現代の知識人には、
霊魂や霊界の存在を伝える、哲学者プラトンが、
人間を迷信の殻に 閉じ込める暴君に、
見えてしかたないらしい。
また、プラトンとともに、
神への体系を築こうとする 哲学者ヘーゲルも、
全体主義者に見えるらしい。
それで、ドイツのヒットラーが、
プラトンやヘーゲルの思想に 踊らされて、
全体主義ファシズムを唱えて、 破滅への暴走をしたことになる。
だから、サイコロの山を崩して、
偶然に、バラバラに、 まき散らかされた社会こそ、
実存主義的民主主義の社会となると 考えるのだ。
ゆえに、 愚かな民主主義社会には、
神もいらず、霊界もいらず、
ましてや、霊魂など、あってたまるか、 ということになる。
私も、四次元以降の高次元世界に 包まれて、
この三次元世界が卵のように 存在していると主張している。
私は“開かれた社会”を 説いているつもりだが、
それを
「閉じられた社会」と観ずる学者も 多いのだ。
モノしか存在しなくて、
肉体が生存を求めて うごめいている社会が、
本当の社会だと思うか、
手に触れ、口に入るものだけが
実在だと思うか。
神を信ずるのは原始人の証明だと 思うか。
基本的人権とは、食べて、着て、
生きることだと思っているのか。
―――――
ポパーは、この世での知識と 経験によって学んだことでもって、
己の哲学を構築しました。
しかし、プラトンは、この世 ——三次元世界のみならず、
あの世——四次元以降の世界をも 体験したうえで、
哲学を構築しているのです。
ですから、賢明な読者であるならば、
一体どちらが、 「開いた社会」について語り、
どちらが 「閉じた社会」について 述べたのかを推察できるはずです。
要するに、
人間をこの世だけの存在であると 規定する思想は、
閉じた社会の哲学なのです。
そして、人間は
この世とあの世の両界に またがって生きる存在だ
と考える思想こそが、
開いた社会の哲学だと 言えるのです。
―――――
人間にとって、 いちばん重要なものは、
かえって存在証明になじまないものが 数多くあるのです。
いつの時代においても、そうです。
いつの時代でも、 いちばん大切なものは、
その存在を証明できないことのほうが 多いのです。
神――愛――勇気――
叡智――善――優しさ―――
美――調和――進歩――
慈悲――真理――
真心――無私。
これらはすべて、 宇宙に満ち満ちている実在であり、
光の世界においては、
これらの言葉を知らない方は ひとりもおりません。
しかし、この地上では、 だれひとりとして、
そうしたものが、 確かなる存在だと
証明することが できないのです。
なぜならば、
これらの大切なるものは、 すべて
四次元以降の 実在界にある存在だからです。
すなわち、三次元的材料を もってしては、
証明することができないのです。
---owari---
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