アーモーおやじ

テニスのときによく出る「アーモー」。これが口癖で、なんでも首を突っ込んでは失敗を繰り返しているじいさんの日記です。

フォークの時代

2024-01-28 07:06:00 | Weblog
 フォークソングの歴史を振り返るBSの番組があり、懐かしくて昔を思い出した。

 1970年から1973年の間、いったい何があったのだろう。
 岡林信康さん、吉田拓郎さん、かぐや姫がフォークはこうだ、とばかりに歌い、大活躍していた。
 赤い鳥、五つの赤い風船、六文銭と、グループフォークも負けじと大学紛争後の学園祭で叫んでいた。








 私の中学から高校時代である。

 赤い鳥が出ている公開ラジオ生番組に行き、終電に乗れずに池袋から歩いて帰り、おやじにこっぴどく怒られたこと。

 五つの赤い風船の日比谷野外コンサートに行き、満員で入れずに場外からわずかな音を探ったこと。

など、昨日のことのように覚えている。


 私が大阪に来たのも、フォークソングの影響があったからだ。
 五つの赤い風船が「遠い世界に旅に出ようか」と歌ったからだ❗️
 六文銭が旅立ちの歌で「銀河の向こうへ飛んでいけ」と歌ったからだ❗️
 かぐや姫が「東京で見る雪は最後だと」歌ったからだ‼️

 それらすべてが1970年前後から1975年までの出来事である。
 私は1975年の4月に大阪に来た。見るものすべてが新しく、別世界だった。

 悩んでは泣き、喜んでは泣き、悔しくて泣きの連続だった。今でも続いているが、今は本当に涙が出るので厄介である😅

 歌があってよかった。
 最近のヒット曲はまったくわからん、と私たち世代はよく口にするが、南こうせつさんは、
「歌はジャンルや世代を超えて永遠に残るもの、良し悪しなんかはないよ」
と番組内で述べられていた。
 今の歌を悪く言うじいさんは、見習いたいと強く思った次第である😆

 
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校歌を歌う

2024-01-24 07:08:00 | Weblog
 スマホ用スピーカーの作り方をYouTubeで見つけて作りました。



 スマホの音が広がり、少しだけ迫力がでます。
 大好きな太田裕美さんや浜田省吾さんの曲を聴いて楽しんでいたのですが、母校の校歌も聴いてみたくなり、同じくYouTubeで探すと、いくつか見つかり楽しくなりました。

 まずは豊島区立文成小学校校歌。



 詩人のサトウハチローさん作詞、歌のお姉さんで有名な松田トシさん作曲です。
 今は統廃合されてありません。

 続いて豊島区立池袋中学校校歌。



 これまた、学校整理で名前が変わっています。

 3年まで行った東京都立工業高等専門学校校歌。


 当時東京の高専は、都立の都立工業高専と都立航空高専、それに国立東京工業高等専門学校がありましたが、都立は統合されて、都立産業技術専門学校になりました。
 都立高専の校歌を探すと、初音ミクが歌うのがありました。作曲は小関裕而さんです。「工業日本の先駆となりて」という歌詞が正に高専らしいんです。

 大学の学園歌はまったく記憶になく、その代わりに4年間暮らした寮歌はしっかりの歌えます。



 敏美さんがこの寮歌を聴いたとき、
「軍歌だね」
との感想でした😊

 
 面白くなったので、敏美さんの母校も調べました。
 小学校は4年生まで通った大阪市立田中小学校。



 残念ながら、校歌の歌詞は見つからず。
 港区にある小学校で、敏美さんの家の隣りには、先日亡くなった坂田利夫さんが住んでいて、坂田さんはお姉ちゃんの同級生だったそうです。

