アーモーおやじ

テニスのときによく出る「アーモー」。これが口癖で、なんでも首を突っ込んでは失敗を繰り返しているじいさんの日記です。

大学有志展

2012-02-26 19:43:02 | Weblog



 夫婦で、三男が出品している大学の有志の作品展に行きました。

 大学を卒業して1年がたとうとしていますが、息子はうちの3階をアトリエにしてコツコツ制作を続けています。

 今年は、公募展にも応募したようです。

 バイトと制作の繰り返しの日々ですが、わが家には彼のような考えの人間はいないので、本当に絵が描きたくてしょうがないんだなあと、思うばかりです。

 今回の作品展は、現役生、大学院生、卒業生の有志計11人が大学の制作室兼アトリエを会場にして行ったものです。

 会場に着くと、受付で「よろしかったらご記帳ください」と言われ、妻が名前を書くと、「ああ、高橋くんの・・・」と受付の二人の方にまじまじと見られました。

 思わず「卒業してるのにお世話になってます」と言ってしまいました。

 「こちらも助かっています」との返事。さらに「高橋くんとはゼミもいっしょに受けています」とのこと。
 なんと、卒業生がまだゼミまで出させていただいていうるようで、授業料などはどうなっているのでしょうか・・・不思議な大学です。

 息子の作品は私にはよくわかりませんが、有志の方の中にはかなりの力作もあって、妻は感動していました。
 
 息子3人ともに卒業をしているので、それぞれの人生を歩んでいけばいいと思いますが、3人ともにいい友達にめぐり合えているなあ、と今回もさらに感じてしまいました。


 車での帰り道、京都はかなりの渋滞で時間がかかってしまいました。車中で、私は「学食のうどんは130円で安かったなあ」「今日の受付にいた二人の女の子はかわいかったねえ」と妻に繰り返し言っていました。いったい私は何を見にいっていたのでしょうか?
 

 
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気仙沼大島から その2

2012-02-23 12:34:29 | Weblog




 2月19日、気温は低いがいい天気である。
 朝食しているときに、休暇村の人が「亀山に行きませんか」と声をかけられた。
 今日は、平泉の中尊寺に行って、仕事の写真を撮る予定であったのだが、まだ朝早いのでいっしょに行かせていただいた。

 亀山は島の一番高い場所で、震災前までは港からリフトがつながっていた。しかし、津波でリフト乗り場は破壊され、そのうえ次の日に気仙沼市内から海を渡ってきた火によって、大規模な山火事が起こったところである。

 休暇村から歩いて40分で、車では10分もかからないすぐのところだが、途中の木々の多くに燃えた跡がくっきり残っていた。

 休暇村の人にいろいろ説明してもらいながら展望台に登ったが、素晴らしい景色である。
 観光の目玉になると思った。

 「実は、こんなにここは開けていなかった。火事で木がほとんど燃えたために切り倒してこんな眺望になった」と説明された。

 非常に複雑な気分になった。山火事でよく見えるようななったなんて・・・。
 すぐ近くには愛宕神社という小さな祠があったのだが、まわりは焼けているのに、ここだけはまったく燃えなかったとのことである。不思議であるが、ここは燃やしてはいけないという天の力だろうか。


 「ここの下から連絡橋があと6~7年で完成する」と教えていただいた。
 この橋については、災害対策本部の人も居酒屋さんも待望の橋であり、島の人間が気仙沼市内まで働きにいくのに便利になると喜んでおられた。もちろん観光にも役立つ橋である。

 ただし、島の一部の人は反対しているとのことも聴いた。「治安面」が一番のネックになっているらしい。これは乗り越えなくてはいけない問題だが、伊豆七島の2・3の島がかつて治安や風紀が乱れて問題になったことがある。「治安面」は橋ができるできないということとは違うような気がする。

 いろいろなことを勉強した大島での二泊三日であった。食べたことのない郷土の料理を食べ、ハクビシンが出るかもしれないと忠告を受けていたのに、真っ暗な道を踊りながら歩いたり。
「縁は異なもの」とよくぞ言ったものである。

