戦前の教育は、親の責任は小学六年生までで、後は自分自身で身につけていくものだというものでした。だから、もっと勉強したい者は自分なりに頑張ったし、たとえば大学まで行くにしても、何のために行くのか、何を学びたいのかという目的意識を持っていました。
日本の大学の走りは、1858年に福沢諭吉がつくった慶応義塾ですが、そもそも個人的な塾でした。その頃は、失業した武士がつくった私塾だらけだった。
そうした学校の中でも特に西洋医学を教える医学専門学校がドッと増えました。
それは、戊辰(ぼしん)戦争のとき、怪我人が出るからと医者を集めたら、漢方薬の医者しか集まらなかったからです。「怪我人に対して飲み薬を煎じていたらとても間に合わない。戦争をするのに役に立つのは外科医だ」ということで、明治政府が少ない予算の中から金を出して外科の医学専門学校をつくったのです。
だが、そのうちもっと勉強したいという若者が出てきました。
そこで政府は総合大学をひとつだけつくることにします。ひとつしかつくらない代わりに、それはソルボンヌ大学やハーバード大学に負けないすごい大学をつくろうということでできたのが「帝国大学」でした。
帝国大学の前身となったのは、江戸幕府によって設立されていた昌平坂(しょうへいざか)学問所と、開成所(後に東京開成学校)、そして西洋医学所(後に東京医学校)の三つの教育機関です。
1877年、そのうちの東京開成学校と東京医学校が合併して、日本最初の大学である東京大学となりました。
そして1885年には、1871年に司法省明法寮として創設されていた東京法学校が東京大学法学部に合併され、1886年には帝国大学令公布に伴い、東京大学から帝国大学に改称され、同時に学部制度が廃止されて新たに法・医・工・文・理の五つの「分科大学」が置かれ、学士研究科は大学院となりました。その後、1897年に京都帝国大学が誕生するのに伴い、東京帝国大学に改称されました。
いずれにせよ、そこにめぼしい人材を集めて教育を施し、西洋諸国に追いつこうとしました。そのとき、明治政府は、「誰が日本なんか行くか」と渋るドイツやフランスの教授を「今の給料の三倍出すから。授業で使う言葉はドイツ語でもフランス語でもいいから。とにかく今、あなたの国の学校で教えていることをそのとおり教えてくれ」と言って引っ張ってきました。
びっくりしたのは学生です。フランス人の教授はフランス語でしゃべる、ドイツ人の教授はドイツ語でしゃべるんですから。
学生たちは先生がゆっくりゆっくりそれぞれの言葉で十行ぐらいしゃべるのを必死に書き取って勉強しました。つまり、学生たちが書き取ったノートが日本にある唯一の専門書でした。
そのノートを頼りに学友と一生懸命議論するというのが1887年から1897年の頃の勉強法だったんです。
しかし、それではあまりにも乱暴だとなって、語学予備門というのをつくることになりました。いわば、言葉を学ぶための予備校です。それが旧制高校です。
そこで若者たちは、デカルト、カント、ショーペンハウエルを学んでいくことになりました。その姿が「デカンショデカンショで半年暮らす アーヨイヨイ あとの半年寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ」というデカンショ節になったという説もあります。
いずれにせよ、彼らはそれを勉強しなければ卒業できないし、出世もできないのですから、ここにはいいことが書いてあるかもしれないと思って必死に勉強したのです。
その後、日本の教育が変わるのは、1918年にヨーロッパで第一次世界大戦が終わってからです。
第一次世界大戦が終わるとヨーロッパの白人たちは虚脱状態に陥りました。
「こんなにまでして殺し合いをするとは、我々はちょっとおかしいんじゃないか」と思う人が出てきて、「じゃあこれからどうすればいいのか」と模索するようになります。
しかし、それまで指導的立場にあったイギリスからもフランスからも、いい知恵が出てきません。ドイツは潰れて発言権がゼロになっていましたし、ロシアは皇帝が殺されてしまっていました。そこで出てきたのが、「これから先は国家ではなくて国際的な組織をつくって相談しながらやっていこう」という話です。
言い出しっぺはアメリカのウィルソン大統領でした。言い出したのならリーダーシップを発揮すればよさそうなものですが、アメリカ議会で拒否され、結局、「いや俺は入らん」と逃げてしまいました。
その理由は、イギリスを支援するということで参戦して勝ち組になったものの、なんにも得することがなかったからです。そのため、アメリカは「よけいなことに手を出すとバカを見る。ヨーロッパのことはヨーロッパに任せておくべきだ」と考え、いわゆるモンロー主義に陥ってしまった。
一方、日本は急に金持ちになりました。
なにしろ、ロシアやイギリスなどの国々からは軍需品の注文が次々にやってきます。またアジア市場からヨーロッパ製の商品がなくなってきたため、日本の商品の需要が高まり、つくる端から売れていき、空前の好況を呈することとなりました。
加えて、日本は戦勝国の一員になったのですから、日本人は「これでもうイギリスやフランスが対等に付き合ってくれるだろう」と思った。
もちろん、賢い日本人のことですから、まだまだ工業力が不足していることはちゃんと認識していました。しかし、「遅れているのは工業力だけだ。精神的な部分においては、完全に彼らを凌駕(りょうが)している。鉄砲や大砲、軍艦をつくる工業力をつけさえすれば、欧米と対等に渡り合っていける」と思った。
そして日本は、「富国強兵」に努め、1931年の満州事変を皮切りに中国へと進出、大東亜戦争に突き進んでいったのです。
(日下公人著書「『日本大出動』トランプなんか怖くない(2016年6月発刊)」から転載)
---owari---
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