2月20日の日曜日、三男の卒業展を見るために、京都市美術館に行ってきました。
疲れましたが、何とか最後まで見ることができました。その後、河原町まで妻と二人で歩きましたが、なんだか無性に寂しくなってきてしまい、無言で歩きました。
思えば3人の息子たちのうち、一番心配させられた、泣かされた、そして喜ばされた三男です。
妻の妊娠中に、腸の大部分が腹腔と共に外に出る状態の臍帯ヘルニアがわかり、阪大病院で帝王切開で出産。
生まれてすぐに手術。退院して共同保育所でも脱腸で病院搬送。腸閉そくでも入院。保育園時代と小学校のときも腸の状態を見るための手術そして検査。肝炎で入院。毎年の身体検査でも再検査ばかり。
保育園に行く朝は必ず浣腸、入院では小さい血管に研修医の採血の針が入らず何回、何十回も打ち直され、手術した日の晩は痛さで1日中泣き明かした、そんなことの繰り返し。採血の注射を打つときに痛がりあばれる息子以上に泣きながら押さえ続け、腸閉そくで痛みが治まらずに一晩で何回も阪大病院を往復したこともありました。
それにしてもあの頑固な性格はどこで身に付いたやら。自分の決めたことは絶対曲げない、世話のかかる奴です。
保育園時代に家族5人で北海道キャンプ2回、尾瀬縦走もしましたが、兄たちの応援で何とか乗り切りました。尾瀬では入ったその日に高山病。夜に何回ももどしてしまい、次の日の燧ケ岳登山は父と兄たち二人でと決めていたのですが、登山道入り口に来て、自分も登ると言い出してきかず、お腹に何にも入っていないのに、頂上まで助けも借りずに登り切る・・信じられない根性でした。朝早くから歩きはじめて、宿に入ったのは日が暮れていたのをハッキリと覚えています。
体が弱いからとなんとか強くしたいという思いだけで、むしろ強制的に次男が入っていたソフトボールチームに3年生から参加させ、中学校ではこれも私の希望で陸上部に入れさせられ・・・
陸上部は部員が少なく、練習でひとり黙々とスタートダッシュ、何回も何回も日が暮れるまでやっていました。でも、それが彼のしたいことだったのかどうか、今思うと親のエゴだけだったかもしれません。
小学校に入ったときから絵を描くこと、文を書くことだけは大好きでした。4コマ漫画を描き続け、学級通信に連載コーナーを作ってもらいました。先生に感謝です。クラスのみんなが息子の描く絵を面白がってくれたこと、これらが今につながっているのだと思います。
漫画の絵はあまりうまくなかったけれども、4コマ漫画のストーリーは大好きでした。下品でなく、人をバカにしたような内容は一切なく、きちんとオチがある、そんな漫画だったと思います。クラスのみんなはそれをわかっていたはずです。
高校入試ではもちろん美術系。親はこの高校の美術科がいいと勧めたが、息子は断固として自分で決めた高校を貫いて入学。頑固者です。
大学入試でも大変でした。沖縄の芸大受験に出発の際に、飛行場で持っていった絵の具を溶く溶剤が持ち物検査に引っかかって没収。このままでは試験を受けられない事態に。幸い土曜日で長男が家にいたので、すぐさまインターネットで沖縄中の画材屋さんを検索して探し、沖縄到着後に購入の手配。京都精華大学の入試でも自分が描いた作品の写真集(ポートフォリオとかいうやつ)が必要なのにそれを忘れていて、当日は別の試験があったため、これまた私が高校へ行って、先生や後輩の生徒と一緒に作品を集めて写真をとりまくり作成。どんだけ迷惑かけたらいいんや・・・・
しかし、その努力もむなしく、沖縄の芸大と京都精華大学は不合格。
でもでも別の私立大学がひとつ受かって、親は大喜び。ところがその日の夕方にその大学には行く気はないと宣言。親は天国から地獄の気分を味わいました。そして4月からは予備校と決めていて、バイトをし始めた3月31日。京都精華大学から欠員が出たので、入学許可の連絡が入ってまたまた急転回。このときばかりは息子は嬉しかったようでした。
「です・ます」調はしんどいので、やめます。
とにかく、大学卒業までいろいろあったなあ。忘れてはいけないことばかりだ。
