残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十六回
左馬介は、幻妙斎が告げた、遠山(えんざん)の目付という教えを想い出したのである。左馬介は、井上の姿を観望した。
「そうだ、そうそう…。腰が据わってきたぞ」
決して褒め言葉ではないのだろうが、それでも初めとは違い、叱る言動ではない。二人は対峙したまま、暫く時が流れていった。他の者達は、その間も二人ずつ組み合い、交互に相手へ打ち込んでいる。打ち込まれる側は、所謂(いわゆる)、いなしで応じる。打ち込む側も、決して1本取ろうという打ち込み方ではなく、自分の打ち込みの様を工夫している。
「よ~しっ、やめいっ! 今日は、これまでに致す。…蟹谷さんの代理で、儂(わし)も疲れた…」
井上が常の構えを解き、片方の手で、もう片方の竹刀を持つ腕を揉む。それを見て、左馬介も竹刀を左手へ納め、堤刀(さげとう)
の姿勢に戻った。他の者達は、井上の号令一過、稽古を止めると一礼し、ざわつきながら竹刀を掛けて場内を去った。左馬介だけが直立した姿勢で残っている。
「稽古始めにしては、上出来、上出来…」
井上は竹刀で肩を叩きながら、満足げな笑みを湛えてそう云うと、刀掛けへと竹刀を納め、出ていった。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十五回
気づけば、左馬介は床板へ倒されていた。
「馬鹿者! そのように捨て身で打ち込む奴があるか。これが本身ならば、お主は、もう斬られておるぞ。隙がなければ、打ち込んではならぬ!」
井上が、やや強めの声で叱咤(しった)した。及ばぬ悔しさは確かに左馬介の胸中に湧き起こったが、それでも、稽古をつけて貰えた喜びの方が数倍の重さで心の奥底を満たしていた。
「なんだ…泣いておるのか?」
井上は微笑を浮かべた。
「い、いえ、別に…」
ごまかして、左馬介はすぐ立ち上がった。自分でも信じられないのは、両頬を流れる涕(なみだ)であった。悟られまいと咄嗟(とっさ)に袖で顔を拭いながら元の位置へと急ぎ、井上に堤刀(さげとう)の姿勢で対峙して一礼した。そして、ふたたび中段に構えた。
「よし…。すぐに打ち込むなよ」
そう云って、井上も中段に構えた。その時、左馬介の脳裡に、幻妙斎の言葉が甦った。
━━ 全体を、遠方の山を眺めるように、おおらかに観よ、という教えじゃ… ━━
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十四回
微笑を湛(たた)え、井上が左手に持った竹刀を右手の平へ叩きながら、左馬介に放った。
左馬介は傍(かたわ)らの面防具をつけ、云われるままに竹刀を中段へと構えた。中段は、常の構え、或いは正眼の構えとも云われる構えである。
「初めての組稽古だから致仕方ないが、肩が上がっておるわ。…力を入れ過ぎじゃのう」
井上が、また小刻みに笑った。云われて左馬介は、ハッ! っと不自然に力を抜いた。それは、不自然というより不恰好と表現し得る姿である。無論、当の本人の左馬介は必死に構えているのだから、己が身の様は見える訳がなく、対する井上のみが、そう見えるのである。
「さあ、どこからでも掛かって参れいっ!」
中段に冴える構えを見せた井上の言葉を、左馬介は薄ぼんやりと受け止めた。そして、ええいっ! 成るが儘(まま)よ…と、声を上げながら突進し、上段から井上めがけて打ち下ろした。
「きぇぇ…い!!」
井上は少しも慌てることなく、上段から打ち下ろされる左馬介の竹刀を、いとも容易(たやす)く捌(さば)き、いなした。この“いなす”という行為は、捌いて左馬介の体勢を崩したことを意味する。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十三回
「おいっ! 秋月。…今日は、特別だ。お前も握ってみろっ!」
思い掛けない井上の言葉が、左馬介に飛んだ。
「は、はいっ!!」
返事と同時に立ち、左馬介は思わず躓(つまず)いた。場内の全員が一斉に振り向き、爆笑の渦が起きた。山上が出奔したことで冷え切っていた門弟達の空気が、左馬介の予期せぬ失態で消え失せ、昨日までの活気が戻りつつある。
「ははは…、そんなに慌てずとも、よいぞ」