 
 平泉の帰りの新幹線。大阪まで五時間半。
 長いなあと思っていたが、夏に知り合ったボランティア仲間やいろいろな縁で知り合った人たちに島のようすをメールして、返事が来て、また送ってということをしていたらあっという間に東京に着いた。なんせ、私のメールを打つスピードが遅いものだから、電池もなくなりかけたり大変だった。
 東京からの新幹線にはしっかりと電源のプラグがあったので、またまたメールで盛り上がった。

前年の8月の帰りに、電車でいっしょになったお寺の娘さんにもメールをしたところ、なんと私の乗った新幹線の少し前の新幹線で、京都に出張で向かっている途中ということがわかった。まさかのサプライズである。
彼女は、京都駅で会いたいと連絡をくれた。
そして、駅の待合室で久しぶりの対面である。島の写真を見ながら、最終新幹線が出るまで盛り上がってしまった。

 しばらくは思い出して眠れそうもない日が続くかもしれない。
 
 
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気仙沼大島から

2012-02-21 19:32:56 | Weblog
 2月17日、出張で東北に来ていて、ちょうど仕事が金曜日に終わったのを利用して、夏休みに行った気仙沼の大島でボランティアに参加した。

 夏休みに知り合いになった人から、いろいろな情報をいただいていたので、夏からどれだけ復興したか、冬の今の時期に災害対策本部はどのような活動をしているのかも知りたかったので、しんどい出張は本当にありがたかった。

 気仙沼の港を17時30分発のフェリーで島に渡ったが、真っ暗である。休暇村大島の方に迎えに来てもらい、宿に着いてすぐに居酒屋さん(島では飲み屋さんというらしい)まで送ってもらった。
 この居酒屋さんご夫婦は気仙沼市内で店をされていたのだが、津波ですべて失って実家のある大島にもどってこられた。事前に情報をもらっていたのでお話を聞きたかったところである。
 お店に入ると、普通の家の玄関があり、靴を脱いで居間に案内されたが、ここがお店になっていた。お客さんがいなかったので、「大阪から来ました」と話し始めると、ご主人は料理の手をときたまとめて、津波のときの状況を話してくれた。

 はじめの避難指示で車に荷物をまとめて出発したが、すぐに渋滞。前の車が道をふさいで動けなくなってしまった。
 2回目の警報で車を捨て、奥さんと走って逃げたが、逃げながら見た光景は地獄だったそうだ。
 結局、免許証1つしか残らなかった、大切な奥さんが無事でよかった・・・

 実家の島に帰って、しばらく失望した生活を送っていたが、近所のみんなの応援と支えで、店の再開にこぎつけた。島のみんなは、集まれる癒しの場所がほしかったのだそうだ。お店の常連は平均年齢78歳とのことだ。

 星野富広さんお詩を思い出した・・「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった、いのちより大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しかった」・・

 苦しい思いで生きていかなければならない人がたくさんいる。でも、生きている人は絶対に生き続けなければならない。そのためには「家族愛」「友情」が支えになり、立ち直れるのだと思う。『絆』などというかっこいいものではなく、ほんとに身近な支えが大切だと感じた。

 たくさんの新鮮な海の幸をごちそうになり、お酒を飲んでいい気分で居酒屋さんをでた。 
 休暇村の人は迎えに来ますからと言ってくれていたので、すぐに連絡をしようと思っていたが、正面になんと北斗七星がどーんと飛び込んできた。南の空にはオリオン座、冬の大三角、冬のダイヤモンドの1等星、オリオン座の三ツ星の下にははっきりとオリオン星雲。正に満天の星である。空がでかい。山小屋の空にもきれいな星がまたたくが、空はせまい。月のない島の星空は大パノラマの大感動の空であった。
 思わず大好きな夏川りみの「満天の星」を大声で歌った。発表会で大失敗したダンスを踊りだしたくなった。教室のみんなとここで踊りたいなあとしみじみ思った。(今月は出張続きだったのでお休みしているので、そろそろ我慢ができなくなっている・・)
 何時間でも見ていたいような星空だったから休暇村までは踊りながら歩いて帰ろうと決めた。
 すると1台の軽自動車が私の横に近づいてきた。中から「休暇村までいくのか?」と声をかけられた。「そうです」と答えると即座に「乗って、乗って」の声。あまりの勢いに思わず乗ってしまった。聞けば島の建設会社の人で、ボランティアをやらせていただきますと言うと、お礼を言われた。「島の海岸をきれいにしてくれたのがうれしい」と言っていただいた。私がやったわけではないので、恐縮するばかりである。
 後から知ったことだが、この人は津波の後で自分の船を出して3人の命を救った人だったらしい。まだまだ星空を眺めていたかったのだが、すごい人にめぐり合ったこともうれしい。