大学センター入試まであとひと月の12月、友だちをなぐって1週間の停学をしたこと。ブログにも書いたけれど、あのときは父・母ともに大学なんてどうでもよかった。ただ、人を傷つけるようなお前ではないと思っていたことへの無念さだけが苦しかった。でも、次の日の朝にお前の顔を見たとき、実は嬉しかった。自分で自分の顔をなぐって、誰だかわからんくらいの人相。「自分は傷つけられても絶対に人の体も心も傷つけてはいけないこと」わかっていたのが嬉しかったなあ。しかし、停学命令を校長先生から父母・お前の3人でもらうとき、「お父さんやりましたね」という目で先生方から見られていたことは覚えておけよ。(笑)
「卒業してもあと数年間は絵を描き続けたい」それはお前の人生だから構わないが、父・母とも自立したうえで絵を描く環境をつくりだすべきだと思う。甘えていたら、いい絵なんか描けない気がするし、それはよくわかってほしい。頑固でもこれは大事だ。私も卒業して2年間はいろいろ経験させてもらったが、人に世話になることだけはしなかったつもりだし、それが今の自分のベースにもなっていると思う。
卒業にあたって、お前のまわりの人のことを忘れてはいけない。
どんなに遅く帰っても、温かいおかずをと思って火を入れているお母さん、生まれてすぐの手術のときに自分も帝王切開でしんどいはずなのに「私の血を輸血して」と叫んでいたお母さん、お前を怒るとどこからともなく現れて「お父さん、もうそれくらいでいいんとちがうか」という上の兄、お前が入院しているときに心配で食事が全く取れなくなる下の兄、「やさしい子だから」といつもお前を気にかけてくれる大阪の埼玉のおばあちゃん、笑顔で迎えてくれた天国のおじいちゃん二人、「卒業してからしばらく孤独になるから」と心配してくれている兄の嫁さん、埼玉の私の兄弟とその家族、大阪の妻の兄弟とその家族、輸血してくれた私の会社の同僚、学校の先生方、みんなみんな、感謝しなくてはだめだ、絶対に忘れてはだめだ。
でも、悩みがあったらいつでも来いよ。父・母は応援だけはしてあげるからな。
疲れましたが、何とか最後まで見ることができました。その後、河原町まで妻と二人で歩きましたが、なんだか無性に寂しくなってきてしまい、無言で歩きました。
思えば3人の息子たちのうち、一番心配させられた、泣かされた、そして喜ばされた三男です。
妻の妊娠中に、腸の大部分が腹腔と共に外に出る状態の臍帯ヘルニアがわかり、阪大病院で帝王切開で出産。
生まれてすぐに手術。退院して共同保育所でも脱腸で病院搬送。腸閉そくでも入院。保育園時代と小学校のときも腸の状態を見るための手術そして検査。肝炎で入院。毎年の身体検査でも再検査ばかり。
保育園に行く朝は必ず浣腸、入院では小さい血管に研修医の採血の針が入らず何回、何十回も打ち直され、手術した日の晩は痛さで1日中泣き明かした、そんなことの繰り返し。採血の注射を打つときに痛がりあばれる息子以上に泣きながら押さえ続け、腸閉そくで痛みが治まらずに一晩で何回も阪大病院を往復したこともありました。
それにしてもあの頑固な性格はどこで身に付いたやら。自分の決めたことは絶対曲げない、世話のかかる奴です。
保育園時代に家族5人で北海道キャンプ2回、尾瀬縦走もしましたが、兄たちの応援で何とか乗り切りました。尾瀬では入ったその日に高山病。夜に何回ももどしてしまい、次の日の燧ケ岳登山は父と兄たち二人でと決めていたのですが、登山道入り口に来て、自分も登ると言い出してきかず、お腹に何にも入っていないのに、頂上まで助けも借りずに登り切る・・信じられない根性でした。朝早くから歩きはじめて、宿に入ったのは日が暮れていたのをハッキリと覚えています。
体が弱いからとなんとか強くしたいという思いだけで、むしろ強制的に次男が入っていたソフトボールチームに3年生から参加させ、中学校ではこれも私の希望で陸上部に入れさせられ・・・
陸上部は部員が少なく、練習でひとり黙々とスタートダッシュ、何回も何回も日が暮れるまでやっていました。でも、それが彼のしたいことだったのかどうか、今思うと親のエゴだけだったかもしれません。