 続いて吹田市立吹田東小学校。



 敏美さんが5年生から通った小学校で、息子たち3人も母校です。

 次は吹田市立第五中学校。同じく私以外の4人の母校。



 
 高校は大阪府立春日丘高校。敏美さん、長男、次男の母校です。



 卒業生には、嘉門達夫さん、槇原敬之さん、桂吉弥さんなどがいます。作曲は山田耕作さんです。


 敏美さんも大学の学園歌は記憶にないそうです。まあ、私と同じだからね。


 校歌のメロディはしっかり覚えてますが、歌詞は印象深いところだけ断片的に覚えてました。
 私の中学校では「秩父の山を」、寮歌では「猪名の川」、敏美さんの高校では「紫染る竜王の」など、地域の名前が出てくると、あー懐かしいなあ、という気分になります☺️
 
 久しぶりに大声で歌うと気持ちがいいもんです。スピーカー、大活躍でーす‼️




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仲間といつまでも仕事がしたい、のに

2024-01-23 07:26:00 | Weblog
 移住し、介護士パートとして今の職場に勤めて5年が過ぎました。

 それまで原稿とにらめっこして仕事をするデスクワークから、まったく正反対の肉体労働です。ただ身体を使えばいいのではなく、利用者さんの様子をしっかりと見つめながらする気遣い重視の仕事です。


 初任者研修で資格は取ったものの、特養の現場での仕事はその資格などはまったく関係ない、かなりハードな職場でした。
 人と接する仕事がしたいと思い選んだ自分の考えは、まったく甘かったと気付かされました。

 排泄処理の仕事を終えてからの昼食、まったく食べられず。
 利用者さんの名前が覚えられず、配膳で間違えて大迷惑。
 入浴介助で服を着せるときに健側の腕から着せてしまい、利用者さんを泣かし。
などなど、62歳の高齢介護士は失敗の連続です。
 そのたびに主任からは怒られ、「ど素人」と言われる始末でした。


 それが今まで続けてこられたのは、先輩の温かい指導があったからです。
 ある先輩は、パットの当て方が悪いと怒られていた私を見て、
「高橋さん、ちょっと来て」
「今から〇〇さんのパット交換するから、高橋さんやってみて」
と言って、やり方を教えてくれました。

 また、ある先輩はいつも利用者さんの対応に困っている私に、全利用者さんごとの特徴と対応への注意を示したリストを作ってくれました。私のバイブルです。

 また、先輩パートは退職するときに、私のシフトが変わるかもしれないと聞き、そのシフトでの注意点を、これまた手書きで詳しくまとめてくれました。

 これらはすべて私の宝物です。
 
 私はいっしょに働く職員、パートはみんな大好きです。こんな年寄りに好きと言われても嫌がられると思いますが、、😅
みんな、しんどい仕事を人任せにしないんです。自分から進んでするんです。


 ところが今、会社のやり方に憤りを感じることがいくつかあり、職員は悩んでいます。職員を守るのが会社や組織だと思うのですが、それと反対なことが表面化していて、上司は本当に私たちの仕事をしっかり見てくれているのだろうかと、、、
 

 私は利用者さんとの関わりも好きで、お世話することも嫌ではありません。
 みんな、仕事中は切り替えていますが、休みになると、なぜか寂しくなります、今日もです。

 
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もどかしい防災の日となった

2024-01-17 06:08:54 | Weblog
 阪神・淡路大震災から29年。

 能登半島地震が起こり、当時の記憶を昨日のことのように思い出した。

 このときの様子は、このブログ2022年1月17日「1995年からのこと」で書いたが、同じことが今も能登の地震で繰り返されている。心が痛い。

 今すぐにでも現地に行って、助けてあげたい。ボランティアをしたい。

 ボランティア活動に誘ってくれた先輩(当ブログ2020年1月23日「悲しい知らせ」)
といっしょに能登に行きたい。

 
 先週のテニスのとき、テニス仲間たちと阪神の震災のときの様子を話したのだが、話が尽きない。
 息子さんと参加していたYさんは当時芦屋に住んでいて、奥さんは4か月の身重だった。そして生まれたのが今、テニスしている息子だよと教えてくれた。生きて生まれてこれたことに感謝したそうだ。みんな昨日のことのように、すべてが自分ごととして話し合った。そして最後は
 「テニスしている私たちは幸せだ」
で終わった。みんな、能登の人を心配しているのだ。


 昨日のニュースに



の記事があった。介護士の自分として、少し驚いたし、とても複雑な気持ちになった。
 介護士、看護士は慢性的な人手不足の世界である。国からの要請とは言え、これほどの人数が集められるとは、、

 人員不足の原因は職場環境にある。厳しい現実がある。
 私はボランティアに参加したいが、介護士としては参加したいとは思わない。現場の多くの介護士は私と同じ気持ちのはずだ。
 

 自分さえよければいいと考える日本人はいない。少なくとも集団の組織では、苦しみ、悩みは共有していかないと進歩はない。テニス仲間だけでなく、国、学校、会社、町会、そのすべての組織でである。

 
 このジレンマ、なんとかならないのだろうか‼️


 


 
 
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ウォーキングついでに

2024-01-13 15:52:00 | Weblog
 何も予定のない休日は、敏美さんと二人でウォーキングに出かけてます。
 
 敏美さんは、町会の体操仲間や一人でほぼ毎日ウォーキングをしているのですが、私と二人で行くときは何か特別なことをしようということで、最近はウォーキングついでにゴミ拾いをしています。

 先日は大避神社の初詣ついでに、そして今日は苔縄駅まで、ゴミ拾いウォーキングをしました。初詣に行くときにゴミ拾いをすれば、神様も喜んでくれます‼️
 
 
 ゴミ拾いトングとビニール袋を持って、道端のゴミを拾って歩きます。
 




 道端のゴミは、空き缶、ペットボトル、マスク、タバコの吸い殻が主なものです。
車の窓から捨てるのでしょう。1時間ほど歩くと、ビニール袋2つがほぼいっぱいになりました。ポイ捨てをしなければ、こんなゴミはないのに、言いながら拾っています。また、ゴミ拾いをすればポイ捨てをする人はいなくなると思います。




 ゴミ拾いをしている様子を見て、「ありがとう」と声をかけてくれる人もいます。
敏美さんの狙いは、ゴミ拾いウォーキングを広めることのようです。

 
 持ち帰ったゴミを分別するのは少し面倒ですが、ただ歩くだけのウォーキングにはない清々しさが残ります😊 
 良いことをして得られる自己満足なら、ドンドンしていきましょう🤗
 

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老夫婦主催スポーツ教室

2024-01-09 07:00:00 | Weblog
 次男一家が2泊3日の合宿に来ました。

 1日目は、次男一家だけで赤穂伊和都比売姫神社と上郡高峯神社に行き、健康と安全祈願。

 2日目、じいさんと次男と上の孫二人は峰山高原スキー場でソリ遊び、宍粟市伊沢の里での温泉癒し。





 敏美さんと次男妻と下の孫は佐用南光町の旬菜ひだまりでランチ。ひだまりのインスタに、その様子をコメントしてもらいました☺️



 3日目は我が家の横で初打ちテニス。
帰りに西はりま天文台で望遠鏡見学。









 それはそれは大忙しの合宿でした。

 孫たちに少しでも思い出が残っていてくれたらと、老夫婦は願っております😊

 
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日本人として

2024-01-06 09:15:00 | Weblog
 地震速報を聴きながら上郡に戻り、被災された方々の過酷な状況に胸を痛めている。なんで、こんなことが、、、
 
 私は今すぐに現地に行き、少しでも手助けできたら、という衝動にかられている。
 でも、今は何もできない。
 
 こんなときこそ心あたたまる情報をと思い、調べてみた。


 被災地で・・

 和倉温泉加賀屋。超有名な老舗旅館である。地震で一階や風呂場が壊滅した。
 お客さんを避難させてから、全ての布団などの寝具を避難所に運び入れた。温泉も開放したいができない。

