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国宝「漢委奴国王」の金印

2016年04月05日 | 歴史

これほど単純明快な国宝はないと考えていた金印であるが、この国宝にも多くの謎と論点が残っています。

この金印は中国の史書に古代の日本に金印を与えたと書いてあり、実際に九州のある地域から金印が発見されました。ここまで史書と出土物が一致しているので、異論をはさむところがないと思っていたのです。

 

私たちが歴史の教科書で習った金印について、おさらいをします。

「金印」とは、「漢委奴国王」の文字が刻印された金印のことです。この文字は、通説では、(かんのわのなのこくおう)と読むと習いましたよね。「漢の(属国である)委(倭・わ)の奴国(なこく)の王」という意味です。だからこの金印は、奴国王が漢の皇帝からもらったと習いました。

 

中国史書の「後漢書(ごかんじょ)」には、後漢の光武帝の中元2年(西暦57年)に、倭奴国が朝貢し印綬(印とそれに付ける組み紐のこと)を賜ったことが記されているので、九州博多湾の志賀島で発見された「金印」はこの「印綬」であるとされています。

金印は、印面が一辺約2.3cm、高さ約2.2cm、質量約109グラムである。国宝に指定され、現在は福岡市博物館に収蔵されています。

 

謎を巻き起こした文字があります。それが金印の「」という文字です。

歴史の教科書では「漢奴国王」と刻印されておりとなっていますが、実際の刻印は「漢奴国王」となっているのです。「委」は「倭国」の古い文字、省略した文字とされていますが、これが大きな論点を生み出しているのです。

 

それでは、その謎と論点をピックアップします。

謎1:漢の皇帝からもらった金印は、奴国王なのか、委奴(いと)国王すなわち伊都国王なのか?

謎2:本物説と偽物説、どちらが正しいのか?

謎3: なぜ、志賀島から発見されたのか?

 

謎1は少しお話しましたが、それは、従来の「漢の倭の奴の国王」とする読み方と「委奴(いと)国王」すなわち「伊都国王」がもらったという説が出てきたのです。

2説の間では長年論争となっており、いまだに結論が出でいない状況です。

 

謎2は金印が偽物である、あるいは複製であるとの説が出たのです。しかし、この説は類似の金印が中国で出土したことが証拠となり、本物であるとされています。

 

1956年、中国雲南省で「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇の形の紐とおし)の金印が出土した。

それが「てん王之印」(てんおうのいん)」です。

 

つづいて、1981年、中国江蘇省で出土した「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」は亀鈕(亀の形の紐とおし)の金印であったが、字体や形状が「漢委奴国王」印とほとんど同じであったので同じ工房で作られたとされた。

 

さらに「委」は「倭」の省略形であり、中国史書「後漢書」<東夷伝の倭伝>に「光武帝の建武中元2年(57年)に、朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、この印綬が「漢委奴国王」印であることが確実になったのです。

 

謎3は、なぜ志賀島から発見されたのかということですが、今でも解決されていません。

「なぜ志賀島で?」が最大の謎とされています。

国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページには、『なぜ金印は志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もありましたが、全く不可解』と述べれています。

 

さて、以上が金印についての謎と論点です。

稚拙な私見ですが、これらの謎にアタックしてみました。

まず、1「金印をもらったのは、奴国王なのか、委奴(いと)国王すなわち伊都国王なのか?ですが、「奴国」を「なこく」と読むならば、委奴国は「いなこく」でしょう。「伊都国」にはつながらない。「いなこく」という地名は九州北部には存在しないのです。「伊都国」であるならば、「伊都」と刻印すればよいわけですが、そのようになっていないのです。

 

また、魏志倭人伝で諸国の国別戸数が記載されているが、「奴国」は20,000余戸、「伊都国」は1,000余戸となっているのです。魏志倭人伝が書かれた時代と後漢の時代は、200年近く時期がずれますが、これほどの戸数の差があれば、「奴国」が朝貢し、金印を授かったと推測するのが筋ではないでしょうか。

 

また、後漢書の記述を読むと、当時の日本列島は100ぐらいの国(集落)があって、そのうち中国に朝貢してきたある代表国に金印を授けて冊封体制(君臣関係)に組み入れたという書きぶりになっています。

