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窮地のイランを救った「海賊と呼ばれた男」(前編)

2016年04月03日 | 日本

このお話は、戦後の復興を支えた先人たちの熱き志を伝えた勇者の物語です。

戦後の日本の再生と発展を担ってきたのは、大正生まれの世代ということになります。

昭和20年、大正世代は19歳から34歳。昭和30年、ちょうど10年後で29歳から44歳。

つまり本当に日本を立て直したのがこの世代ということになるのです。

 

大東亜戦争で日本の為に戦い命を失ったのも、実は全て大正世代なのです。

自分の楽しみなんかひとつもなかったと思われます。

一言でいえば、この世代は他人の為に生きた世代なのです。

 

大正から始まり、昭和の高度成長期を駆け抜けていった、愚直にして華麓、冷徹にして情熱的、闘争本能に溢れながら滋味溢れる、波瀾万丈の、その人生を追跡してみましょう。

 

『海賊とよばれた男』とは、百田尚樹さんによる歴史経済小説です。

主人公の国岡鐡造は出光興産創業者の出光佐三をモデルとしている。国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が大企業にまで成長する過程が描かれている。2014年1月現在、上下巻累計で170万部を目前としたベストセラーとなっており、2013年4月、第10回本屋大賞を受賞しました。2016年には映画化される予定になっています。

 

なぜこの主人公が「海賊とよばれているのか」、その訳から話を進めていきます。

これ以降は、水木楊著 「出光佐三 反骨の言魂(ことだま)日本人としての誇りを貫いた男の生涯」が名文ですので、抜粋して転載させて頂きます。

 

大正の初め、関門海峡で、「海賊」と呼ばれる男がいた。海賊とその部下たちは夜中の12時から2時頃にかけて、漁船たちがエンジン音を響かせながら帰ってくるのを待ち構えている。海賊たちは漁船の音を聴いただけで、どこの船か分かるほど仕事に習熟している。

 

店から飛び出した彼らは、伝馬船で艪をこぎ、漁船に乗り込む。漁師たちが陸に上がる前に注文を取ってしまう。それからおもむろに彼らの給油船を差し向け、補給するのだ。

 

海賊の売る油は、変な匂いがした。それまでの漁船は燃料油に灯油を使ってきたのだが、海賊は軽油を売る。しかも、下級の軽油。これが臭い。しかし、値段が半分になったため、いつの間にか漁船は海賊の勧めるままに軽油に切り替えていた。

 

燃料油を日本石油などの元売り会社から買ってきてユーザーに売るのは小売りである特約店の仕事である。特約店は下関、門司、小倉、博多など地域別に分かれ、縄張りを作っている。

 

ところが、縄張りを持たぬ海賊は海上で殴りこみをかけた。文句を言われると、「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」と言い張った。海賊と呼ばれるようになったゆえんである。

 

それから、数年後の大正8年(1919年)2月、海賊は陸に上がり、厳寒の中国東北部(満州)にいた。長春のホテルの中庭である。生やさしい寒さではない。零下20度。鼻水をたらすと、たちまち氷の筋になる。

 

男の前にはコップが3つ置いてあった。コップには油が入っている。こんどは燃料油ではなく、汽車の車軸油にする潤滑油である。

 

男だけではなく、青い目の外国人も含めた数人の男たちもコップを見つめている。みな毛布を2、3枚かぶって寒さに耐えている。

3つのコップのうち2つは、スタンダード社とヴァキューム社の潤滑油が入っている。残るひとつは男の会社の油だ。男が自分で苦心して調合した油である。

 

やにわに男はコップのひとつを高くかざしてから、少し傾け、ひときわ高い声で叫んだ。「見なされ。凍ってはおらん」

男の手にあるのは自分の油で、液状を保っている。他の油は粘度を失い、固体になろうとしていた。

 

南満州鉄道、通称・満鉄はスタンダード社とヴァキューム社から潤滑油を購入していたが、その潤滑油が厳寒のため凝結して車軸が焼けるという事故に頭を抱えていたのである。潤滑油の実験で、男は勝った。メジャーともセブンシスターズとも呼ばれる巨大外資を追い落とし、満鉄への潤滑油納入を一手に握ることになる。

 

男の名は、出光佐三。身長1メートル70センチ。当時の日本人としては高い。丸顔だが、余分な肉はついておらず、頬がこけている。髪の毛は短く、額が広い。叡山から降りてきた僧兵の親分のような、荒くれた雰囲気を身にまとっている。声は甲高いが、金属性のキンキンとした響きではない。木管に似てわずかにかすれ、柔らかい。