小学校に入ったときから絵を描くこと、文を書くことだけは大好きでした。4コマ漫画を描き続け、学級通信に連載コーナーを作ってもらいました。先生に感謝です。クラスのみんなが息子の描く絵を面白がってくれたこと、これらが今につながっているのだと思います。
漫画の絵はあまりうまくなかったけれども、4コマ漫画のストーリーは大好きでした。下品でなく、人をバカにしたような内容は一切なく、きちんとオチがある、そんな漫画だったと思います。クラスのみんなはそれをわかっていたはずです。
高校入試ではもちろん美術系。親はこの高校の美術科がいいと勧めたが、息子は断固として自分で決めた高校を貫いて入学。頑固者です。
大学入試でも大変でした。沖縄の芸大受験に出発の際に、飛行場で持っていった絵の具を溶く溶剤が持ち物検査に引っかかって没収。このままでは試験を受けられない事態に。幸い土曜日で長男が家にいたので、すぐさまインターネットで沖縄中の画材屋さんを検索して探し、沖縄到着後に購入の手配。京都精華大学の入試でも自分が描いた作品の写真集(ポートフォリオとかいうやつ)が必要なのにそれを忘れていて、当日は別の試験があったため、これまた私が高校へ行って、先生や後輩の生徒と一緒に作品を集めて写真をとりまくり作成。どんだけ迷惑かけたらいいんや・・・・
しかし、その努力もむなしく、沖縄の芸大と京都精華大学は不合格。
でもでも別の私立大学がひとつ受かって、親は大喜び。ところがその日の夕方にその大学には行く気はないと宣言。親は天国から地獄の気分を味わいました。そして4月からは予備校と決めていて、バイトをし始めた3月31日。京都精華大学から欠員が出たので、入学許可の連絡が入ってまたまた急転回。このときばかりは息子は嬉しかったようでした。
「です・ます」調はしんどいので、やめます。
とにかく、大学卒業までいろいろあったなあ。忘れてはいけないことばかりだ。
大学センター入試まであとひと月の12月、友だちをなぐって1週間の停学をしたこと。ブログにも書いたけれど、あのときは父・母ともに大学なんてどうでもよかった。ただ、人を傷つけるようなお前ではないと思っていたことへの無念さだけが苦しかった。でも、次の日の朝にお前の顔を見たとき、実は嬉しかった。自分で自分の顔をなぐって、誰だかわからんくらいの人相。「自分は傷つけられても絶対に人の体も心も傷つけてはいけないこと」わかっていたのが嬉しかったなあ。しかし、停学命令を校長先生から父母・お前の3人でもらうとき、「お父さんやりましたね」という目で先生方から見られていたことは覚えておけよ。(笑)
「卒業してもあと数年間は絵を描き続けたい」それはお前の人生だから構わないが、父・母とも自立したうえで絵を描く環境をつくりだすべきだと思う。甘えていたら、いい絵なんか描けない気がするし、それはよくわかってほしい。頑固でもこれは大事だ。私も卒業して2年間はいろいろ経験させてもらったが、人に世話になることだけはしなかったつもりだし、それが今の自分のベースにもなっていると思う。
卒業にあたって、お前のまわりの人のことを忘れてはいけない。
どんなに遅く帰っても、温かいおかずをと思って火を入れているお母さん、生まれてすぐの手術のときに自分も帝王切開でしんどいはずなのに「私の血を輸血して」と叫んでいたお母さん、お前を怒るとどこからともなく現れて「お父さん、もうそれくらいでいいんとちがうか」という上の兄、お前が入院しているときに心配で食事が全く取れなくなる下の兄、「やさしい子だから」といつもお前を気にかけてくれる大阪の埼玉のおばあちゃん、笑顔で迎えてくれた天国のおじいちゃん二人、「卒業してからしばらく孤独になるから」と心配してくれている兄の嫁さん、埼玉の私の兄弟とその家族、大阪の妻の兄弟とその家族、輸血してくれた私の会社の同僚、学校の先生方、みんなみんな、感謝しなくてはだめだ、絶対に忘れてはだめだ。
でも、悩みがあったらいつでも来いよ。父・母は応援だけはしてあげるからな。