 

従って、実際に金印を授かったのは「奴国」であり、現在の福岡市に存在した弥生時代最大の集落だったのです。漢は、倭の多数ある国々のうち、30ヶ国がそれぞれ「私が国王だ」と自慢しながら朝貢してきたが、そのうち(倭の総代として)奴国へ特別に金印を授けた、ということではなかったでしょうか。

 

残った謎は、3「なぜ、志賀島から発見されたのか?」ということですが、

この志賀島(しかのしま)は、博多湾の北部に位置し、砂州で島が九州本土とつながっている、いわゆる陸繋島(りくけいとう)です。周囲が約11キロ、面積は約5平方キロの志賀島は、最高点が169メートルの島です。遠くから見ると、平べったい島に見えます。

 

古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていました。

志賀島には弥生時代の遺跡が11ケ所も存在し、この狭い土地の中では異例とも思える多さです。

 

縄文時代後期の銅剣の鋳型や古墳時代前期の箱式石棺が発見され、「志賀島は古来“龍の都”と呼ばれていた龍をシンボルとする龍神族(海神にかかわる豪族)の根拠地」であった、としている。

 

龍神族に深いつながりがあるのが、島の南にある「志賀海神社」です。この神社は海神である綿津見三神を祀り、ここがなんと全国の綿津見神社の総本宮であるという。

また、万葉集には志賀島の歌が23首もあり、島内には10くらいもの歌碑がある。

 

「卑弥呼の部族神・綿津見神の本貫地(氏族集団の発祥の地)」と「金印の出土地」は同じ志賀島であり、両者には密接な関係があったのではないでしょうか。

 

もっと言えば、金印の所有者の部族神も綿津見神ではなかったかということです。そのために、聖地であった志賀島が埋納場所に選ばれたのではないかと思うのです。

 

金印の所有者は奴国王である。卑弥呼と奴国王は、共に綿津見神を奉戴する同じ部族の出身だったのではないだろうか。つまり、卑弥呼の出自も奴国の王族ではないかということです。

 

金印が発見された江戸時代中期頃は、志賀島は「島」であったかもしれないが、金印を授かった弥生時代、志賀島は九州本土とつながっていたのではないかと私は想像しています。だから、綿津見神社の総本宮である「志賀海神社」が鎮座しているのです。孤島であれば、それほど発展はしなかったのではないかと、そうでなければ、弥生時代の遺跡が島に11ケ所も存在する理由が見つからないのです。

 

皆さんもこの金印の謎の解明に挑戦してはいかがでしょうか?まだまだ謎は残っています。

漢の光武帝が「倭」を「委」に彫刻したのか?(私は故意に刻んだと思っています)。

後漢書に記載された「倭国之極南界也。光武賜以印綬」の「極南界也」はどこを指すのか?など、

論点はまだあります。時間がある方はトライしてみてください。

 

それでは、最後にもう一つの金印について、お話します。

「漢委奴国王」の金印のほかに、『魏志倭人伝』にはもうひとつの金印が日本に伝わったという記事があります。

 

景初(けいしょ)3年(239)、邪馬台国の女王であった卑弥呼が魏の都へ貢ぎ物を贈ったことにたいして授けられた金印です。「今汝を以て親魏倭王(しんぎわおう)と為し、金印紫綬を授ける」とありますから奴国王と同じ紫の組み紐(ひも)が鈕(ちゅう:つまみ)にゆわえてあったことが分かります。

 

卑弥呼の使者をつとめた難升米(なしめ)と牛利(ごり)も銀印青綬を与えられたとあります。

印綬はもともと公的なものですから、死後返還されるのが中国のなかでは通例であったようです。しかし当時の中国の都から遠方の地であった雲南省では、「てん王之印」が墓に納められた例もありますから、辺境の地、倭の人々に与えられた印綬がそのまま日本のどこかに眠っている可能性は高いと思われます。

 

もし親魏倭王(しんぎわおう)の金印がみつかったら、まだ場所が特定されていない邪馬台国の有力候補地となります。

邪馬台国というこの大きな謎を解明させる親魏倭王(しんぎわおう)の金印が、この日本の地で見つかることを願ってやみません。 

 

---owari---

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