アーモーおやじ

テニスのときによく出る「アーモー」。これが口癖で、なんでも首を突っ込んでは失敗を繰り返しているじいさんの日記です。

気仙沼にて その3

2011-08-23 17:47:16 | Weblog
 最終の3日目の作業は、大きな家の中の家財道具の運び出しである。
 津波で柱と屋根が残ったものの、結局は取り壊す家の中の整理である。
 30人ほどでの作業であったが、大きな家のために布団、畳、家電が出てくる、出てくる。
 波をかぶっているので廃棄処分だが、外に出してここでも分別である。
 家主さん立会いのもとでの作業で、出てきた写真や生活道具を本当に廃棄していいかどうかの確認をしながら進めていく。
 神棚の横には先祖の写真が額に入って並べてあったのが粉々になっていた。整理していると写真はまるでトナーが流れたように輪郭だけを残した状態になったものばかりで、ご主人に確認すると廃棄してかまわないとのこと。悲しい気分になった。

 何回か軽トラに廃棄物をのせて、港の反対の処分地に行かせてもらった。家電の、ガラスの、畳のうず高い山ができ、行政の管理人に許可をもらって捨てた。

 午前中の作業終了して昼食をとったあとで、仲間に挨拶をして帰路についた。とくに3日間をともに過ごしたミナミちゃんには元気をもらった。感謝、感謝である。




 13時20分の大島初の連絡船で島をあとにした。
 すると「今日はご苦労様でした」と声をかけられた。振り返ると今日、作業をしたご主人であった。島をながめながらお話をさせていただいた。
 「自分の家は流れなかったが、津波で前の家3軒が流れてきて家にぶつかりそうになり、引き波でその3軒が家人もろとも海に流されたこと」などを聞かせてもらった。涙が出そうになってしまった。

 14時26分気仙沼駅始発の大船渡線で新幹線の「一関」駅に向かう。
 重い荷物を棚にのせて本を読もうとしたときに前に座っていた女性から「先ほど船に乗っておられましたねえ」とまたまた声をかけられた。話すと大島にあるお寺の娘さんで、島を出て10年、東京で仕事をしているとのこと。彼女からは、島の人口が3500人ほどで、高齢化が進んでいること、そして多くの人が船で気仙沼市内に通勤・通学をしているために、平日の昼間はさらに高齢者ばかりになっていることを聞いた。まさに地震・津波はそんな平日の昼間に起こってしまった。
 また、津波後に気仙沼市内からの火が重油の海を伝わって島に大火事をもたらしたこと、5日間燃え続けたこと、そしてその火事をおさえたのが5日後に降った雪ということなどを教えてもらった。そんなことが現実におこるのである。

 彼女と話しているときに車内の人が持つ携帯電話が一斉になり出した。「地震発生」を知らせるものである。「福島で震度5弱、津波注意報が出された」とのこと。
 すぐに私の携帯にも辻やんやミナミちゃんから、作業を中止して高台に避難したという連絡をもらう。
 大船渡線も停車してしまった。思えば作業した3日間に何回もの地震を感じた。まだまだ油断ができない状況なのである。  
 結局、新幹線も大幅に遅れてしまったが、私としては娘さんからいろいろな話を聞けたことがありがたかった。ゆっくり一歩ずつ、復興に向かっていくことを願うばかりである。

 夜行バスでのチャラ男から始まったこの4日間であったが、密度が濃かった。自分の目で見てはじめてわかったことがとても多かった。そして大島の人はあれだけの辛い思いをしているのにボランティアに対して常に感謝の言葉をかけてくださる。人に対する思いやりと粘り強さをしっかり感じとれた。

 個人で参加した多くのボランティアの人とも知り合いになれたが、みんな熱い人たちばかりであった。話をするときにはしっかりと目を見て話す人ばかりである。しがらみにとらわれず、何とかしたいという思いが目の輝きに出るのかもしれない。久しぶりに青春した。

 時間がゆるせば何回でも気仙沼、大島に足を運びたい。そしてしっかりとした立ち直りを応援していきたい。
 今は破壊されたところばかりに目が奪われたが、日本の原風景のような場所が残っていたところだ。人情もいい。
 募金という協力もあるが、経済的な復興の方が被災地には必要だと思う。私は現地での応援を続けていきたい。

