もし、この地上に、他人の幸福を願う人と、他人の不幸を願う人とが、半数ずつ、いたならば、どうなるでしょうか。
たとえば、他人の幸福を願う人が五千万人いたならば、幸福な人が一億人つくり出されることになります。ところが、もう一方に、他人の不幸を願う人が五千万人いたならば、不幸な人が一億人つくり出されることになります。一億人の幸福な人と、一億人の不幸な人――。それは、結局、「幸福でも不幸でもない人が一億人いる」ということになってしまいます。
それでは、この比率を変えていくと、どうなるでしょうか。他人の幸福を願う人が六千万人になり、他人の不幸を何とも思わない人が四千万人になったならば、地上には、幸福な人が一億二千万人でき、不幸な人が八千万人できることになって、その差は四千万人となります。
「他人を幸福にしたい」と思う人が、さらに増えていくならば、どうでしょう。
他人の幸福を願う人と他人の不幸を願う人が半数ずつならば、共に、その効果は帳消しになりますが、片方が他方をしのぐと、その差となる一人の思いは二人分になって表れ、二人の思いは四人分に、十人の思いは二十人分に、百人の思いは二百人分にと増えていくことになるのです。
そして、この方程式には、さらに応用問題が加わってきます。それは、「一人が二人になる」ということです。ある人が一人に愛を与えれば、愛が二人に来て、ある人が一人から愛を奪えば、愛が二人から奪われますが、それだけではなく、「その行為そのものが伝わり、広がっていく」という側面があります。これを見落としてはならないのです。
一人の人を幸福にする行為は、相手を幸福にするのみならず、自分をも幸福にし、この地上に幸福な人が二人生まれるわけですが、幸福を与えられた人は、その幸福を、与えてくれた人に与え返すだけではなく、幸福になった心でもって、他の人々にも分け与えていきます
つまり、「幸福には伝染性がある」ということです。「愛を与える」という行為は伝染していくのです。
逆に、「愛を奪う」という行為も伝染します。
他人から愛を奪う人が一人いると、愛を奪われた人は苦しみ、その人も誰かから愛を奪います。すると、その誰かも、また次の人から奪おうとします。このように、たった一人が他の人から愛を奪っただけで、多くの人々が、次々と愛欠乏症になっていきます。こういう連鎖もあります。
そうしてみると、一人の行為の影響はとても大きいことが分かります。
こうした現実に鑑み、「この地上には、仏の愛の実現のために行動する人が、次々と出てこなければならない」と私は思うのです。
一人の人が愛の実践をしただけで、その愛は次から次へと広がっていきますが、同時に、他の誰かが愛を奪う行為をすると、その愛は帳消しになってしまいます。したがって、愛の生産者を数多くつくっていくことが大事です。他の人々に愛を与える人が数多く出てくることが肝心なのです。
愛は幸福の卵です。愛は幸福の基です。人が、いちばん幸福感を感じていられるのは、愛に満ち満ちているときです。なぜなら、そういうときは、その人にとって、「この地上に存在していることが、うれしい」という時間でもあるからです。愛を与えると、他の人からも結果的には愛されることになるのですが、みずからが愛の発信基地になっていること自体が大きな喜びになっているのです。
ゆえに、あなた自身が、一人ひとりが、愛の発電機にならなければいけません。みずから愛を発電し、愛を増幅する人が満ちてこそ、世の中は次から次へとよくなっていくのです。
愛は幸福の卵であり、幸福はユートピアの卵です。「愛から幸福を、幸福からユートピアを――。
そして、ユートピア社会ができたならば、そこに、また愛が満ち満ちてくる」、そういう循環がありうると私は思うのです。
---owari---
『人は愛するために、そして愛されるために生まれてきた』という言葉を聞いたこともあります。
もちろん、どちらも、すべて気高くたいせつな言葉です。
もちろん、こういう事は、だれでも言葉としては、わかっていると思います。---けれども心の底からは理解していないですね。
でも、私は、ブログ主宰者様の、この文章を拝見して、少し理解が深まりそうな気がします。
いつもコメントをお寄せいただき、有難うございます。
引き続き、ご愛読いただいていますこと、感謝いたします。
頭でわかっていても、心底から理解しにくいこと、ありますよね。
舞花さんが「この文章を拝見して、少し理解が深まりそうな気がします」というコメントに救われます。
これからもよろしくお願いします。