「民主主義社会の「現実」と「理想」」のシリーズを一旦中断しまして、今日のブログを急ぎ投稿させていただきます。あしからず。先日、学生時代の友人からメールが届きました。「新型コロナウィルス」について、医療に詳しい(?)あなたの見解を伺いたいというものでした。最近、私は、「新型コロナウィルス」について、調査していたところでしたので、返信したメールの内容をご紹介させていただきます。稚拙な私見なので、ご無礼 . . . 本文を読む
(戦前・戦中の反省から定められた「検閲(けんえつ)の禁止」)新聞については、国民であっても、全紙、読んでいるわけではありません。それぞれの家庭で、主だった新聞を一紙だけ取っていることがほとんどです。また、たいていの場合、テレビ欄(らん)しか見ず、従来は、それだけのために新聞を取っているところも多かったのですが、だんだん、新聞を取らなくてもテレビ番組ぐらいは分かるようになってきたため、「いちばん後ろ . . . 本文を読む
(民主主義社会に生まれた「マスコミ権力」)ところが、われわれ現代に生きる者にとって、民意が反映される社会は非常によいものであるにもかかわらず、場合によっては、「憲法の想定していない『影の権力』なるものもありえるのではないか」という恐(おそ)れも出てきています。例えば、現行の日本国憲法を読むかぎり、マスコミ権力についての規定は、どこにもありません。「表現の自由」や「言論の自由」「出版の自由」等の項目 . . . 本文を読む
(投票制民主主義が生まれた背景)「王の権限の制約事項が契約として成り立たねばならない」ということについては、近代以降、さまざまな試みがなされています。例えば、モンテスキュー流の「三権分立」的な思想です。アクトン卿(きょう:イギリスの歴史家であり政治家)が言うとおり、「絶対権力は絶対に腐敗する」がゆえに、司法・立法・行政の三権が、権力を分け合って牽制し合うスタイルをとりました。これは、ある意味での「 . . . 本文を読む
(「民主主義政治」と「哲人王による政治」)社会構造については、いまだ、最終形態として、「これなら絶対に大丈夫(だいじょうぶ)」と言えるものはないと言えるでしょう。例えば、フランシス・フクヤマ氏が、『歴史の終わり(上)』(三笠書房)のなかで、「民主主義は最終形態である。そういう意味では、これが、政治の終焉(しゅうえん)形態なのだ」というような意見を出したことがあります。一方、二千五百年ほど前、プラト . . . 本文を読む