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人生の幸福と不幸を分ける「心の態度」(前編)

2020年06月22日 | 人生
(「結果の平等」ではなく「機会の平等」を肯定する)
私が、今、非常に気にしていることの一つは、「ワーキングプア」という言葉がかなり流行(はや)ってきていることです。

ワーキングプアとは、「働いても働いても生活が楽にならない、貧(まず)しい人たち」のことですが、その言葉は、テレビを見てもよく聞きますし、新聞にもよく載(の)っています。ワーキングプアの特集が組まれることもあります。

この「いくら働いても貧しい」という考え方は、私には、姿を変えた共産主義のように見えます。

その考え方を信じてしまうと、「世の中や国が悪いために、あるいは一部の人だけがうまくお金儲けをしているために、自分たちは貧しいのだ」という方向に持っていかれるので、基本的に共産主義的な考えと変わらなくなるのです。

共産主義の考えは基本的に「嫉妬心(しっとしん)の合理化」です。成功している人に対する妬(ねた)みを合理化したものなのです。

共産主義の社会では、成功すると嫉妬されるので、基本的に、自分が成功しないようにし始め、「結果の平等」を目指してしまいます。

誰もが、同じになることを目指すと、その結果、全員が貧しくなるのです。「全員が貧しければよいだろう」ということですが、そうなると、貧しい人を助ける人がいなくなってしまうわけです。共産主義の社会では、そのようになりやすいのです。

したがって、平等という考え方について、どうか、次のように考えてください。
私の考える平等とは、「チャンスの平等」「機会の平等」です。私は、「何かにチャレンジするチャンスは万人(ばんにん)に開かれるべきであり、そのための可能性をできるだけ多くつくらなければいけない」と思っています。

ただ、百メートル走でも、42.195キロのマラソンでも、結果を同じにすることは無理です。やはり、タイムや順位はバラバラになります。それぞれの人が自らの努力でもって頑張った点は、ほめられるべきことだと思いますが、タイムや順位という結果はバラバラになるのです。

それは勉強においても、絵を描くことにおいても同様です。
例えば、上手に絵を描いた人も、下手に絵を描いた人も、結果的に同じ扱いをされたら、どうなるでしょうか。誰も努力をしなくなります。上手な絵を描いても意味がないからです。上手に描いても下手に描いても、社会的評価が変わらないのであれば、絵を描くために努力する人はいなくなります。

実際は、立派な絵を描いて、日展(日本美術展覧会)などで入賞すると、「号」という、絵の単位面積当たりで、とても高い値段が付いて、一枚の絵が何千万円も何億円もするところまで行くことがあります。そういうビッグな夢があるので、画家の卵たちは一生懸命に努力しているわけです。

音楽家や歌手でも同じでしょう。「演奏や歌が上手でも下手でも、結果については同じ扱いをします」と言われたら、努力をする人はいなくなります。

あるいは、プロ野球を例にとれば、「平等が人類の基本原理なので、松井秀喜やイチローといったスター選手も、二軍の選手も、給料はみな同じにします」ということになったら、松井秀喜やイチローであっても、だんだん、努力することができなくなり、働かなくなっていくでしょう。

---owari---
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