 次の日、朝8時半に災害対策本部に行って手続きをした。関東から11名の団体が来るので、そこに加わって活動させてもらった。なんでもこの団体は、このボランティアセンターで知り合い、月に1・2回程度、仕事が終わった金曜日の晩に出発して、活動をされているとのことである。この人たちもすごい。
 仕事は流れ着いた漁具の片付け。現場は風の通り道で寒すぎる。パッチをはいて完全防寒の体勢であったが、何時間できるかなあと不安であった。仲間もみんなそう感じていた。
 30分ほど作業をして、リーダーに連絡が入った。
 作業場所変更である。
 明日、取り壊す旅館の引越し手伝いになった。




 古い旅館であったが、津波で1階部分は使えなくなり、取り壊すことになったとのこと。
 現場は寒くはなかったので、内心は嬉しかった。
 旅館の2階部分はさほど海水がかかっていないので、カーテンやふとん、畳はまだ使えた。そこでそれを仮設住宅に寄付するということであり、何回か運んだ。
 1日仕事をして、島の中を車で回ったが、小さい船は打ち上げられたままであり、壊れた家はガレキが取り除かれただけであり、まだまだ先が長いと感じた。

 1日作業が終わって、休暇村に帰り、お風呂に入って買ってきたビールを飲んだ。
 いつ眠ったのかわからないほどの爆睡であった
 出張疲れが一気に出たようだ。本当はもう一軒、教えていただいた居酒屋があったのでいきたかったのだが、たどりつけなかった。次の機会の楽しみにしたい。
 
 
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オルゴール騒動

2012-02-09 12:17:40 | Weblog

 「ヒャーーー」長男のお嫁さんの声である(実際に聞いたわけではないので創作)。
家にあったオルゴールを見たときの状況である。

 お祝いでいただいて、このところ見なかったオルゴールが、三男の部屋を掃除していたとき発見された。彼はちょくちょく聴いていたと証言していたが、ゴミの中に眠っていたに違いない。
 実はこのオルゴールは長男が生まれたときに、妻が勤めていた学校の同僚からお祝いとしていただいたものである。今から30年前のことだ。そのときは「いい音色だなあ」「高そうだなあ」ぐらいにしか思わず、しばらくは五月人形の横にあったのだが、行方不明になっていた代物である。

 それが見つかって久しぶりに聴いていたところにお嫁さんが登場して驚いたのだ。
 彼女はオルゴールに詳しく、「72弁のスイスのリュージュ社製」とすぐにわかったとのこと。「弁とは、なんのこっちゃ?」
 これは大変貴重なビンテージものらしく、当時でも15はしたはずで、今では20以上だということ。
 「ヒェーーーー」我が家の庶民の悲鳴である(これは実況です)。

 そんな高価なものが、あのゴミ部屋に保管されていたとは・・・、しかもゴミに守られていたために保存状態もすこぶる良好である。

 早速、インターネットで今の価値(ゲスの勘繰りである・情けない)を目を輝かせて調べまくった。すごい値がついていたものがあったが、うちのオルゴールと同じものはなかった。ただ、72弁はかなりすごいということがわかった。オルゴールの箱の下に「○○くんの誕生を記念して1981年7月18日」というプレートが貼り付けてあり、「これがあると価値が下がるなあ・・・」などと悪魔のささやきも聞こえたりしていた・・・

 72弁とはオルゴールの鍵盤の数でピアノでいうなら6オクターブ分の音階があるということらしい。144弁ともなると150ぐらいのものもある高価なものだ。しかも3部合唱のように幾重にも重なった音で、「カノン」なんかが聴けるのである(リュージュ社のホームページで視聴できる)。

 1年間でつくる数が少ないために、年数を重ねるとマニアの間では価値が上がるものだそうだ。


 床においたオルゴールを、床に耳をつけて聴くのが一番いいとお嫁さんが教えてくれた。
 知らなかった世界がまだまだ多いなあと感じた。


 そのオルゴールが神棚に祭られたのは、言うまでもないことである。

 
 

 
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