 

 
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気仙沼にて その2

2011-08-23 12:26:27 | Weblog
 



 宿につきふろに入ってから夕食。この宿はインターネットで調べて「ボランティア支援パック大部屋宿泊2食付きで1泊3000円。」ほかに相部屋2名で同6000円もあったが、寝るだけなので3000円にした。ミナミちゃんは6000円コースだ。

 ミナミちゃんとビールを飲む。幸せな時間だった。
 隣の席で食べていた神戸の大学職員のOさんとIさんが明日、大島のボランティアセンターを紹介してくれるというので、お願いした。そこで、先月の20日に俳優のT.Yさんがこの宿に泊まったことを聞いた。ニュースのレポーターとして大島の遅れている現状を報告したらしいが、実はOさんもミナミちゃんもそのニュースでこの島に来ようと思ったとのこと。イケ面俳優の力はたいしたものだ。

 ビールを飲んで気分がよくなったせいもあるが、9時前に熟睡状態になったらしい・・・覚えていない。

 2日目は8時15分に4人(ミナミちゃん・Oさん・Iさんと)で宿を出発。
 センターでは埼玉から来た年配のAさんといっしょに受付をさせてもらったが、彼女は10泊でボランティア活動をすると言う。(ものすごい人がいるものです。)
 
 9時前にセンターを出発して活動場所の港方向に徒歩で向かう。今日の作業はガレキを崩しての分別作業だ。木材、金属、ガラス・陶器などの不燃物、布団、グラスウール、布団の分別だ。
 木材は、すぐに横にある大型機械に放り込んでどんどんチップ状にしていく。何に使えるのか知りたい。
 とてつもなく大きなガレキの山だったが、みんなで根気よく作業を進めていくと確実に減っていくのがわかる。結構うれしいものである。

 午前の作業が終わって再び徒歩でセンターに帰る途中、少し高齢の男性3名がへばった。
 道の端で座り込んでしまった。結局センターの人に車で迎えに来てもらうことになったが、こんな人はボランティアをしてはいけないと思う。
 (この3名と同じ宿の人にあとから聞いた話だが、その晩、スナックで大いに盛り上がっていたとのこと。次の日は早めに帰っていったのだが、何のためにこの島に来たのだろうか?)

 午後の作業を始めようというときに雷が落ち、大粒の雨が降ってきた。結局、この日の作業は中止になった。自然にはさからえない。

 宿に帰って本を読んでいると、会社の同僚の「辻やん」が到着した。彼は明日から2日間ボランティアに参加予定である。
 その晩の夕食は人数も多くなったので、話がまたまた弾んだ。「身が入ったなあ=筋肉痛」という言葉が名古屋では通じないことがわかった〈小発見)。 
 

 
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気仙沼にて

2011-08-22 12:30:10 | Weblog
 8月16日23時池袋発気仙沼行き夜行バス「けせんライナー」に乗って出発です。
気仙沼で3日間ボランティアをやらせてもらうためです。

(果たして自分が何ができるのか、ボランティアは自己満足に過ぎないのではないかと自問自答したこの5か月間でしたが、とりあえず行ってみなければその答えは出ないと思っての個人参加です。兵庫県南部地震のときは、場所が近かったので、引越しボランティアのお手伝いをさせていただきましたが、東北は遠く、わざわざ出かけて行くのはどうかという部分でずいぶんと悩みました。)

 バスが出発して23時30分に消灯。睡眠時間だ。
 前の席の若者4人が、室内灯をつけて話す、話す、うるさい。11時45分、まだうるさい。
 堪忍袋の緒が切れた。「じゃかましい、眠たい人もいるんやで・・・・・・・・・・・」注意をした。その後は静かになったが、言った自分が興奮して眠れなくなった。

