暗雲たなびく時代の怖さを言いたいわけではありません。悲惨な時代、困難な時代であっても必ず希望の光はあり、それを見つけ出すのは私たちの想いであると言いたいのです。
戦争が起きる原因は、経済的な飢えということでもって攻めてゆかざるを得ない、ということだけではないのです。もっと根源的なる理由として、相互の理解ができないということが原因となっています。
理解できない原因は、文化に共通項がないことが多いからです。共通の言語、共通の文化、共通の行動様式を持たないところに不信が生れます。そして、相手の考えが理解できないところから憎しみが生まれ、争いが生まれてきます。これも戦争の大きな大きな原因のひとつです。
これをなくしてゆくためには、人類共通の文化とでも言うべき価値基準が、どうしても必要になるのです。今までのキリスト教文化圏だけでは世界を包み込むことはできません。それは、二千年の歴史が証明しています。
たしかに今、西欧型の自由主義がかなり勝利したかに見えるようになってはいますが、その勝利したと見えるときが、実は没落へのスタートでもあります。
今、この二十一世紀に生きている約七十億の人びとにとって、もし共通する物差しなり、主義なり、主張なりがあるとすれば、おそらくそれは「民主主義」という名で呼ばれているものでありましょう。
私たちが共産主義とか社会主義という名で呼んでいる国でも、建前は民主主義です。多くの人びとの意見によって行なうということを、一応建前としています。民主主義と自由主義とは必ずしも一致するものではなく、それは共産・社会主義国をも含んだ両者でとられている考え方なのです。
しかし、二十世紀最大の価値であるこの民主主義が、民主主義であるがゆえに報復を受ける時代がこれから始まります。いやすでに始まっています。それはなぜでしょうか。
今、あまりにも多くの人間が地球上に住み過ぎているのです。そしてそれは膨張しつつあります。
中国は、13億人います。インドは、12億以上います。アフリカも相当数います。このように、数が増えています。
民主主義というのは、多くの数の意見を反映するという考えです。その民主主義というものが、実は民族の数の膨張そのものによって破壊されてゆくのです。
民主主義が成り立つ前提は、それを支えている諸国民が良識を持っているということなのです。彼らに一定の自覚と、教育水準、生活水準があって、多数の意見に従っていれば国が健全に経営されてゆくということが、その前提なのです。それが民主主義が正義である前提なのです。
ところが、その大多数が、数億、数十億という人が食べてゆけず、教育も受けられないような状態になったら、いったいどうなるでしょうか。民主主義の前提が崩れてゆきます。それは必ず衆愚政に堕ちてゆくのです。
衆愚政に堕ちてゆかないための前提は、目覚めたる市民がいるということです。そうでない場合には、ほんのひと握りでも、国を建て直して人びとを救う優れたるリーダーが出なければ、彼らが生き延びてゆくことはできません。
今、二十世紀最大の理念である民主主義そのものが新しい挑戦を受け、そして揺らいでゆくだろうと思っています。
それでは今、日本に住んでいる私たちの立場から言って、やらねばならないことは何でしょうか。
経済的な面で世界を再建し、飢えをなくし、全世界を支えてゆくという方向には莫大なる力が必要ですが、可能性はあります。私たちには可能性があります。
しかし、それには自覚が必要です。自国の経済のみうまくゆけばよいという程度の自覚ではなく、あの国もこの国も、飢えたときに助けていけるか、戦乱になったときに助け、救っていくだけの力があるか、というところまで考えた経済政策をつくっていかねばなりません。
このように経済においては、企業の論理だけではなく、国自体が使命感を持たねばなりません。これがひとつの対策です。これは比較的やり易いことでありましょう。
もうひとつは、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教といった諸宗派を超えた全地球的な価値観をつくって、世界中に浸透させるということです。この価値観、文化が共通の言語の代わりになるのです。これをつくらない限り、どうしても世界はひとつにはならないのです。
アメリカの側から見れば、神の心に照らしてみて、イラン等の動きは悪魔の動きであると見ています。一方イランの側では、アメリカはサタンの代表だと見ているのです。両方がそのように思っているのです。
そこにあるものはいったい何でしょうか。それは、多様なるものを包摂する理念が欠けているということです。
多様なる価値観というものは、現実にはあります。個人にそれぞれ性格の違いがあるように、民族にも国家にも性格の違いはあります。
多様なるものは、本来よきものとしてつくられたものです。多様なるものが進歩向上を目指して努力してゆくなかに、人類全体の向上があります。それゆえに、多様なる考え方と多様なる個性が許されているのです。
しかしそれは、発展向上を目指してゆくときにのみ許されていることであって、お互いを害し合い、傷つけ合い、堕落してゆくための多様性であっては許されないのです。そのようなものは、神の想定している正義とは違ったものなのです。
ゆえに今、私たちはどうしても宗教や哲学や思想を超えて人類をひとつにまとめるための理念を打ち立てねばならないのです。
すべての価値観を統合して共通の言語、共通の文化を築くこと、このようなすべての統合こそが、人びとが多様なるままにお互いを理解し、永遠の神に向かって向上してゆくための唯一の可能性なのです。
困難であっても、やり遂げなければ、明日の世界に希望はないのです。
---owari---
小難しいテーマを深く読んでいただき、有難うございました。
すみれさんのご見識にはいつも頭が下がります。
ブログ以上のご意見に圧倒されるばかりですね。
先日のすみれさんのブログ「危機管理能力について考えさせられた瞬間」はアテンションな話題を臨場感あふれる口調で語っていただき、有難うございました。
危機管理能力や現状認識能力の大切さを教えて頂きましたね。
「ポケモンGO」にあれほどの関心を示すのであれば(メディアだけ?)、それ以上に注意を払わなければならない世の中であることを知っていただきたかったですね。
すみれさんのブログはその点に警鐘を鳴らして頂いたと感謝しています。
有難うございました。
勝手ながら私のブログのブックマークにすみれさんのブログをリンクさせて頂きました。ご了承ください。それからパパさんの手術は無事に終わり、お元気でしょうか。
またの機会にお教え下さい。
民主主義って難しい局面があると思います。
民主主義は、「国家や集団の権力者が構成員の全員であり、その意思決定は構成員の合意により行う体制・政体を指す。」と定義されますが、その構成員があまりにも異なっていたら民主主義は成り立たなくなりますよね。
マズローの欲求5段階の中で、最低限、生理的欲求と安全の欲求が満たされない限り、その上の社会的・尊厳・自己実現の高次の欲求まで考えることはできず不満ばかり残ります。
民主主義は最低限の生活の安定があってこそ成り立つ主義・思想だと思います。
また、世界は国家、民族、言語、宗教、思想、気候、経済、教育、年齢、性別などさまざまな異なる要素で成り立っており、考え方や生き方は異なり、皆それぞれに自分のことが正しいと思っています。
信念の対立は民主主義で解決することは不可能です。
大いなる神か悪魔が現れ、地球を支配するしか方法はないかもしれません。
この信念の対立を研究している学者さんがいます。
構造構成主義を研究している早稲田大の西條剛央先生です。
構造構成主義は、何にでも通用する「原理」や 「すべてにあてはまる共通の本質」を 探り出すメタ理論の学問なんです。
多くの研究者や医師など医療関係者が先生のセミナーに通い、学問・医療等の信念対立の解決策を探求しています。
私も参加して学びましたが、結構難しくて・・・
でも、固執した考え方を変える機会になりました。
とにかく、このゆびさんが言われるように、古い民主主義はすでに破綻していることを自覚し、新しい思想原理を構築していく必要があると思います。
なかなか難しいですね。