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民主主義社会の「現実」と「理想」①

2020年02月20日 | 政治・経済
(「民主主義政治」と「哲人王による政治」)
社会構造については、いまだ、最終形態として、「これなら絶対に大丈夫(だいじょうぶ)」と言えるものはないと言えるでしょう。

例えば、フランシス・フクヤマ氏が、『歴史の終わり(上)』(三笠書房)のなかで、「民主主義は最終形態である。そういう意味では、これが、政治の終焉(しゅうえん)形態なのだ」というような意見を出したことがあります。

一方、二千五百年ほど前、プラトンの時代には、必ずしも民主主義政治が、理想的なものとは思われていませんでした。「民主主義政治は、すぐ衆愚政(しゅうぐせい)に堕(だ)するものである。それよりは、哲人王(てつじんおう)の理想的な政治のほうが優(すぐ)れている」という考え方もあったのです。

言葉を換(か)えれば、「名君による君主制でも、立派な政治がありうる」ということであり、その変化型もありうると思うのです。

要するに、プラトン的なものは、どちらかというと、「哲人王というべき、有徳の人が治める国がよい」という考えでありましょう。

そのように、哲学としてあるだけではなく、現実に、人望や徳望のある君主に治められれば、国民は幸福に暮らすことができるのです。

ただ、ときどき悪王が出てきて、ひどいことをするために、「王、あるいは、権力者に対する、何らかの牽制措置(けんせいそち)が成り立たねばならない」ということになるわけです。

イギリスで言えば、マグナ・カルタ(大憲章)の制定(1215年)以降、王と統治される側との間にも憲章があり、民衆側に対して、一定の自由の確保が守られなければいけないことになりました。これは、ある意味で、王の権限の制約でしょう。「制約事項が契約として成り立たねばならない」という考え方が出てくることもあるのです。

---owari---
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