 翌朝6時に気仙沼に着く。昨晩に用意した赤飯のおにぎりを駅の待合で食べた。食べているときに若者が駅員さんに、気仙沼のボランティアセンターの道順を聞いていたので、自分も一緒に聞かせてもらう。若者は東京の高校3年生の「スズキくん」だ。聞けば夏期講習と模試の合間に1日暇ができたので参加したとのこと。すごいなあ。

 おにぎりを食べてからボランティアセンターに向かう。8時30分からの受付にはまだ早いが、なにせやることがない。ボランティアセンターに着くと、名古屋の中学校の先生の「ミナミちゃん」がひとりで本を読んでいた。聞けば一緒のバスだったとのこと。しかも今日の宿も同じだった。

 昼の弁当を購入していなかったので、ミナミちゃんに荷物を見てもらってコンビニに向かう。コンビニの帰り道で若者4人組と出会う。昨晩やかましかったチャラ男たちである。
 ボランティアセンターまでの道順がわからずに迷っていたので教えたあげた。そのときに「昨日は注意してすまなかったなあ」と、まったく思いとちがう言葉をかけた。すると・・・「スミマセンでした」4人が変わりばんこに私にあやまった。別に私にあやまってもらわなくてもよいのだが。その言葉で一気に打ち解けた。 聞けば東京の大学生であった。私と同じでなんとか力になってあげたいという思いで参加したとのこと。いい奴らだ。このやり取りがなかったら、彼らにとって私は、「口うるさい大阪弁のオッサン」しかなかったかもしれない。
(ただし、ミナミちゃん曰く「4人組よりスズキくんの方がよっぽど頼もしく見える」とのこと。・・同感です)

 
 この日は田んぼのヘドロの除去と側溝つくりを20人のボランティアと行う。ヘドロは重油混じりで、それを土とともに袋に入れる。袋が100,200と増えていくが、なかなか進まない。大変な作業を1日行った。
 
 帰ってきたセンターでチャラ男4人組に出会う。1日作業をしただけでたくましくなった感じがする。彼らにとっても財産になったはずである。

 1日の作業が終わり、今日の宿泊場所の大島に向かう船の出る港へ向かう。1時間かけてゆっくり歩いたが、港に近づくにつれて被害が顕著になる。信号は倒れたままだし、レトロな建築物は外観を残して中身をごっそりと津波が持っていった。
 船の発着場所で、からまった漁網をほどく作業をしたミナミちゃんと合流。港は満潮時間であったので、まわりの道路はすべて冠水している。地盤沈下の影響である。
 ミナミちゃんが少し海水の少ない場所を見つけたので、靴を脱ぎ裸足になり、ズボンを巻き上げて海水の中を船まで進む。その海水は透き通っていて、連日、冠水していることが推測できる。魚が泳いでいてもおかしくないと思った。
 25分の船旅で大島の港につくが、途中で、今日作業をした田んぼのあった地区が見えた。思わず手を合わせて、復興を祈った。


 

 
 
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志賀高原ロマン美術館

2011-08-22 12:19:23 | Weblog
 志賀高原の美術館で三男のグループ展を約2か月間開催してくれていたので、妻と二人で夏休みの帰省の途中で見てきました。
 12人の京都・大阪の芸大生(卒業生)が集まっての企画展です。
 場所は湯田中温泉・渋温泉から車で少しの所にある町営の美術館で、かの黒川紀章がデザインをした建物です。
 息子は1か月間その美術館で制作をさせていただき、出展しました。ほかの11人は京都・大阪でつくったものを搬入して出展しましたが、息子のはバカでかい作品なので搬入が無理ということで、渋温泉の老舗旅館に泊まらせていただいての制作です。

 「象の背中でくらす」これが息子の絵のタイトルでしたが、正直よくわかりませんでした。ただ、力強さだけは感じました。絵は頭で考えるのではなく感じるものかもしれません。
 いいところで制作にあたらせていただいた美術館、町、旅館に感謝感謝です。

 久しぶりに信州に来たので、帰りはスキーでいつも行っていた菅平に立ち寄りました。
 「ラグビー」「テニス」「サッカー」の大学生、高校生の合宿でごった返していました。若さでムンムンでした。そして喫茶店「むく」で名物の「ラガーメン」というラーメンを食べて、大満足の信州でした。

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