16年前の阪神淡路大震災の時、震災ボランティアに行った。発生から約2週間近くが経過していた。羽田から伊丹の臨時便は知人を捜索しに行くのだろうか、ほぼ満席だった。
伊丹から電車で神戸へ。行けるところまで電車で行く。車窓からの景色は、とても震災に遭ったとは思えない、ごく普通の風景であった。が、反対側の景色を見て愕然とした。線路を挟んでまるで天国と地獄の風景だった。これが活断層というやつか・・・!
電車を降り、ひたすら神戸の市街地を目指す。役所へ行くが、まったく機能していない。情報もなく、ただひたすら歩くしかなかった。半日くらい歩いて、ようやく避難所となっている小学校に到着した。テレビでさんざん放送されていた本山第三小学校だった。
校庭にボランティアの受付があり、何人かの人が行列をつくっていた。女性は受付に回されていた。とっさに思った。せっかく自費で航空運賃かけて東京から来たんじゃ。なんで、受付なんて座ったままのシゴトができようか・・・私は偽名で男性と偽って登録した。
さっそく、過酷な労働が待ち受けていた。自衛隊が設置した6人用の狭いテントに米軍から支給された毛布を運んで入れる。上の方まで積み上げると腰が痛くなった。
校庭には、日に2回、トラックが来て食料などが届けられた。それらを品目ごとにテントに入れる。
夜は、校庭に張られたテントに暮らす人、運よく校舎内に居場所を見つけた人、それぞれに設置されたストーブの燃料を確認し、足りなければ補充する。ほかには、2週間も経つと、積み上げた食料の段ボール箱ごと盗んで行く輩が出て、夜通し見回りをするのも男達のシゴトだった。
休憩の合間に、いろんな人と話をした。北海道から来た人、九州から来た人・・・横浜から屋台を引いて来たラーメン屋・・・特に、夜のラーメンは被災者に喜ばれ、あっという間に無くなった。彼らの話もまたおもしろかった。元旦にエジプトのクフ王のピラミッドの頂上からご来光を拝んだ話はスケールがでかく、うらやましかった。ちなみに、ピラミッドの上に登ることは安全上、また信仰?上禁止されている。が、警備員にちょっとしたカネを握らせれば大丈夫!と笑っていた。
そんなつかの間の休息にも、下から突き上げるような余震があった。
2週間経って、避難所で暮らす人々にも心労やストレスが現れていた。当初、ありがたいと言っていただいていたパンや弁当も、「炊き出しのような温かいものが食べたい。」「パンは飽きた。」という人が多くなった。
また、校庭に並べられた簡易トイレも限界に来ていた。このままでは、溢れてしまう・・・ということで、用を足したあとの紙は、トイレに捨てず、ビニル袋に入れるよう徹底されていた。これが臭いのもととなり、このまま行くと衛生上どうなるのか心配だった。
土日を利用してのたった1日半の経験だったが、実にいろいろなことを勉強させられた。
今、東日本の被災地は震災から2週間目を迎える。いまだに支援の手がさしのべられず、水・電気・燃料・食料・・・その全てが足りていない地域がある一方で、避難所を開設し、充分とは言えないながらも、一応の支援体制は整っている地域・・・と地域格差が有り、いちがいには言えないが・・・そろそろ、被災者の心に変化が訪れる時期である。日々生きるのに精一杯、ああ、今日も生きながらえた・・・と思い、一日一日を生きてきた今までと違い、これからのこと、友人知人のこと・・・その他さまざまなことを考えるようになる。また、一人あたり畳2畳分といった狭いスペースは心身の健康上非常に宜しくない。積極的にラジオ体操を取り入れている避難所もあるように、運動する機会、そして音楽を聴く機会が必要だ。さらには心のケアをする臨床心理士も多く必要になってくる。募金以外にも、我々一人一人がやるべきこと、それぞれの能力や特性に応じてすべきことは何かある・・・
阪神淡路大震災でボランティアをした時、小学校の校庭で仕切っていたのは地元の被災した高校生だった。あれから16年・・・彼らも立派な社会人、いいおっさんになっている。きっと、今回の震災に対して彼らなりのできる限りのことをどこかの地でしていることだろう・・・
伊丹から電車で神戸へ。行けるところまで電車で行く。車窓からの景色は、とても震災に遭ったとは思えない、ごく普通の風景であった。が、反対側の景色を見て愕然とした。線路を挟んでまるで天国と地獄の風景だった。これが活断層というやつか・・・!