厳しい表情だった井上の顔も、すっかり弛(ゆる)んでいる。ただ一人、他の門弟達とは違い、一馬はすぐ真顔になった。左馬介が計算ずくではなく場内を和ましたことに、只者ではない異質の才を感じ始めていた。無論、この時点では、師範代の蟹谷、そして今、その蟹谷の代行をしている井上も、その才は全く気付いてはいなかった。左馬介は左側板に設けられた刀掛けの上段から、竹刀を背を伸ばして一本、手にすると、中央へと歩み出た。
「よしっ! 皆、稽古を始めぃ!」
井上の号令一過、各自が決め事のように二人一(ひと)組となり、打ち込み稽古を開始した。左馬介は一人、取り残された恰好である。
「おいっ! 秋月。構えてみぃ」
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十二回
しかし、それを云えば、斜め向かいは左馬介の小部屋なのだし、左馬介が嫌味を云われてもよさそうなものなのだ。やはり、反りが合わないからなのか…と、左馬介には思えた。
「先生には儂(わし)から報告する。皆は動揺することなく、いつものように組稽古を致せ!」
一同から、「ははっ!」と、素直な声が飛んだ。勿論、左馬介も釣られて返事をしていた。だが、幻妙斎へ如何に連絡するのかは、誰も分からない。
「井上! 儂に代わって指導せぃ」
「分かりました!」
井上孫司郎が了解の返事を吐いたのと同時に、蟹谷はドカドカと道場から出ていった。
「各自、竹刀を取れいっ!」
俄かに任され、意気込んだ井上の声が少し上擦っている。左馬介だけが片隅へと移動し、いつものように座る。他の門弟達は、側板に設けられた梯子状の刀掛けの竹刀を取っていく。側板に設けられた刀掛けは、正面の神棚から見れば左右の側に一ヶ所ずつ設けられており、片方は竹刀、もう片方には木刀が、恰(あたか)も簾(すだれ)の如く縦に並んで掛けられていた。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十一回
奇妙だとは思えても、やらねばならないという矛盾に耐えて、左馬介は日々、賄い番に汗を流した。
次の朝、一つの事件が起きた。何の前ぶれもなく、門弟の中堅、山上与右衛門が出奔したのである。その前日の夕餉まで、樋口を除く八名は、生活を共にしていた。
「いったい、何があったんだ!」
と、神代の顔を窺うように塚田が訊く。
「あ~ん!? 俺が知る訳がねえだろうが!」
塚田と相性がよくない神代は不満げで、殺気立ち、そう返した。他の者達も大方が顔を背けた。一人、師範代の蟹谷だけが、虚ろな眼差しで塚田を見て云った。
「そんなに、いきるな! 与右衛門。伊織ばかりが悪い訳でもないだろう…」
そう蟹谷に窘(たしな)められては、塚田も矛を納めざるを得ない。だが、そうは云ってはみた蟹谷にしろ、何故、山上が出奔したのか迄は分かっていなかった。狭いとはいえ、一人づつ与えられた三畳の小部屋がある。そして、定まった刻限になれば全員が行灯(あんどん)の炎を消し、そうして、やがては床に着く。これが堀川道場の決めであった。山上の小部屋は細い廊下を挟んで神代の真向かいにあった。塚田が神代の顔を窺って嫌みを云ったのは、そういうこともあった。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十回
間もなく、一馬が井戸から戻ってきた。両腕に下げた手桶を気持ちよさそうに土間へと置く。そして、一つは甕(かめ)の中へ水を注ぎ入れ、もう一つの桶は、柄杓(ひしゃく)で左馬介の洗い水として注いだ。急に手先へ感じる冷たさで、身体中の汗が一気に引くような心地よさを左馬介は感じた。
「…よく冷えてますねえ」
「ええ、…今はいいのです。しかし、冬場は、きついですよ。手先の感覚がなくなります」
「そうですか…」
「左馬介さんも、孰(いず)れ分かります」
一馬の忠言そのものは、左馬介の心の蟠(わだかま)りにはならなかったが、これから続く、先の見えぬ修行の日々を思えば、心が重くなる左馬介であった。
夏場は食材の足が早くなる、ということで、他の季節よりは少し塩味を濃い目に効かす。この話を一馬に付き従って聞きながら、左馬介は鋭い視線で惣菜に入れる塩加減などを覚えていった。汁物に入れる豆腐も夜迄は持たないから、夏場は茄子などで代用し、井戸へ鍋を吊るす、などという堀川道場独特の奇妙なことにも出食わした。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第十九回
