(「情欲と悟りへの修行」は仏教ではメジャーなテーマ)
このテーマは、仏教ではけっこうメジャーなテーマです。というのも、釈尊(しゃくそん)が悟りを開き、教えを説いた始まりに関係があるからだと思います。自分自身の探究から入っているわけですが、要するに、釈尊の悟りは、「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」という、「六つの煩悩(ぼんのう)の発生源」に関するものなのです。
「眼(げん)」というのは眼(め)です。眼で異性を見て、「好ましいな」と思う。「ああ、あの子はきれいだな」とか、「この人は男前だな」とか思う。眼で恋をする。
「耳(に)」は耳(みみ)です。声を聞いて、「ああ、あの歌声が美しいから、あの歌手に惚(ほ)れてしまう」というようなこともあります。そのように、声で「心地よい」と思うような方もいるのです。
「鼻(び)」は鼻(はな)です。香りには香水とかいろいろありますけれども、香りも昔から使われているものであり、「どういう香りを好むか」ということで女性の美醜(びしゅう)を感じるようなこともあるのです。
平安時代には、夜、女性のところに貴族の男が通っていました。顔は見えないのですが匂(にお)い袋を持っているので、その匂い袋の香りで相手が誰かをアイデンティファイ(識別)するのです。そういう時期であり、香りに恋をするようなところがありましたが、「昼間に見て、びっくりした」ということもあったと思います。
『源氏物語』では「末摘花(すえつむはな)の君(きみ)」がそんな人で、昼間に見たら赤鼻でトナカイのようなので、主人公の光源氏(ひかるげんじ)がちょっとびっくりしています。夜だとそれが分からないこともあるわけです。
「舌(ぜつ)」は舌(した)です。舌には、食べ物や飲み物での快感もあります。もちろん、舌を用いて、いろいろな快感を感じる方法もあるかもしれません。
「身(しん)」は身(み)という意味です。これは大まかに言えば、「手触(てざわ)り」「肌触(はだざわ)り」というようなものでしょうか。「手触りがいい」とか、「肌触りがいい」とか、そういうことはあると思います。こういう「体で感じる触感(しょっかん)」というものがあると思うのです。
「意(い)」は意図とか意欲とか、そういう意志などのことですけれども、どちらかというと、煩悩的なものであれば、「彼女に会って、心臓がトクンとときめいた」という感じのほうが近いかもしれません。場合によっては、頭で考えて判断している人もいるとは思いますが、そのような「胸のときめき」も、一部、入っていると思います。
---owari---
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