電車を降り、ひたすら神戸の市街地を目指す。役所へ行くが、まったく機能していない。情報もなく、ただひたすら歩くしかなかった。半日くらい歩いて、ようやく避難所となっている小学校に到着した。テレビでさんざん放送されていた本山第三小学校だった。
校庭にボランティアの受付があり、何人かの人が行列をつくっていた。女性は受付に回されていた。とっさに思った。せっかく自費で航空運賃かけて東京から来たんじゃ。なんで、受付なんて座ったままのシゴトができようか・・・私は偽名で男性と偽って登録した。
さっそく、過酷な労働が待ち受けていた。自衛隊が設置した6人用の狭いテントに米軍から支給された毛布を運んで入れる。上の方まで積み上げると腰が痛くなった。
校庭には、日に2回、トラックが来て食料などが届けられた。それらを品目ごとにテントに入れる。
夜は、校庭に張られたテントに暮らす人、運よく校舎内に居場所を見つけた人、それぞれに設置されたストーブの燃料を確認し、足りなければ補充する。ほかには、2週間も経つと、積み上げた食料の段ボール箱ごと盗んで行く輩が出て、夜通し見回りをするのも男達のシゴトだった。
休憩の合間に、いろんな人と話をした。北海道から来た人、九州から来た人・・・横浜から屋台を引いて来たラーメン屋・・・特に、夜のラーメンは被災者に喜ばれ、あっという間に無くなった。彼らの話もまたおもしろかった。元旦にエジプトのクフ王のピラミッドの頂上からご来光を拝んだ話はスケールがでかく、うらやましかった。ちなみに、ピラミッドの上に登ることは安全上、また信仰?上禁止されている。が、警備員にちょっとしたカネを握らせれば大丈夫!と笑っていた。
そんなつかの間の休息にも、下から突き上げるような余震があった。
2週間経って、避難所で暮らす人々にも心労やストレスが現れていた。当初、ありがたいと言っていただいていたパンや弁当も、「炊き出しのような温かいものが食べたい。」「パンは飽きた。」という人が多くなった。
また、校庭に並べられた簡易トイレも限界に来ていた。このままでは、溢れてしまう・・・ということで、用を足したあとの紙は、トイレに捨てず、ビニル袋に入れるよう徹底されていた。これが臭いのもととなり、このまま行くと衛生上どうなるのか心配だった。
土日を利用してのたった1日半の経験だったが、実にいろいろなことを勉強させられた。
今、東日本の被災地は震災から2週間目を迎える。いまだに支援の手がさしのべられず、水・電気・燃料・食料・・・その全てが足りていない地域がある一方で、避難所を開設し、充分とは言えないながらも、一応の支援体制は整っている地域・・・と地域格差が有り、いちがいには言えないが・・・そろそろ、被災者の心に変化が訪れる時期である。日々生きるのに精一杯、ああ、今日も生きながらえた・・・と思い、一日一日を生きてきた今までと違い、これからのこと、友人知人のこと・・・その他さまざまなことを考えるようになる。また、一人あたり畳2畳分といった狭いスペースは心身の健康上非常に宜しくない。積極的にラジオ体操を取り入れている避難所もあるように、運動する機会、そして音楽を聴く機会が必要だ。さらには心のケアをする臨床心理士も多く必要になってくる。募金以外にも、我々一人一人がやるべきこと、それぞれの能力や特性に応じてすべきことは何かある・・・
阪神淡路大震災でボランティアをした時、小学校の校庭で仕切っていたのは地元の被災した高校生だった。あれから16年・・・彼らも立派な社会人、いいおっさんになっている。きっと、今回の震災に対して彼らなりのできる限りのことをどこかの地でしていることだろう・・・