石田梅岩は、江戸中期の思想家で石門心学の祖である。
梅岩は商家に奉公しながらその業に励むとともに儒学を独学し、神道、仏教、老荘なども学んだ。45歳で自宅に講席を開き、『人の人たる道』を追求した。
弟子の身分を問うことなく、平易な言葉で講義を続け、たくさんの門弟を世に送り出した(全国に教えを説く塾が百カ所くらいあった)。一種の社会強化運動といえた。その根本は、社会的職分を遂行するうえでは商人も、農民も、武士も同じであり、その分限を尽くすことが尊いのである、ということだった。
石田梅岩だけでなく、日本では、昔から庶民の持つ向上心や勤勉性などが自然に国民道徳というべきものをつくりあげていた。江戸末期の篤農家(とくのうか:農業に携わり、その研究・奨励に熱心な人)、二宮尊徳もそうだ。石門心学を寺子屋で習った人たちが幕末や明治初期にたくさんいて、教育勅語ができたときも、当時の国民の知的水準はそれを天皇による精神的強制とは受け止めなかった。
なぜなら教育勅語に書かれていることは、石田梅岩の教えが八割ぐらい元になっているからで、「父母ニ考ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ・・・・・」というのは、日本人の徳目として当たり前のことだったからだ。いまは教育勅語を読んだことがない人が、あるいは石田梅岩の名前すら知らない人が教育勅語の批判をしている。
江戸時代までの蓄積がいかに特筆すべきものであったかを知れば、開国以後の日本の急速な発展も自ずと明らかになる。
ペリー来航からほぼ3年後、日本人は初めて見た文明の利器、蒸気船を外国人の助けを借りずに独力で建造した。島津斉彬(なりあきら)の薩摩藩、鍋島直正の佐賀藩、伊達宗城の伊予宇和島藩の三藩だが、こんなことができた有色人種の国は日本しかなかった。
日本にはそれまで大砲と軍艦と蒸気機関、侵略思想はなかったが、それ以外のものはみなすでにあった。江戸時代から日本は世界の先進国だったのである。
日本は近代化せざるを得なかったが、それ以前の日本を捨てたわけではなかった。捨てる気もなかった。日本は東南アジアの辺境にあって何でも蓄積する文化を築いた。仏教でもマルクス経済学でも重要文献の原本は日本にある。われわれは蓄積し、考え、発酵させることで日本文化を創造してきた。よく準備された脳に訪れる発想、直感が「暗黙知」である。
この暗黙知があったからこそ、日本人は近代の精神をただちに理解し、ほどほどに採用し実行できたのである。「夷を以て夷を制す(敵国をおさえるのに、他国の力を利用する)」とはそういうことだったし、植民地化を免れるために、「富国強兵」「殖産興業」はしたが、近代合理主義に染まり切る気はなかった。それにかぶれて染まり切ったのは知識人と官僚だけだったといってもよい。
また成金階級(ブルジョワジー)は目に見える利益を追い求めたが、国を支えた土壌には、古代から中世の価値である神道や儒教、道教や仏教の教えが厳然と生きていた。これが「暗黙知」の土台で、近代の価値観よりもそれを大切にしようというのは庶民にとっては自明だった。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます