1995年1月17日5時46分
大阪吹田の3階建の我が家が大きく揺れた。
2階の和室で寝ていた私と敏美さんは飛び起き、私は和ダンスを支えて「地震だ」と叫んだ。
3階では、中学1年の長男が一人部屋、3年の次男と保育園年長組の三男が2段ベットでもう一つの部屋で寝ていた。
揺れがおさまり、すぐに3階に行ったが、息子は三人とも怪我はなかった。
停電はしなかったが、ガスが出なくなった。外に出ると、家に入る電灯線の留め具が外れていた。近所では、同じように留め具が外れている家やガラスが割れている家がいくつかあった。
ガスはガスメーターの安全弁のスイッチを押して開栓できた。
朝ごはんを食べて、三男がトイレに入ったときに大きな余震があり、その三男がトイレから飛び出してきた。長男と次男はテーブルの下にもぐった。
大阪では学校も会社も休みではなかったため、長男、次男は学校に行き、三男は保育園であずかってもらえた。私も敏美さんも仕事に行った。
当時、会社までの11kmを自転車で通勤していた。信号機が傾き、ビルのガラス窓が落ちている歩道、水道管が割れて水浸しの道路を目の当たりにして会社に向かった。
会社に着くと、5階の編集部の書籍倉庫の棚が倒れ、商品部の倉庫の自動ラックが粉々に崩れていて、そのときは大きな揺れが人のいない早朝でよかったと思った。
昼過ぎから、被害の全容が少しずつ明らかになってきた。西宮や尼崎から通勤していた同僚に連絡したが、繋がらない。安否が確認できない。
仕事どころではない状態がしばらく続いた。大阪では神戸などより揺れは小さかったが、豊中では多くの公園に仮設住宅が建てられ、住まいを失った住民が多くいた。
震災から数ヶ月後、北海道のニセコでペンションを始める準備をしていた渡辺さんから突然電話連絡が入る。
「高橋、車出せないか」
何のことかわからず話をしていくと、
「倒壊した家に住めずに避難所で暮らしている人や、避難所から仮設住宅に移る人のために、生活道具の運び出しと運送をする(引っ越しボランティア)活動をしていて、荷物運び車が必要なんだ」
ということだった。
このとき、トヨタエスティマというワゴン車に乗っていたので、私に協力を求めてきたのだ。
「喜んで行くよ」
と返事して、参加させてもらった。
渡辺さんご夫妻は、ペンションの準備を中断して故郷に戻り、ボランティア活動を始めたのだ。後ろの座席をすべて取り払って荷物を多くのせられるように改造した愛車の三菱パジェロを使い、倒壊の危険極まる家屋に入って、生活の必要品を取り出して運んだり、引っ越しの手伝いをしたりする活動を、なんと1年半もしていた。
避難所では、お風呂に入れない人たちへ、一日中、足湯しながらマッサージをしている学生たちがいたし、炊き出しの手伝いをする他府県の先生方もいた。
東日本大地震、熊本地震、大阪北部地震でボランティア活動をさせていただいたが、その始まりは渡辺さんが誘ってくれた引っ越しボランティアである。少しでも力になりたかった。
昨年の1月。大好きな渡辺さんの奥さんが亡くなられた。4月にニセコに行く手配をしていたが、コロナで断念。今も行けていない。
先日、渡辺さんと電話で話したが、少し元気を取り戻していたのが嬉しかった。
1月17日が来るたびに、思い出すことだが、ブログにも残しておこうと、ここに記した。