最終の3日目の作業は、大きな家の中の家財道具の運び出しである。
津波で柱と屋根が残ったものの、結局は取り壊す家の中の整理である。
30人ほどでの作業であったが、大きな家のために布団、畳、家電が出てくる、出てくる。
波をかぶっているので廃棄処分だが、外に出してここでも分別である。
家主さん立会いのもとでの作業で、出てきた写真や生活道具を本当に廃棄していいかどうかの確認をしながら進めていく。
神棚の横には先祖の写真が額に入って並べてあったのが粉々になっていた。整理していると写真はまるでトナーが流れたように輪郭だけを残した状態になったものばかりで、ご主人に確認すると廃棄してかまわないとのこと。悲しい気分になった。
何回か軽トラに廃棄物をのせて、港の反対の処分地に行かせてもらった。家電の、ガラスの、畳のうず高い山ができ、行政の管理人に許可をもらって捨てた。
午前中の作業終了して昼食をとったあとで、仲間に挨拶をして帰路についた。とくに3日間をともに過ごしたミナミちゃんには元気をもらった。感謝、感謝である。
13時20分の大島初の連絡船で島をあとにした。
すると「今日はご苦労様でした」と声をかけられた。振り返ると今日、作業をしたご主人であった。島をながめながらお話をさせていただいた。
「自分の家は流れなかったが、津波で前の家3軒が流れてきて家にぶつかりそうになり、引き波でその3軒が家人もろとも海に流されたこと」などを聞かせてもらった。涙が出そうになってしまった。
14時26分気仙沼駅始発の大船渡線で新幹線の「一関」駅に向かう。
重い荷物を棚にのせて本を読もうとしたときに前に座っていた女性から「先ほど船に乗っておられましたねえ」とまたまた声をかけられた。話すと大島にあるお寺の娘さんで、島を出て10年、東京で仕事をしているとのこと。彼女からは、島の人口が3500人ほどで、高齢化が進んでいること、そして多くの人が船で気仙沼市内に通勤・通学をしているために、平日の昼間はさらに高齢者ばかりになっていることを聞いた。まさに地震・津波はそんな平日の昼間に起こってしまった。
また、津波後に気仙沼市内からの火が重油の海を伝わって島に大火事をもたらしたこと、5日間燃え続けたこと、そしてその火事をおさえたのが5日後に降った雪ということなどを教えてもらった。そんなことが現実におこるのである。
彼女と話しているときに車内の人が持つ携帯電話が一斉になり出した。「地震発生」を知らせるものである。「福島で震度5弱、津波注意報が出された」とのこと。
すぐに私の携帯にも辻やんやミナミちゃんから、作業を中止して高台に避難したという連絡をもらう。
大船渡線も停車してしまった。思えば作業した3日間に何回もの地震を感じた。まだまだ油断ができない状況なのである。
結局、新幹線も大幅に遅れてしまったが、私としては娘さんからいろいろな話を聞けたことがありがたかった。ゆっくり一歩ずつ、復興に向かっていくことを願うばかりである。
夜行バスでのチャラ男から始まったこの4日間であったが、密度が濃かった。自分の目で見てはじめてわかったことがとても多かった。そして大島の人はあれだけの辛い思いをしているのにボランティアに対して常に感謝の言葉をかけてくださる。人に対する思いやりと粘り強さをしっかり感じとれた。
個人で参加した多くのボランティアの人とも知り合いになれたが、みんな熱い人たちばかりであった。話をするときにはしっかりと目を見て話す人ばかりである。しがらみにとらわれず、何とかしたいという思いが目の輝きに出るのかもしれない。久しぶりに青春した。
時間がゆるせば何回でも気仙沼、大島に足を運びたい。そしてしっかりとした立ち直りを応援していきたい。
今は破壊されたところばかりに目が奪われたが、日本の原風景のような場所が残っていたところだ。人情もいい。
募金という協力もあるが、経済的な復興の方が被災地には必要だと思う。私は現地での応援を続けていきたい。
