「でやす。なにぶん、よろしく…」
「分かった!」
安請(やすう)け合いした兵馬だったが、物の怪に出会える当てなど、まったくなかった。物の怪とは、兵馬が遭遇した素戔嗚(スサノオ)の命(みこと)や徳利の精、その弟分などを指す。
それから十日ばかりが過ぎ去り、兵馬は巷(ちまた)を漫(そぞ)ろ歩いてはみたが、これということも起こらず、生憎(あいにく)、物の怪には出会えず終いであった。
そんなある日のことである。兵馬が又次に詫びを入れようと雀長屋へと歩を進め、八幡さまの御社(みやしろ)の近道を通り過ぎようとしたときである。
『おお、いつぞやのお方ではないか…』
聞き覚えのある荘厳(そうごん)な声が天空から降って湧いた。兵馬は、ギクリ! として立ち止まり、辺(あた)りを見回した。だが、声はすれど姿は見えず・・である。
「もしや…」
『そうよ、姉上のお叱りを頂戴し、天空から追放された素戔嗚よっ! そなたに会(お)うたのは、これで何度目であったかのう?』
「江戸には、また用向きで?」
『いや、此度(こたび)はそうではない。ちと、東照宮に詣でようと来た、その帰りじゃ』
「でしたか…」
『そなた、何か探しておったのう』
「いえ、拙者ではござらぬが、知り合いの者が…」
『雀長屋の又次が母御の守り袋とか申しておったな…』
「左様なことまでご存じで…」
『当然じゃ。儂(わし)はこれでも神じゃぞ』
自分で神というのもいかがなものか…と兵馬は瞬時、思ったが、とてもそんなことを言える相手ではない。
「守り袋の在り処、お分かりでしょうか?」
『むろんじゃ! ほうれ、これじゃろう…。持ってきてやったわい、ホッホッホッ…』
そう言い終わるやいなや、天空から守り袋がフワリ・・フワリ・・と舞い落ちてきたのである。
「おお! 有難い…」
兵馬は地上に舞い落ちた守り袋を屈(かが)んで手にした。
『ではのう! 達者で暮らせよ! 儂に出会いたければ、出雲(いずも)まで来るがよかろう。六代先の子孫が仕切っておる故(ゆえ)にのう…』
出雲といえば、大黒さまか…と兵馬は刹那、思った。
「はははぁ~~!」
気づけば兵馬は地にひれ伏していた。
その後、土手の草叢で偶然、拾った・・と告げたのみで、兵馬はコトの真相を又次に明かさなかった。そして、今宵もほろ酔い気分で江戸の町を漫ろ歩いている。ただ、相変わらず、足袋(たび)が片方、破れていることには気づいていない。^^
完