このお話は、戦後の復興を支えた先人たちの熱き志を伝えた勇者の物語です。
前編は、出光佐三の人生で最大の出来事であった「日章丸事件」というとても信じられない奇跡のような事件を取り上げました。
その背景を少しお話します。
昭和20年代頃、イランは世界最大の産油国といわれていました。
しかし、イランの石油会社はイギリスが株式を保有していて、イランに渡っていた利益はたった16%で、しかも王族のみにしか渡っていなかったのです。
イギリスがイランの石油を独占。それは、半世紀以上も前に僅かな金額でその権利を獲得していたためです。しかし戦後、全世界で民族独立が多発したころ、イランにも同じ風が吹きました。そうして、イランは強引に全ての石油施設を全て国営化したのです。
イギリスは激怒し、軍事制圧を行いました。イギリスはイランを完全に経済封鎖したのです。
全世界にイランからモノを買うなといい、アラビア湾に海軍を派遣し海上封鎖まで行ったのです。
国際石油メジャーも同調し、今後イランの石油を買ったところには一切石油を売らないと宣言、これでイランから石油を買うところはなくなったのです。
そんな中、イタリアの石油会社が密かにイランから石油の輸入を試みました。イギリスがそれに気づき、タンカーごと没収してしまったのです。そのような出来事もあり、イギリスの本気に世界は恐れをなしていたのです。イギリスはもう一度宣言する。
「今後イランから石油を持ち出そうとするタンカーに対し、イギリス政府はありとあらゆる手段を講ずる」。つまり、撃沈も有り得るとにおわせたのです。
イランはこれで有り余る石油を持ちながら、世界のどこの国も自分たちの石油を購入してくれないという状況に追い込まれました。イランの資源は石油しかない、これでは外貨獲得は無理です。
イランはどんどん疲弊していく。イギリスに詫びて、石油施設を返還するか・・・・・。
同じ頃、国際石油メジャーに追い込まれていた日本の出光興産はとんでもない決心をする。
「イランの石油を買いに行こう!」重役たちは猛反対。
もし撃沈されたら・・・・・数億円かけて建造したタンカーが露と消え、完全に倒産となる。
「いまやらねばイランの将来はない。そして日本の将来もない」
出光佐三68歳はイランの窮地を救うためにも、買いに行くことを決断したのです。
そして『日章丸事件』が勃発しました。
その結果、日章丸事件は当時の日本に大変な影響を与えたのです。
国際石油メジャーの独占構造が潰れ、世界の産油国たちは直接各国と取引できることを知ることになったのです。そして日本は復興へと向かったのです。
この快挙は、出光だけでは絶対にできなかったのです。当時、石油を輸入する莫大な額のお金を工面してくれた東京銀行、あるいは保険を受けてくれた東京海上火災の重役、国のドル制限枠がありながら、貴重なドルの持ち出しを許可した通産省の官僚など、法律違反を犯してでも出光の決断を支える、あえて自分が犠牲になってでも出光を助けてやろうという、国のためを思うサムライたちが、この時代には銀行にも保険会社にも官僚にもいたのでした。
彼らがいなければ日章丸事件はなかったのです。
昭和28年当時の日本には、名もなき「出光佐三」が何千万人もいたからこそ、日本は立ち直ったのだと思います。
私事ですが、昭和35年頃の話です。
私が小学6年生の時に、父親から急用を頼まれて、姫路から奈良まで出掛けました。
その日のうちに帰宅する予定だったのですが、終電車となり途中の西明石駅で降りざるを得なくなりました。
自宅まで約35kmの距離があった。夜中12時を回っており、周辺では宿泊する所もなく、お金もそれほど持参していなかったので、国道を歩いて帰るしかなかったのです。駅から10分ぐらい歩いただろうか、黒い乗用車が少し行き過ぎた後、戻ってきたのです。
「どこまで帰るのかと?」と聞かれたので、「姫路まで帰ります」と答えました。すると、「乗りなさい。家まで送っていく」と言われたのです。
後部座席に座っていた方は当時、姫路市にある富士製鐵㈱広畑製鉄所(現:新日鐵住金)の重役さんだったと思います。専属の運転手さんが運転されており、大阪で会議があり、その帰りであるということでした。
重役さんの車は、高級車でふかふかのシートであったように記憶しています。
その時、私は安堵して、また何とラッキーなことかと大喜びしたのでした。
ここで私が言いたかったのは、そのような大きな会社で重役を務める偉い方が、私のような身分もわからない子供を夜道で声をかけて頂き、家の前まで送り届けて頂いたことです。
重役さんは名も告げず、私を降ろして、走り去っていったのです。
今もこの時のご恩は忘れません。
そして、昔は今回の主人公「出光佐三さん」のような気骨があり、慈悲に満ち、礼儀正しい方が多くおられたということを言いたかったのです。
2011年6月20日の出光創業100周年記念日には、「日本人にかえれ」の名言が新聞広告に掲載されました。
日本人が古くから大切にしてきた和の精神・互譲互助の精神、自分たちの利益ばかりを追求するのではなく世のため、人のためにことを成しなさいと、出光が訴えているように感じたのです。
出光は一途なほど日本という国を愛しながら、国家官僚を徹底して嫌った。戦時中は軍部にも堂々と楯突いた。燃えるようなナショナリストでありながら、第二次大戦前、反米気運の高まる中で平気で米系企業や銀行と手を組んだかと思うと、戦後、米国がにらみをきかせる世の中にあって、ソ連からの赤い石油を誰よりも先に輸入した。
出光ほどたくさんの仇名をもらった男は例がない。低能、ヤンキー、海賊、国賊、無法者、一匹狼、アウトサイダー、昭和の紀伊國屋文左衛門、利権屋、盗品故売屋、火事場泥棒、赤い石油屋、横車押し、横紙破り、ユダヤ商人、ゲリラ商人、怪商、快商、土俵際の勝負師、デマゴーグ、アナクロニズム、ニュースを作る男……。
その行動は奇想天外。つねに人の意表をつき、非常識と罵倒される。
だが、時が移ると、世は出光の決断にいつの間にかなびいていた。非常識を常識に変えてしまう魔法の杖を持っているかのようだった。その杖の謎は一体どこにあったのか。
出光の育った町は特殊な土地柄で、宗像大社という有名な神社があった。出光はその御神徳を受けたと考えている。出光は神社の復興を行ったが、「神というものを今の人はバカにしている。私にはバカにできない事実がたくさんある。私の会社は災害を一度も被っていない。理屈はいろいろつくかもしれないが、社員は神の御加護と信じているのだからしょうがない。また信じないわけにはいかないだろう」と述べているのです。
最後に・・・・・
出光佐三が昭和56年になくなったとき、
昭和天皇が歌をお詠みになった。
一民間人の死に対し詠まれたのは、他に例がないと思われる。
三月七日、出光佐三逝く
「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」
二人に個人的な親交はなかった。
にもかかわらず、国のために尽くした男と、陛下は認めてくださっていた。
出光佐三は戦後日本を立て直した偉大な男たちの象徴。
もう一度なくしてしまった日本人としての自信を取り戻さねばならない。
私たちの父親、そしてその父親の世代たちは戦い抜き、今日の日本を築きました。そして彼らのDNAを私たちは引き継いでいるのだということをもう一度思い出し、私たちももう一回頑張って次の世代に渡したいと思います。
---owari---
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