今日も「国際派日本人養成講座」からお伝えします(2020年07月26日)。
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戦後教育の迷走をもたらした「個性」「自己決定権」などの「空想」を打ち祓う共同体の人生観。
(池江璃花子選手の心を打つスピーチ)
コロナ禍がなければ、昨日、東京オリンピックが開幕していたはずですが、それを惜しむように、一昨日、白血病から立ち直った競泳女子の池江璃花子(りかこ)選手が、国立競技場に元気な姿を見せ、心に響くスピーチをしてくれました。
コロナ禍がなければ、昨日、東京オリンピックが開幕していたはずですが、それを惜しむように、一昨日、白血病から立ち直った競泳女子の池江璃花子(りかこ)選手が、国立競技場に元気な姿を見せ、心に響くスピーチをしてくれました。
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私も、白血病という大きな病気をしたから、よく分かります。
思っていた未来が、一夜にして、別世界のように変わる。それは、とてもきつい経験でした。
そんな中でも、救いになったのはお医者さん、看護師さんなど、たくさんの医療従事者の方に、支えていただいたことです。身近で見ていていかに大変なお仕事をされているのか、実感しました。しかも今は、コロナという新たな敵とも戦っている。本当に感謝しかありません。ありがとうございます。
2020年という特別な年を経験したことでスポーツが、決してアスリートだけでできるものではない、ということを学びました。さまざまな人の支えの上に、スポーツは存在する。本当に、そう思います。・・・
スポーツは、人に勇気や、絆をくれるものだと思います。私も闘病中、仲間のアスリートの頑張りにたくさんの力をもらいました。[産経ニュース]
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スポーツは、人に勇気や、絆をくれるものだと思います。私も闘病中、仲間のアスリートの頑張りにたくさんの力をもらいました。[産経ニュース]
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「さまざまな人の支えの上に、スポーツは存在する」、同時に「スポーツは、人に勇気や、絆をくれるもの」。アスリートもこういう共同体の中でこそ、他者に支えられる感謝を抱き、他者のために頑張ろうというファイトが生まれるのでしょう。
池江選手が平成30(2018)年7月のジャカルタ・アジア大会で6冠を達成し、金メダル数でアジア女子の一大会最多獲得記録を塗り替えたパワーも、こういう深い姿勢から出ている、と思いました。
人としての生きがいも幸福も共同体の中にある、そういう人生観が欠落していることが戦後教育の欠陥、というのが、昨日のLive講座2-2「共同体で輝く日本の力」で訴えたかったことでした。
(「他人の自由を侵害しない限り何をやっても良い」のか?)
共同体の視点を欠いた欠陥教育の典型が、平成12(2000)年に厚生労働省の外郭団体が130万部も製作して、中学生向けに無料配布しようとした『思春期のためのラブ&ボディBOOK』です。その中には「交際するか、しないか」「子どもをつくるか、つくらないか」「産むか、産まないか」を「決めるのはすべて自分」というページまでありました。
これは「自己決定権」という主張に立っており、160年も前の英国の哲学者ジョン・スチュワート・ミルが著書『自由論』で述べた考えです。ミルは厳格な父親によって、同年代の子供たちと遊べずに勉強ばかりさせられ、10歳にしてラテン語、ギリシャ語の書物を読むという、異常な環境の中で育ちました。
成人してからは、人妻であったハリエット・テイラーの愛人となり、その夫や子供たちと共棲(きょうせい)する一妻二夫関係の異常な家族を築きました。ミルの非常識に対する英国社会のごうごうたる非難に反論するために持ち出したのが、「他人の自由を侵害しない限り何をやっても良い」という自己決定の概念でした。
これが空想である事は、21世紀の科学的知見から明らかです。人間の脳にはミラー・ニューロン(鏡の神経細胞)があり、それによって、他者の行動が鏡に映るように、自分も同じ感情を抱きます。たとえば、電車の中でお年寄りに席を譲る若者の光景を見れば、ただ見ているだけの自分も爽やかな思いをします。
ミラー・ニューロンの働きによって、クラスの中で、一人でもクラス全体のためにと頑張る生徒がいると、自分も一緒にやろう、という気持ちが広がります。逆に一人でもふしだらな行動をとる生徒がいれば、それも伝染します。「人に迷惑さえかけなければ何をしても良い」とは誤りで、一人の悪行は社会に精神的・道徳的な迷惑をかけるのです。
160年も前の非常識な哲学者の言い分をもとに「自己決定権」などという空想を振りまく人々のために、戦後教育は迷走を続けてきたのです。もっと事実をしっかり観て、科学的な教育思想を打ち立てねばなりません。
(「社会制度が人間の天性を抑圧している」)
同様の戦後教育の「空想」の一つに、「詰め込み教育はよくない」「子どもの個性を伸ばすべきだ」という主張があります。これは「近代教育の祖」と呼ばれるジャン・ジャック・ルソーの思想を下敷きにしています。ルソーは「教育学の古典」と呼ばれる著書『エミール』の中で、こんな事を述べています。
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偏見、権威、必然、前例―これらの中にわたしたちは産み落とされた。これらいっさいの社会制度が、人間の天性を抑圧している。[Rousseau, Emile]
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ルソーは誕生時に母を亡くし、父親には十歳の時に棄てられ、盗みや詐欺の常習犯。文明社会の法秩序、道徳などへの憎悪を「哲学」にしました。
五人の子供を作りましたが、この「哲学」を実証すべく、みな生まれるとすぐに孤児院に送ってしまいました。「子供たちに最良の行先を選んだ。私が彼らのように育てられていたら、喜んだであろう」などと言っています[Rousseau, Confessions]。
教育勅語に基づく人間成長のモデルでは、子どもはまず「父母に孝を」と家庭生活の中での思いやりを学びます。そこでの孝行とは、まずは親を安心させることです。収入もないのに、高い贈り物をしたら、親は「盗みでもしたのか」と不安に思うでしょう。それは真の親孝行ではありません。
真の親孝行をしようと思ったら、親の気持ちを思いやる姿勢が必要です。ルソーが子どものころ、盗みや詐欺の常習犯だったのは、被害にあった人への同情がなかったからでしょう。自分の子どもをみな孤児院に送ってしまって、「自分なら喜んだであろう」などと非常識なことを言えるのも、共感の情が欠けていたからでしょう。
これもルソーの天性、個性でしょうが、真の天性、個性はこんな安っぽいものではありません。まず他者への豊かな共感を持ち、他者のために自分も何事かをしたいと考え、そこから自分の好きな分野、得意な領域で勉強したり、技術を磨いたりして、「処を得る」、そういう人間的な成長の過程で、自ずからの真の天性、個性が輝きだしていくものです。
池江選手が平成30(2018)年7月のジャカルタ・アジア大会で6冠を達成し、金メダル数でアジア女子の一大会最多獲得記録を塗り替えたパワーも、こういう深い姿勢から出ている、と思いました。
人としての生きがいも幸福も共同体の中にある、そういう人生観が欠落していることが戦後教育の欠陥、というのが、昨日のLive講座2-2「共同体で輝く日本の力」で訴えたかったことでした。
(「他人の自由を侵害しない限り何をやっても良い」のか?)
