(世界は日本を必要としている)
著名な作家であり、フランス国営文化放送プロデューサーとして紫式部から三島由紀夫まで多くの優れた日本文化紹介番組を送り出したオリヴィエ・ジェルマントマ氏は語る。
日本の若者が祖国の文化の豊饒(ほうじょう)を十分に知らず、いや、日本そのものが偉大な独立国家にふさわしい役割を国際場裡(こくさいじょうり:世界各国の人々が多く集まる所)で果たそうとしないありさまを見て(中略)、私は驚きと失望を禁じ得ないのであります。
ジェルマントマ氏をかく言わしめるのは、今まで40近い国をめぐり歩いた経験から、「我らが地球は、もしも文化的・精神的に新飛躍をとげざる限り明日はないも同然」という現代文明に対する痛切な危機感を抱いたからである。
世界のひと握りの人間が死に金を積み上げて、その上にどっかとあぐらをかき、たらふく食って身動きもならないありさまであるのにひきかえ、何億という老若男女が飢えて、食する物なき惨状なのであります。かと思えば、先進諸国では、暴力、人種間の怨恨、強姦、麻薬などが増大する一方、日本でさえその例外ではないのです。これが「進歩」でしょうか。
そして言う。「現代人をして守銭奴(しゅせんど)以外の何者かたらしめるためには世界は日本を必要としている」と。
(風と木々の生きた気配)
一体、日本に何ができると言うのだろうか。ジェルマントマ氏は自らの日本体験を語る。
ある雨もよいの日、筑波山神社に詣(もう)でました。山中で迷い、そのとき、再び神々の力を感じたのです。霧のなかにひとりさまよい、風と木々の生きた気配にかこまれたとき、直感として胸に閃(ひらめ)いたのです。私共の先祖ゴール人(もっと遡ればケルト人)がキリスト教以前に持っていた信仰は、きっと、神道に近いものだったに相違あるまい、と。
そして、それこそはまさに、神道のなかに普遍的な姿が感じられる証(あかし)というべきではありますまいか。この何かが、あなたがた日本人には託(たく)されているのです。
日本には、「風と木々の生きた気配」を感ずる文化がかろうじて残っている。しかし、それ以外の国々では、科学の進歩の過程で、「人間と天の間に有史前の最も遠い昔から結びあわされてきた絆」 が失われてしまった。
いかに、いま、人間が霊性の世界を必要としているのか、そのことは、これを忘却したがゆえに窒息状態にある我々西欧人が誰よりもよく知っている。
(日常茶飯事の中の美)
この霊性の世界を取り戻すのに、人里離れた自然の中に入り込む必要はない。それは、ごく身近な生活の中に自然の美を生かす事でも回復できる。ジェルマントマ氏は、そこにも日本文化の精髄(せいずい)を見る。
比叡山を歩いている途中、驟雨(しゅうう)に見舞われ、駆け込んだ旅館で食事のもてなしを受けた。
見れば、中央に、一匹の焼き魚が、小舟の姿に似せてぴんと反りを打たせ、周囲に漆器の小鉢が点々と配されています。その一つ一つに、野菜、根菜、山菜のたぐいが盛られ、まるでブーケのよう。(中略)最後に添えられた林檎(りんご)は、何の変哲もない代物が、ここでは皮を剥(は)ぎ、刻まれて、花咲ける姿と化しているのです・・・・・。
なんだ、つまらない、と皆さんはお考えかもしれません。
これほどの調和も、あなたがたにとっては文字通り日常茶飯事でありましょうから、西洋人にとっては日常生活の中にかくも素朴にして強力な美を見いだすことが、いかに深い悦びであるか、それをお伝えできないもどかしさに私は苦しむのです。
フランス人の美的感性と、ソルボンヌ大学で美学博士号をとった教養は、我々の見過ごしがちな所に、かくも「素朴にして強力な美」を見いだす。
これほどの能力を生来身につけていながら、皆さんは、ただそれを当然のことと見なし、いかにそれが豊饒を約束するものであるかに気がついておられない。より大きな、心の豊かさを求めるうえに、このように素朴な小径(こみち)ありというのに、そして日本民族の、かかる天性をもって、これをさししめすことで、どんなにか皆さんは、二十世紀末の人類を救済しうるのに、と思わずにはいられません。
(現代文明の危機)
自然と心を通わせ「風と木々の生きた気配」を感ずる、日常の中で、ささやかな美を愛(め)でる、これらは我々の祖先が有史以来、この列島で繰り返してきたことであり、また現在でもその気になれば、すぐにでもできることである。
そのような自然の生命や美への共感を感じている時に、我々の心は「空と沈黙」に満たされる。それは、現代文明が物質的欲望と自然への征服意志の過程で忘れてしまったものだ。核戦争や地球環境破壊など、現代文明の危機はここから来ている。
我々がこうした危機を脱するには、我々の心に「空と沈黙」を取り戻し、古代人の持っていた「天との絆」を回復するしかない。アメリカ・インディアンこそは「おのれの棲み家とするこの大地の声に耳を傾ける事を尊んだ、天与の種族であった」。
しかし、そのインディアンを亡ぼしたアメリカを、我々は現代文明のモデルとしている。
(日本列島に閉じこもったきり)
日本民族の勇気、万邦安寧(ばんぽうあんねい:すべての国の社会が穏やかで平和なこと)の礎たらんとする熱誠(ねっせい)、自然や神々との緊密な結びつき、歴史の連続性、文化の奥深い独創性などからして、日本こそ、明日の文明の座標軸の一つとなってしかるべきではないでしょうか。
しかし、ここ数年来というもの、あなたがたのことを考えては、私は驚きを禁じえないでまいりました。なぜ皆さんが、かくもご自分自身について疑い、ルーツから遠ざかっていらっしゃるのか、理解に苦しむのです。日本の皆さんは、人類史上最大の精神文化の一つの継承者です。
大いなる霊性の指導者たちは、世界を飛びまわって、メッセージを発しつづけています。ローマ法王や、ダライ・ラマをはじめとして、これらの指導者がそのためにフランスに見えることもしばしばです。しかるに神道は、日本列島に籠(こ)もったきり、出てこようとはしないのです。
世界の歴史を見れば、偉大な諸文明の遺産は、最後にはすべて人類共有のものとなることはあきらかではありませんか。
何故、もっと重要な役割を国際場裡で果たし、もっと毅然(きぜん)と、千古脈々たる「大和魂」を発揚しようとはなさらないのですか。
「我々は積極的に世界の諸問題に介入すべきである」という思考方法を身につけたとき、日本人が日本を見る見方は、一変するでありましょう。
前述した「ルーツ」という言葉に注目したい。それは皇后様が使われた「根っこ」という言葉に通ずる。日本人の「根っこ」を掘り下げていけば、それはインディアンやゴール人にもつながる。そしてそれを通じて、我々は「天との絆」を回復できるのだ。そこにこそ、人類の文明を救う道がある。
(我々は何をすべきか?)
そう言われても、現代の日本人は当惑してしまうだろう。一体何をすれば良いのか、と。
しかし我々の祖先は、ちゃんとその為の道を残してくれている。誰でも、どこでも、数分でできる事である。それは短歌を鑑賞し、創作することである。
“新しき羽を反らして息づける飛翔間近の青スジアゲハ”
今年の歌会始めの儀で、史上初めて中学生として選ばれた中尾裕彰君の詠進歌である。夏休みの宿題で観察していたアゲハチョウが今まさに飛びたとうとする一瞬を、同じいのちとしての共感を持って詠んだ歌である。
我々の祖先は、このような歌を詠むことによって、「風と木々の生きた気配」を感じ、ささやかな美を愛で、また友や肉親と心を通わせてきた。
たとえば、無料メールマガジン(「言の葉の森ニュース」)を購読すれば、騒がしいオフィスでも、留学先のアパートでも、わずか数分で、我々のルーツに遡り、自然の恵みを感じ、そこから自分の生の意味、生き甲斐を感じ取ることができる。それは物質的欲望に支配された現代文明から、自分自身を解放する道である。
日本人にそういう道のある事を、世界の諸文明に訴えてもらいたい、それがジェルマントマ氏の期待である。
---owari---
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