 

眼鏡の奥にある目は小さく、視力が極端に弱い。その瞳孔は対象の人物や物体を見つめているようでもあれば、その背後にある何かを探ろうとしているようでもあり、捉えどころのない硬い光を帯びている。

 

舞台は長春のホテルの中庭から、34年後の神戸埠頭に移る。昭和28年(1953年)3月23日早朝、快晴である。

 

出光は埠頭の突端に立ち、1万8500トンのタンカーを見上げていた。当時としては最大級のタンカーで、真っ赤な腹を喫水線上にさらけ出している。船体はやや灰色がかった青。煙突に赤で出光の頭文字Iが浮き出ている。

 

出光が社運を賭して建造した虎の子の日章丸である。六甲、摩邪の連山が折りしもの朝日を受けてかすかに茜色に染まり、日章丸を見下ろしている。山頂は輝き、すでに朝が訪れている。

 

出航が近い。行く先はサウジアラビア、ということになっている。出光の手には白羽の矢がある。前日、わざわざ京都の石清水八幡宮を訪れ、心身を清めたうえ、神職の手から受け取った。

 

出光は日章丸に祈るように軽く一礼してから、タラップを上がった。船内には、故郷(福岡県宗像市)にある宗像神社が祭られてある。船長とともに、二礼三拍の祈願を済ませて、白羽の矢を奉納する。それから船長に密封した袋を手渡した。中にはガリ版刷りの紙が船員の数だけ入っている。

 

船長は緊張した面持ちにわずかな微笑みを浮かべ、袋を受け取った。日章丸の密命を知っているのは、船長と機関長だけである。

船が鈍いエンジン音を放ち始めた。出光は埠頭に降りる。五色のテープが舞う。何も知らない船員の家族たちがしばしの別れを惜しんでいる。次第に岸壁を離れていく日章丸を、出光は押しつぶされるような思いで見送った。

 

船の行き先は、実はサウジアラビアの港ではなかった。同じペルシャ湾内ではあるが、その最も奥に位置するアバダン、それはイランである。

 

イランはそれより2年前、英国資本のアングロ・イラニアン社を国有化。英国との関係は険悪になり、国交断絶の状態にあった。英国海軍はペルシャ湾を航行するタンカーの無線を傍受して、監視下に置いており、イランから石油を積み出そうとするタンカーがあれば、拿捕も辞さない構えを取っていた。事実、イタリア船籍のローズマリー号は拿補されて、アデンに曳航されてもいた。

 

日章丸はそのペルシャ湾奥、イランに分け入り、石油を積み出そうとしている。日章丸は出光が保有するただ一隻のタンカーである。拿捕されたら、社運は一気に傾く。しかも、日本は連合国による占領から独立したばかり。連合国の一翼を担った英国の横っ面を張り倒すような行動に、出光は打って出た。

 

神戸を出て11日後、マラッカ海峡を抜けたコロンボ沖で、日章丸の船長は東京本社からの無電を受け取った。船長は船員たち全員に行く先がアバダンであることを告げ、ガリ版刷りの紙を配って読み上げた。出光の檄文である。

 

「……行く手には防壁防塞の難関があり、これを阻むであろう。しかしながら、弓は桑の弓(日月の加護が宿ると考えられていた)であり、矢は石をも徹するものである。ここにわが国は初めて世界石油大資源と直結した、確固不動たる石油国策の基礎を射止めるのである」

 

船長が檄文を読み終えると、期せずして船員の間から「日章丸万歳」の叫び声が起き、続いて「出光万歳」「日本万歳」となっていった。

 

1週間後、「出光興産所属の日章丸、アバダン入港」の外電が世界中を駆け巡った。アバダンに翻る日章旗に、世界中が仰天した。

 

石油で満杯になった日章丸は、他船との交信を一切止め、ひそかにペルシャ湾を抜け出して、約1カ月後、日本に到着した。ペルシャ湾で英国海軍に撃沈されても不思議ではない状況だったのです。

戦後、力道山が外国人プロレスラーを打ちのめし、白井義男がダド・マリノからチャンピオンベルトを奪い、古橋廣之進がロサンジェルスのプールサイドに日章旗を掲げたとき、日本人は快哉を叫んだ。しかし、日章丸のイラン石油輸入ほど、敗戦と占領で打ちひしがれた日本人の心を奮い立たせた出来事はないだろう。 

 

以上が前編になります。

最近は前編、後編と分けていますが故意ではございません。あしからず、ご了承ください。

 

---owari---

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