(若いころに成功し過ぎた人の、その後)
一般には、「人生の早いうちから、頭がよかったり、才能が芽生えたり、IQが高かったりするような人は成功しやすい」とは言われています。それはそのとおりでしょう。
例えば、アメリカなどには、日本と違って、十歳や十二、三歳、あるいは十四、五歳ぐらいで大学に入ってしまい、二十歳ぐらいには、すでに「教える側」に立っているような人もいます。
そういう人は、若いうちは確かに頭がよかったのでしょう。ただ、二十歳そこそこで教授になったとしても、そこで出世が止まり、四十年も五十年も教授のままということもありうるわけです。そのように、最初から出世コースを行ってしまうことも多いのですが、その後、四十年、五十年と活躍し続けるのは並大抵(なみたいてい)のことではありません。
「まだ目標があって、それを達成するために努力しなければいけない」というように、“馬は目の前にニンジンをぶら下げ続けないと走れない”というのであれば、そんなに急いで二十歳過ぎに教授にならなくても、四十歳や五十歳になってからでも別に構わないわけです。教授になるのに長くかかった人は、その間に努力をするので、結果的には、そのほうがたくさん業績が出る場合もあるでしょう。
私が教わった先生がたも、だいたいそうでした。若いころには秀才で、大学卒業後三年ぐらいで助手論文等を書き、三十歳前後には、それを多少引き伸ばしたものを、最初の学術的な本として出していたような人が多かったと思います。
ところが、その後はずっと本が出ないのです。「その一冊で終わり」という人もいましたし、「教授になるときに、もう一回だけ本を出して計二冊」という人もいましたが、とにかく著作数が少ないところはありました。
それは、努力して非常に緻密(ちみつ)に書いたのでしょうけれども、そういう根気は、長くは続かないからだろうと思います。
(「人生の成功の方程式」を限定的に捉(とら)えすぎてはいけない)
それと同時に、昔取った杵柄(きねづか)風に、「かつて、こういうことをやり遂げた」といったことだけで、それを通行手形のようにして、人生を渡り続けたいと思っている人も多いのです。
以前の「百メートル走の話」ではありませんが、若いころに他の人よりもすごく頑張って努力したという人のなかには、「早くゴールのテープを切れば、その十秒間で勝負は終わりではあるけれども、そのときのトロフィーなり金メダルなりが、一生の生活を保障してくれたり、何らかの資格を与えてくれたりするようなものであってほしい」という気持ちでいる人も多いのではないでしょうか。
実際には、そうはならないかもしれませんが、「早いうちにテープを切ってゴールインし、いったん成功のルートに乗りさえすれば、エスカレーター式に偉(えら)くなっていけるようなコース」を求める人は、昔からずいぶん多かったように思います。
ただ、そういう時代が長く続くと、なぜか、傑出(けっしゅつ)した人があまり出てこなくなることも事実です。
一方、戦国時代に英雄が現れるように、国が乱れたり、政治や経済、その他のものがいろいろとうまくいかなくなったり、あるいは、大きな悪が立ち上がってきたりするようなときに、英雄(えいゆう)が出てくることもあります。
したがって、「成功の方程式」というものを、若いうちのことだけに限定しすぎないほうがよいでしょう。また、若いうちに結果が出なかったからといって、あまり自己規定をしすぎないほうがよいのではないかと感じています。
---owari---
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