「人生の再建」というテーマで語ります。その主旨はいったい何であるか。結論をまず最初に述べるとするならば、「不幸もあるでしょう。失敗もあるでしょう。挫折もあるでしょう。しかし、どのような境遇からでも、幸福への出発というのはありえる。それを考えてみようではありませんか」ということです。これを題して、「人生の再建」と称し、語っていきたいと思います。
まず、いちばん最初に述べておきたいことがあります。
それは、仏教のなかで言われる、「恨み心で恨みは解けない」という言葉です。この一行の文句、これがわからない人が数多くいるのです。
苦しみ、悲しみ、病気、挫折、そういうもののなかに自分があるとき、人はどうしても、自分以外の何かのせいにしてみたいという気持ちになります。そして、その気持ちが、単に自分の本来あるべき姿から逃げた姿勢であるだけではなく、もっと積極的に他の人を恨むという感情となっている方もいます。
たとえば、原爆という、理不尽ともいえるような攻撃によって、一瞬にして、十万人、あるいはそれ以上でしょうか、それだけの方が亡くなり、また、多くの方が今も重い病気のままに生きています。こうした方がたの身内の方、遺された子孫の方は、心穏やかではないと私は思います。そのなかに、はっきりいえば、この「恨み」という言葉に近い感情を持っている方もいるでしょう。
説明がつかないもの、自分の力ではどうにもならないものが、自分の人生を、自分たちの人生を変えてしまった。しかも、悪い方向に変えてしまった。そのときに、どうしても許せない思いというものが湧いてきて、思わず知らず、そうした行為をした人や国を恨んでしまう気持ちになってしまうものです。
ごく自然な情といえばそれまでですが、しかし、そのような思いをもってしては、決して幸福になることはできません。成功をすることもまた、できないのです。まず最初にこれを言っておきたいのです。
なぜであるか、おわかりでしょうか。
自分の心の傷、自分たちの心の傷をストレートに吐き出しているならば、それで胸の内はすっきりするように思うかもしれませんが、その実、そういう心でもって生きつづけるということは、自分自身の魂が、知らずしらず、毎日毎日、砒素の毒とでもいうべき毒素を飲みつづけることにほかならないのです。
正義の観点からいって自分の思いは正義である、と思うかもしれませんが、残念ながら、いかなる理由がそこにあるとしても、人を恨むことによっては絶対に幸福になれない、ということになっているのです。
それは、その思いが、その本質をつきつめたならば、相手を不幸にしたいという気持ちだからです。いかなる理由に基づくにせよ、他の者を害したいという思いは、仏の心に反する思いなのです。その思いは、単に相手に届くのみならず、必ず自分自身に返ってくるようになっています。それが法則なのです。心の世界には、じつは一定の法則があって、何人もそこから逃れることはできないのです。
この宇宙には、一本のしっかりとした価値基準とでもいうべきものがあります。一本の柱があります。この黄金の柱のなかで、考え、行動している人たちには、無限の進歩、進化というものが許されていますが、この黄金の柱、チューブのなかからはみ出た思いや行動は、その人の魂の進化には決して役立たないのです。ちょうど、宇宙船から飛び出して、命綱が切れて宇宙を漂うかのごとく、進みたい方向に進めなくなってしまいます。そういう事実があります。
今から70年余り前のこと、オーストラリアはシドニー湾の海底を、二人の日本人が、まっしぐらに進んでいました。特殊潜航艇といわれる小さな潜水艦です。それは、艦の前に爆弾をしかけた潜航艇であって、外からハッチを閉められると、中から出てくることはできません。神風特攻隊の潜水艦版です。シドニー湾を港に向けて進んでいく、こうした二隻の潜航艇がありました。
一隻は、残念ながら、その目的を達することなく、事故により、海底でそのまま動かなくなってしまいました。もう一隻は、すすみつづけて、湾内にあるオーストラリアの貨物船の底に命中しました。そして、その乗務員は死にましたが、貨物船自体も大破し、沈んでしまいました。
ところが、オーストラリアの人たちは、それをどう見たかというと、驚いたのです。自分たちの船が沈められたという事実にだけでなく、自分の生命を懸けて勇敢に突進してくる兵士がいたということに驚いたのです。そして彼らは、その無名戦士の、勇敢な日本人のために記念碑を建てました。自分たちの貨物船を沈められたことを恨むのではなく、生命を賭してやってきたその兵士たちの心を思うときに頭が下がったということです。
日本の特殊潜航艇の無名戦士に対し、戦時中にも拘わらずオーストラリアは海軍葬を行い、敬意を払ったのでした。
ここには、善悪とか、正義とか、そういうものを超えた何かがあるように思います。損得とか、敵・味方とかいうものを超えた何かがあります。
オーストラリアという国は、現在は日本とひじょうに関係がよいわけですけれども、昭和40年頃までは、対日感情はあまりよくありませんでした。そういう国でも、このように記念碑を建てるということが行われました。日本人に対してではなく、日本という国に対してでもなく、そうした個人に対して、彼らは感動を覚えたのです。
そこに、考え方のひとつの違いのようなものを、私は感じました。何か個人の利害を超えたもの、相手の人間性を思いやる心といったようなものがあるように思えたのです。
---owari---
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