鎮守(ちんじゅ)の森から学んだ最新生態学理論で、宮脇昭(横浜国立大学環境科学研究センター教授)は国内外のふるさとの森づくりを進めている。
(神戸を護ったふるさとの木々)
ヘリコプターの下には震災後の神戸の街の惨状が広がっていた。ちょうど子供の頃に見た、戦争直後の東京や横浜の焼け野原を宮脇は思い出していた。
しかし、よく見ると、所々に緑のかたまりが見える。小公園の小さな樹林や神社の森がそのまま残っているではないか。神社のコンクリートの鳥居が傾き、社殿が倒壊しているのに、鎮守の森の木々は一本も倒れていない。そこには難を逃れた人びとが集まっていた。
埋め立て地のヘリポートに着陸し、タクシーで長田区に入った。猛火に焼けただれた鉄の塊の間で、少女とその父親らしき人が一生懸命に手で土を掘っている。母親の遺骨を探しているようだ。しかし、神戸に多いアラカシの並木の裏にあるアパートは、並木が火を食い止め、延焼を免れていた。
多くの家が猫もはい出せないくらいペシャンコになっているのに、そばに土地本来のカシノキやシイノキが一、二本あったところでは、傾いた家の屋根がひっかかり、完全な倒壊を免れていた。これで助かった人たちもいただろう。
高級住宅が張り付いている六甲の急斜面では、岩石のかけら一つ落ちていなかった。アラカシやモチノキ、ヤブツバキなどの常緑広葉樹が深く根を張って土砂崩れを防いでいたのだ。
(「現存植生(しょくせい)」と「潜在自然植生」)
「その土地本来の森であれば、火事にも地震にも台風にも耐えて生き延びる。災害対策の意味からも、それぞれの地域の主役となる木を中心に森を作るべきだ」。宮脇はこう主張してきた。神戸での光景に、宮脇は驚くと共に、自分の説が間違っていなかったと確信した。
1958年から2年間、宮脇はドイツ・国立植生図研究所のチュクセン教授について植物社会学を学んだ。教授と共にヨーロッパ各地の植生を徹底的に現地調査しながら、「現存植生」と「潜在自然植生」を研究した。「現存植生」とは現在、その地にある植物群落であり、長年の人間の活動に影響されていて、その土地本来の植物群落である「潜在自然植生」とは異なっている事が多い。
たとえば日本の本来の「潜在自然植生」は、冬も緑のシイ、タブノキ、カシ類など広葉樹林である。ところが現在、我々がよく見る森とはスギ、ヒノキ、マツの針葉樹林である。これらはもともと広葉樹よりも生命力が劣っていたので、尾根筋、急斜面、谷筋など広葉樹のすき間に自生していた。ところが、戦後、急速な住宅建設の必要に迫られ、早く育つスギ、ヒノキ、マツ類の画一的造林が進められて、全国に広まった。
(「鎮守の森」こそ日本の「潜在自然植生」)
その土地本来の植生とは異なる、生命力の弱い種に植え替えたつけは大きかった。マツはマツクイムシに赤茶け、さらには樹幹が白骨のようになって枯死する。瀬戸内海沿岸などで春先に何日も山火事が続くのはほとんどマツ林である。カラマツ植林地は根が浅いために、台風のあとは根こそぎ倒れてしまう。また生命力の弱いスギは子孫を残そうと一生懸命、花粉をばらまき、多くの人を花粉症で悩ませる。
帰国を目前に控えて、日本列島の本来の「自然植生」とは何かと考え始めた宮脇の心にふと浮かんだのが、子供の頃、ふるさとの岡山・御前神社の秋祭りの光景だった。夜中の1時から始まる神楽(かぐら)を見に、人びとが集まってくる。神楽が終わり境内に出ると、大きな木々が暗闇の中に浮かび上がる。
黒く太い枝が子供だった宮脇の頭上に覆いかぶさってくる。その神々しさに身震いをした感覚は今も身体に残っている。もしかしたら、「鎮守の森」こそが日本古来からの森であり、潜在自然植生なのではないか。