津波で柱と屋根が残ったものの、結局は取り壊す家の中の整理である。
30人ほどでの作業であったが、大きな家のために布団、畳、家電が出てくる、出てくる。
波をかぶっているので廃棄処分だが、外に出してここでも分別である。
家主さん立会いのもとでの作業で、出てきた写真や生活道具を本当に廃棄していいかどうかの確認をしながら進めていく。
神棚の横には先祖の写真が額に入って並べてあったのが粉々になっていた。整理していると写真はまるでトナーが流れたように輪郭だけを残した状態になったものばかりで、ご主人に確認すると廃棄してかまわないとのこと。悲しい気分になった。
何回か軽トラに廃棄物をのせて、港の反対の処分地に行かせてもらった。家電の、ガラスの、畳のうず高い山ができ、行政の管理人に許可をもらって捨てた。
午前中の作業終了して昼食をとったあとで、仲間に挨拶をして帰路についた。とくに3日間をともに過ごしたミナミちゃんには元気をもらった。感謝、感謝である。
13時20分の大島初の連絡船で島をあとにした。
すると「今日はご苦労様でした」と声をかけられた。振り返ると今日、作業をしたご主人であった。島をながめながらお話をさせていただいた。
「自分の家は流れなかったが、津波で前の家3軒が流れてきて家にぶつかりそうになり、引き波でその3軒が家人もろとも海に流されたこと」などを聞かせてもらった。涙が出そうになってしまった。
14時26分気仙沼駅始発の大船渡線で新幹線の「一関」駅に向かう。
重い荷物を棚にのせて本を読もうとしたときに前に座っていた女性から「先ほど船に乗っておられましたねえ」とまたまた声をかけられた。話すと大島にあるお寺の娘さんで、島を出て10年、東京で仕事をしているとのこと。彼女からは、島の人口が3500人ほどで、高齢化が進んでいること、そして多くの人が船で気仙沼市内に通勤・通学をしているために、平日の昼間はさらに高齢者ばかりになっていることを聞いた。まさに地震・津波はそんな平日の昼間に起こってしまった。
また、津波後に気仙沼市内からの火が重油の海を伝わって島に大火事をもたらしたこと、5日間燃え続けたこと、そしてその火事をおさえたのが5日後に降った雪ということなどを教えてもらった。そんなことが現実におこるのである。
彼女と話しているときに車内の人が持つ携帯電話が一斉になり出した。「地震発生」を知らせるものである。「福島で震度5弱、津波注意報が出された」とのこと。
すぐに私の携帯にも辻やんやミナミちゃんから、作業を中止して高台に避難したという連絡をもらう。
大船渡線も停車してしまった。思えば作業した3日間に何回もの地震を感じた。まだまだ油断ができない状況なのである。
結局、新幹線も大幅に遅れてしまったが、私としては娘さんからいろいろな話を聞けたことがありがたかった。ゆっくり一歩ずつ、復興に向かっていくことを願うばかりである。
夜行バスでのチャラ男から始まったこの4日間であったが、密度が濃かった。自分の目で見てはじめてわかったことがとても多かった。そして大島の人はあれだけの辛い思いをしているのにボランティアに対して常に感謝の言葉をかけてくださる。人に対する思いやりと粘り強さをしっかり感じとれた。
個人で参加した多くのボランティアの人とも知り合いになれたが、みんな熱い人たちばかりであった。話をするときにはしっかりと目を見て話す人ばかりである。しがらみにとらわれず、何とかしたいという思いが目の輝きに出るのかもしれない。久しぶりに青春した。
時間がゆるせば何回でも気仙沼、大島に足を運びたい。そしてしっかりとした立ち直りを応援していきたい。
今は破壊されたところばかりに目が奪われたが、日本の原風景のような場所が残っていたところだ。人情もいい。
募金という協力もあるが、経済的な復興の方が被災地には必要だと思う。私は現地での応援を続けていきたい。