「先生が直(じか)に、ですか!? 左馬介さんは恵まれておいでです。と、いうか、運が頗(すこぶ)るいい。私など、入門して一年になりますが、まだ一度として口を利いて貰えたことなどありません。いえ、私ばかりではなく、長沼さん、塚田さんなども、入門なさって数年になりますが、そんなことは未だ無いと云っておられました。ですから早い話、皆から見れば、先生は神の如き存在なんですよ」
そうなのか…と、左馬介は認識を新たにした。では、滅多と門人に声を掛けたことの無い幻妙斎が、入門して間もない未熟な自分に何故、声を掛けたのだろう…。左馬介を、また大きな一つの謎が包み込もうとしていた。季節は疾うに真夏で、昼間の暑気の残り香は、一馬と左馬介が片付けをしている厨房の辺りにも忍び寄ってきた。風さえ少しあれば…と、糸瓜(へちま)で茶碗や皿を洗いながら左馬介は思った。
一馬は裏木戸の近くにある井戸の釣瓶(つるべ)で水を汲んでいる。幾らかは疲れそうだが、水汲みの方が凌ぎよさそうに思えて恨めしく、左馬介は額(ひたい)の汗を片袖で荒っぽく拭った。夏の到来が余程、嬉しいのか、熊蝉らしいのが鳴いているようだ。昼間ほどではないにしろ、まだ充分に暗くなり切っていない所為(せい)なのだろう。左馬介の両耳に、じんわりと届いた。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第十八回
いつの間に現れたのか、左馬介の背後には、十日程前と同じように幻妙斎が立っていた。
「そうじゃ、一つだけ教えてやろう。日々、無益に座しておるだけでは気の毒じゃからのう…。獅子童子を、そなたの稽古相手だと思い、眺めてみよ。見るのではなく眺めるのじゃ。これを、遠山(えんざん)の目付と云う。頭、安らかに揺れる背、尻尾などを一ヶ所のみ見るのではない。全体を、遠方の山を眺めるようにおおらかに観よ、という教えじゃが、分かるかのう?」
左馬介は後方から響く声に、振り向くことも出来ず、「はい!」とだけ返していた。
実のところ、解せた訳ではなかった。ただ、先生の言葉全体を記憶に留めました…と、そんな意味合いで、『はい!』と答えたのだった。十日程前もそうだったように、その言葉の後、幻妙斎の姿は、微かな風を起こすこともなく忽然と消えていた。左馬介が振り向くと、師の姿など何処にも無く、僅かな気配すらも残っては、いなかった。
左馬介の胸中には、幻妙斎が口にした ━━ 遠山の目付 ━━ という言葉が残響し、師から初稽古を受けたような気の昂りを感じるのだった。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第十七回
「獅子童子は儂(わし)が飼っておる雄猫じゃが、飼い始めて十五、六年にもなろうかのう…。すっかり老いぼれおった。儂と同じ老人じゃわ…」と、幻妙斎は豪快に笑い飛ばした。そして、「じゃがのう…。あの猫の寝姿には、剣の極意と相通じるものがあるんじゃ。そなたにも、孰(いず)れ分かる時が来よう…」と云い置くと、蝋燭の炎が風で吹き消されるかのように、フッ! と姿を消した。幻妙斎のこうした神がかり的な消え様には左馬介も既に慣れつつあった。しかし、その出現と去り方は全く一方的で、変幻自在の幻妙斎へ近づける術(すべ)は、左馬介には未だ無かった。
半月ばかりが瞬く間に流れた。だが、左馬介に命じられる稽古といえば、相も変らぬ蟹谷による歩き稽古のみであった。それも、必ずあるというものではない。左馬介は、いつになれば打込みや掛り稽古が出来るのだ…と、徐々に不安が募っていた。そして、この日の稽古も終ろうとしていた。待つ甲斐もなく蟹谷の声は掛からず、左馬介は座を暖めていた。それでも、十日程前に幻妙斎が放った謎の言葉を想い出しつつ、何処からともなく現れる猫の獅子童子から何かを得ようと、毛並みを上げ下げして寝入る蕪顔(かぶらがお)の猫を見続けていた。
「どうじゃな…何か、分かったかの? ああ…そうじゃった。そのように、いとも容易(たやす)く分かれば、稽古する必要などないのう…」