共同体の視点を欠いた欠陥教育の典型が、平成12(2000)年に厚生労働省の外郭団体が130万部も製作して、中学生向けに無料配布しようとした『思春期のためのラブ&ボディBOOK』です。その中には「交際するか、しないか」「子どもをつくるか、つくらないか」「産むか、産まないか」を「決めるのはすべて自分」というページまでありました。
これは「自己決定権」という主張に立っており、160年も前の英国の哲学者ジョン・スチュワート・ミルが著書『自由論』で述べた考えです。ミルは厳格な父親によって、同年代の子供たちと遊べずに勉強ばかりさせられ、10歳にしてラテン語、ギリシャ語の書物を読むという、異常な環境の中で育ちました。
成人してからは、人妻であったハリエット・テイラーの愛人となり、その夫や子供たちと共棲(きょうせい)する一妻二夫関係の異常な家族を築きました。ミルの非常識に対する英国社会のごうごうたる非難に反論するために持ち出したのが、「他人の自由を侵害しない限り何をやっても良い」という自己決定の概念でした。
これが空想である事は、21世紀の科学的知見から明らかです。人間の脳にはミラー・ニューロン(鏡の神経細胞)があり、それによって、他者の行動が鏡に映るように、自分も同じ感情を抱きます。たとえば、電車の中でお年寄りに席を譲る若者の光景を見れば、ただ見ているだけの自分も爽やかな思いをします。
ミラー・ニューロンの働きによって、クラスの中で、一人でもクラス全体のためにと頑張る生徒がいると、自分も一緒にやろう、という気持ちが広がります。逆に一人でもふしだらな行動をとる生徒がいれば、それも伝染します。「人に迷惑さえかけなければ何をしても良い」とは誤りで、一人の悪行は社会に精神的・道徳的な迷惑をかけるのです。
160年も前の非常識な哲学者の言い分をもとに「自己決定権」などという空想を振りまく人々のために、戦後教育は迷走を続けてきたのです。もっと事実をしっかり観て、科学的な教育思想を打ち立てねばなりません。
(「社会制度が人間の天性を抑圧している」)
同様の戦後教育の「空想」の一つに、「詰め込み教育はよくない」「子どもの個性を伸ばすべきだ」という主張があります。これは「近代教育の祖」と呼ばれるジャン・ジャック・ルソーの思想を下敷きにしています。ルソーは「教育学の古典」と呼ばれる著書『エミール』の中で、こんな事を述べています。
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偏見、権威、必然、前例―これらの中にわたしたちは産み落とされた。これらいっさいの社会制度が、人間の天性を抑圧している。[Rousseau, Emile]
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ルソーは誕生時に母を亡くし、父親には十歳の時に棄てられ、盗みや詐欺の常習犯。文明社会の法秩序、道徳などへの憎悪を「哲学」にしました。
五人の子供を作りましたが、この「哲学」を実証すべく、みな生まれるとすぐに孤児院に送ってしまいました。「子供たちに最良の行先を選んだ。私が彼らのように育てられていたら、喜んだであろう」などと言っています[Rousseau, Confessions]。
教育勅語に基づく人間成長のモデルでは、子どもはまず「父母に孝を」と家庭生活の中での思いやりを学びます。そこでの孝行とは、まずは親を安心させることです。収入もないのに、高い贈り物をしたら、親は「盗みでもしたのか」と不安に思うでしょう。それは真の親孝行ではありません。
真の親孝行をしようと思ったら、親の気持ちを思いやる姿勢が必要です。ルソーが子どものころ、盗みや詐欺の常習犯だったのは、被害にあった人への同情がなかったからでしょう。自分の子どもをみな孤児院に送ってしまって、「自分なら喜んだであろう」などと非常識なことを言えるのも、共感の情が欠けていたからでしょう。
これもルソーの天性、個性でしょうが、真の天性、個性はこんな安っぽいものではありません。まず他者への豊かな共感を持ち、他者のために自分も何事かをしたいと考え、そこから自分の好きな分野、得意な領域で勉強したり、技術を磨いたりして、「処を得る」、そういう人間的な成長の過程で、自ずからの真の天性、個性が輝きだしていくものです。
---owari---
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