(「幸・不幸」の相対感がなければ達成感は味わえない)
「幸福か、不幸か」「楽しみか、苦しみか」ということは相対的なものです。しかし、この相対感がなければ、達成感、「自分が達成した。自分が成功した」という感覚、あるいは、「自分がこれを進めた」という感覚は味わえません。そのため、人は、どうしても、その両極端を感じられるようにできているのです。
もし、片方だけしか感じられないのであれば、要するに、“快感ホルモン”しか出ないので、快感刺激しか伝わらないのであれば、どうでしょうか。
神経が伝えるもののなかには、「痛い」「冷たい」「熱い」などの感覚があります。もし、こういうものがなく、快感の神経しか張り巡らされていなければ、それなりに大変だろうと思います。「壁を触っても快感だ。エレベーターのボタンを押しても快感だ。太陽の光が当たっても快感だ。雨が当たっても快感だ。何をしても快感だ」ということでは大変でしょう。
そういう人生を送った人はいないでしょうが、万一、生まれつき快感神経しかなく、快感ホルモンしか出ない人がいたならば、それもまた、ある意味で不幸な人なのかもしれません。
周りの人が、「雨が降って体が濡れた。寒い。冷たい」と言っているのに、その人は、「快感だ」と言っているわけです。「日が照っても快感だ。風が吹いても快感だ。何でも快感だ」と言う人は、おそらく、「珍しい人だ。こんな人は、一億人に一人もいない」ということで、動物園の動物のように檻(おり)のなかへ入れられ、テレビに映されて、見せ物にされるでしょう。それで、やっと不幸が訪れてくるのです。
そのように、何でも快感であれば幸福かといえば、そうでもないわけです。「適当に、よいものと悪いものも感じる能力があるからこそ、その相対感のなかで磨かれていく」というところが人生にはあるのです。
したがって、鬱(うつ)の状態になり、自分に対してネガティブ(否定的)な評価、マイナス評価をしすぎる人は、「待てよ」と、一度、立ち止まって、考えてみてください。前述したように、傍目には、プラスの状況、ほめられる状況があっても、不遇をかこつ人はたくさんいるので、そうなっていないかどうかを考えてみることです。
ある勝ち負けの物差しから見ると、確かに、「自分は負け組に入った」と思うことがあるかもしれません。しかし、勝ち組の人のなかにも、別の物差しで見ると負け組に入る部分を持っている人はたくさんいますし、負け組の人のなかにも、別の物差しで言えば勝ち組に入るものを持っている人はいるのです。
「出世競争では負け組に入ったかもしれない。しかし、家庭は円満であり、豊かな家庭生活を送っている」という人もいます。一方、「出世競争では勝ち組に入った。しかし、家庭生活のほうは厳しい」という人もたくさんいます。出世の代償、成功の代償、家にもろくに帰らないで仕事をしつづけたことの代償で、そうなることもあります。
そのどちらを選ぶかというと、やはり、何とも言えない部分があるのです。
---owari---
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