(宗教思想に見る性善説・性悪説と戒律)
宗教的に見ても、おそらく、「悪を咎(とが)める考え方」もあれば、「善のほうを強く見る考え方」もあるでしょう。
自由を善とする考え方から見れば、いろいろな戒律(かいりつ)があったり掟(おきて)があったりすることは、非常に人間を縛(しば)るように見えるかもしれません。しかし、たいていの場合は、「経験上、こういうことをしていると人間は駄目(だめ)になる」というようなことを禁止する趣旨のものが多いのです。
[宗教の戒律①―殺すなかれの戒め]
例えば、旧(ふる)い宗教などを見ても、「人を殺すなかれ」というような教えがあります。
確かに、学校で共同生活をしていて、クラスメイトが誰かを窓から突き落として殺したとか、ナイフで刺(さ)して殺したとかいうようなことになれば、当然みな、「人殺しをした人とは一緒(いっしょ)に勉強したくない」と言うでしょう。
そうしたこともあるでしょうから、古典的になかなか許せないものはあるわけです。
[宗教の戒律②―飲酒への戒め]
それから、お酒などもそうです。
大人はお酒を飲んでもよいことになってはいますが、旧い宗教を見ると、お酒に関する戒(いまし)めがあるところが多いのです。あまり言わないところもありますが、やはり、人はお酒を飲むと理性が失われてくるので、罪を犯してしまうようなことがあります。
あるいは、お酒を飲むと荒(あ)れてしまって、素面(しらふ)であればそんなことは絶対にしないと思うようなことをしてしまい、それを人に咎められるようなこともあります。そのため、戒めることがあるのです。
[宗教の戒律③―異性関係の戒め]
それから、男女間の問題においても、「快・不快の原則」で言えば、自分が好きになったら、いろいろな異性のところに接近していき、「自分のものにしたい」と思うのは普通の本能でしょうし、昆虫や動物などは、その本能のままに動いていることはあると思います。
例えば、「オシドリは、一夫一婦制で非常に平和な家庭を築いている」というように言われることがあります。ところが、現実はそうではなく、別々にいるときには、ほかの雄(おす)や雌(めす)に対して求愛行動をしているとされているので、このあたりは、難しいところがあるでしょう。
(「集団の経験則から来るルール」と「個々人の本能」のぶつかり)
そのように、「快・不快の原則」から言えば、現実にはそぐわないのだけれども、そうしたことをあまり無戒律(むかいりつ)にやっていると、家庭騒動(そうどう)が起きたり、社会的な不和が起きてきたりすることが多いので、あらかじめ柵(さく)をつくり、「ここから転落しないように」といったことを教えるわけです。
こういうことがあるので、動物などに比べて、人間は社会生活が複雑になってきます。そして、そうした集団的な経験則から、だんだんと、「こうしたほうがいい」と言う人が複数出てくるようになるのですが、自分の本能のほうが強い人の場合は、それをなかなかきかないのです。
ただ、そうしたときに、「きかないままで通る場合と、通らない場合とがある」ということです。
特に、力を持っている者の場合、かえって猛獣(もうじゅう)と同じようなことになり、一般社会の法則を踏(ふ)み破ることがあります。
例えば、大臣や社長など、自分には地位があるということで、普通の人ができないようなことをする人もいれば、お金、財力があり、「お金で買えないものはない」ということで、自由にやりたがる人もいるでしょう。
そのあたりに関しては、いろいろなものが出てはくるので、そのつど、その善悪についてさまざまに議論されていくことになるわけです。
---owari---
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