(進化の余地のあまりない「アニミズム的な宗教観」)
先の敗戦によって、日本の宗教にややメスが入り、国家神道的な一神教を、どちらかといえば否定され解体されて、「信教の自由」を入れられました。GHQ側としては、本当はキリスト教を広げたかったのでしょうが、今でも、キリスト教は日本の人口の1パーセント以上には広がっていません。
これは、宗教観の違いによるものでもあると思うのです。
キリスト教では、十字架に架かったイエス・キリストを「神」としているところがあります。しかし、日本人の信仰から見ると、こうした十字架に架かって殺されたような神というのは、一般的には「祟(たた)り神」と日本では思われているのです。
祟り神を祀って、要するに、暴れたり悪さをしないように、祠(ほこら)や社(やしろ)を建てることはあっても、「それが全智全能の神につながるとは認めがたい」という宗教観はあったわけです。これが、500年ほど前に、すでに日本に入ってはいたけれども、キリスト教が人口の1パーセント以上は広がらない理由の一つであると思われます。
江戸時代のキリシタンの取り調べ等を見ても、「どうも神観(かみかん)が違う」というところで、受け入れかねたものもあったのでしょう。
その反面、日本にはすでにさまざまな宗教がかなり入っていたと言えると思うのです。特に、高等宗教としての仏教が入ってからは、教えの部分が豊富になりました。それが、日本の伝統的な宗教の足りないところを補ってきたのではないかと思います。
日本には、古代の宗教から見れば、いわゆるアニミズムといわれるような、「動物だけではなく、天地自然、万物を、みな神のように崇(あが)める」といった思想もありました。
おそらく、アメリカ・インディアンやオーストラリアのアボリジニあたりも、似たような信仰を持っているだろうと思います。そうした、教えが入っていない、もしくは教えが十分ではない宗教の場合、進化する余地があまりないことも多いと思います。言うとすれば、あるがままです。
その場合、強い動物たちを神のごとく崇めていたのと同じように、やはり、人力によって克服できない自然の猛威(もうい)等を畏れ、すべて神の力と考えて、ただただお祀りするということもあります。
川が氾濫(はんらん)して土手が決壊したら、人家は流され、田畑も駄目になってしまいますが、こうしたことに対して、「川の神」というものを考え出して拝むというようなこともあります。また、空から大雨が降って洪水になったり、あるいは、空気が乾燥しすぎて山火事になって焼けたりすることもありますが、そうした自然の猛威もまた、神の意志として祀っていたようなところがあります。
それ以外では、人間として、ある程度この世的に地位のあった人が不遇(ふぐう)な死に方をした場合に、その「祟り神」を抑えようとして神社にしたり、死んだあと勲位(くんい)を与えたりしていました。
狐にも「正一位(しょういちい)」などが与えられていますが、日本人は、そういうものを与えて祀ったりします。これはある意味での懐柔(かいじゅう)というか、賄賂(わいろ)に近いものかと思いますが、そういうことをして、「持ち上げて、なだめる」という手法も取ってきていたと思います。
---owari---
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