しかし、日本の研究者の間では宮脇の考えは理解されなかった。そもそも潜在自然植生という言葉すら、ほとんど知られていなかったのだ。しかし環境問題が急速に表面化するに従って、宮脇は企業などから講演を求められるようになった。
(「製鉄所のまわりに森を作りたい」)
昭和46(1971)年4月、宮脇は新日鐵の環境管理室から電話を受けた。その前週に宮脇が経団連で行った講演に感銘したので、「先生のおっしゃる森を製鉄所の周りにつくりたい」と協力を依頼してきたのだった。当時は全国の製鉄所が、騒音、粉塵、排水などの問題で周辺住民との軋轢(あつれき)を抱えていた。
ほどなく新日鐵の全10カ所の製鉄所で森づくりが始まった。その一つ、名古屋工場では幅100メートル、長さ5キロの森が工場を取り囲むという規模である。埋め立て地のため、3メートルから5メートルの盛り土が必要であった。莫大(ばくだい)な予算がかかる。経営陣のよほど強い意思があったのだろう。
北九州の八幡製鐵所では一騒動あった。宮脇が現地調査をして、潜在自然植生のシイ、タブ、カシ類を中心に木の種類、本数を細かく指示していたのに、実際に植えられていたのはマツだった。担当課長は「タブやカシはなかなかないし、値段も高いので、安くていくらでも手に入るマツを植えました」と言う。
木なら何でも同じだろうという考え方である。宮脇はなぜマツがこの土地本来の本物の木ではないかを説明する必要を感じて、近くの神社に皆を連れて行った。八幡製鐵が日本で最初の製鉄所としてできた時に、作られた高見神社である。1940年頃に移設された比較的新しい神社であるが、見事なシイ、タブ、カシ類が育っていた。「これが本物の森です」と宮脇は言った。5万本もマツの苗を買ってあったが、改めてシイ、タブ、カシを中心とした森づくりが始まった。
翌年、ドイツのリヒテルンで開かれた国際植生学会で、新日鐵の各製鉄所における環境保全林作りを宮脇は報告した。まだ工場の周りに木を植えることは世界各国でもあまり考えられていなかったため、大変な関心を呼んだ。かつて「日本の産業立地では自然の森を破壊して、工業団地が作られている」と批判していたオランダの学者たちが、「とうとう土地本来の森づくりをやり始めたか」と宮脇に握手を求めてきた。
(鎮守の森は千年の森)
森とは木が集まっただけではない。高木、低木、下草、さらには野鳥や昆虫、地中の小動物群、カビ、バクテリアなどいろいろな生き物がいがみ合いながらも一生懸命生きている共同体社会である。
日本列島では2千年ほど前に稲作が始まり、森を切り開いて水田とし、さらに道や集落を作ってきた。しかし、私たちの祖先はその際にも、かならずふるさとの木による森を残した。それが鎮守の森である。
「鎮守」とは、その土地の地霊をなごめ、その地を守護する神である。その言葉通り、鎮守の森は地震、台風、火事から、住民達を守ってきた。さらに神社を守ることによって文化を伝えてきた。
鎮守の森は強い。荒れ地には一気にはびこるセイタカアワダチソウなどの帰化植物も、鎮守の森には侵入できない。かつては日本中の樹木を食い荒らすと恐れられていたアメリカシロヒトリも、鎮守の森には歯が立たなかった。
またスギやヒノキなどを人工的に植えた森では、下草刈り、枝打ち、間伐と、常時、人間が手を入れてやらねばならないが、その土地本来の樹木でできた鎮守の森は、そんな必要はない。
鎮守の森は千年の森なのである。
---owari---
たびたびにコメントをいただき、有難うございます。
こちらこそ、感謝いたします。