 輪島朝市にある老舗和菓子屋中浦屋。販売所は火災で全焼。
 在庫の和菓子やプリンをすべて無料配布。被災された方々に少しでも癒しになればと、できることすべてやるとのこと。

 地域の人たちへの感謝を忘れずに仕事をしてきたことがよくわかる。尊敬すべき女将であり、社長である。


 関西の企業から・・

 山崎製パン。自社トラックにパンを積み込み、被災地に運び込む。それに呼応するようにパン工業会が支援体制を整えた。そのスピードに驚かされた。パンは調理せずに食べられる緊急食である。
 阪神大震災のときである。中学校に通っていた長男がグラウンドが使えなくなったと帰ってきた。体育の授業や陸上部が使うグラウンドがである。なんとグラウンドがヘリポートになったのだ。
 吹田第五中学校の隣に山崎製パンの工場があり、そこで作られたパンを被災地に運ぶためのヘリポートだった。
 山崎製パンの飯島社長もすごい人です。

 岩谷産業、モンベル・・
 岩谷産業はカセットコンロなど、モンベルは寝袋などのアウトドアグッズを被災地に運び始めた。

 このことは絶対に忘れない。この試練が落ち着いたら、ドンドン購入するからね☺️


 私もボランティアに行きたい。
 「高橋、車出してくれるか」
 阪神大震災のとき、北海道から故郷尼崎に帰っていた先輩からの連絡。これがボランティアに関わった始めである。
 先輩は引っ越しボランティアをしていて、その応援を私に連絡してきたのである。

 その後、東日本大地震、熊本地震とボランティアに参加して、そのたびに人の和と善意の心を感じさせてもらった。地元の応援ではなく、自分の生きる力をつけるためだったと思う。


 日本人としての心意気を今こそみせるときだ‼️
 
 


 



 
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2024年 辛い始まりだが前を見て

2024-01-03 06:38:00 | Weblog
 2024年元旦の朝8時に、埼玉東松山の実家を出発。

 藤沢で、鎌倉の息子を載せて再出発し、上郡に向かう。
 鎌倉まで迎えに行くよ、と言ったところ、鶴岡八幡宮への初詣で大賑わいのため、車は入れないとのこと。藤沢駅での待ち合わせとなった。

 大阪に入ったとき、ラジオから緊急地震速報。能登半島で震度7。大津波警報。ラジオからは強い口調で、今すぐ避難せよが繰り返される。
 思わずアクセルから足が離れる。まわりの車も同じように少しゆっくり走行となる。

 元旦からこんな大地震とは。言葉がない。
 LINEに親類、家族、友達から揺れの状況が次々入る。敏美さんと息子が対応。大阪もかなり揺れたらしい。新潟の親類が心配である。

 18時半に上郡の家に到着。渋滞なく走ってこれたが、変な疲れがどっと出た。
 今年はどうなるのだろう。


 2日。
 長男夫婦が来るので、三男と高峯神社でお守りを授かり、相生で牡蠣を購入しに出かける。朝9時、三男に運転してもらって😅
 いい天気で、相生のシーサイドロードの運転は気持ちがいい。
 あまりに気持ちがいいので、道の駅みつ、室津の街並み散策をしてしまった。






 帰りが遅くなり、敏美さんに怒られた。今年初爆発である😱

 家族、久しぶりの再会である。昼ごはんは殻付き牡蠣を焼き、盛り上がった。牡蠣さんありがとうである😆

 
 気分がよかったのだが、羽田飛行場で旅客機が炎上のニュースが飛び込んできた。


 なんなんだ、こんな正月があっていいのだろうか、正月から避難所生活なんて、、


 今日から私は仕事です。介護士として6年目が始まります。
 とんでもない年明け状況ですが、仕事は普段どおりにこなし、利用者さんに寄り添い、元気出して、明るくなるように努めてまいります。何が起ころうとも😕

 
 
 
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