元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

「対テロ」でイスラム34か国軍事連合、サウジ主導で結成

2015-12-15 23:26:53 | 日記

【AFP=時事】サウジアラビア政府は15日、イスラム世界において「テロリズム」と戦うために、ペルシャ湾岸諸国やエジプト、トルコなどを含む34か国による軍事連合の結成を発表した。

 サウジ主導の軍事連合は、同国の首都リヤド(Riyadh)に拠点を置き、中東、アフリカ、アジア諸国が参加。「テロリズムと戦う軍事作戦を調整、支援する」と国営サウジ通信(SPA)が報じた。域内の対抗勢力であるイスラム教シーア派(Shiite)国のイラン、シリア、イラクは含まれていない。

 同通信はさらに「テロリズムと戦い、世界の平和と安全を守る国際努力を支援するため、平和を愛する友好国や国際機関との連携により」協定を交わしていくとも伝えている。

 リヤドで記者会見した、ムハンマド・ビン・サルマン(Mohammed bin Salman)国防相は、この軍事連合は「テロリズムに関するイスラム世界の問題に立ち向かい、この災禍に対する世界規模の戦いにおいて連携する」と語った。

トルコ南東部スルチで、シリア国境を監視する兵士(2014年10月4日撮影、資料写真)。(c)AFP=時事/AFPBB News 

AFPBB News 提供 トルコ南東部スルチで、シリア国境を監視する兵士(2014年10月4日撮影、資料写真)。(c)AFP=時事/AFPBB News

 参加34か国はすべてサウジのジッダ(Jeddah)に拠点があるイスラム協力機構(Organisation of Islamic Cooperation)の加盟国となっており、さらにインドネシアを含むその他の「イスラム教国」10か国以上が、同軍事連合への支持を表明しているという。

 

【翻訳編集】AFPBB News

 


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戦後70年 亡き戦友に捧げる祈り

2015-12-15 14:42:13 | 日記

戦後70年 亡き戦友に捧げる祈り

http://voicee.jp/2015081311351


雲の彼方に

「先に逝った戦友たちよ。今から俺も、そこに行くぞ」

1945年7月25日。当時19歳だった私は、「隼(はやぶさ)」の愛称を持つ陸軍の一式戦闘機に乗り込み、中国大陸の上空を飛んでいました。

振り向けば、運命を共にする5機の遼機(りょうき)が翼を連ねて続いています。

見渡す大空は透き通るように青く、雲は眼下を流れていて、いつまでもどこまでも飛んでいけそうな錯覚すら覚えていました。

1926年3月、私は鹿児島市郊外の村に生まれました。材木商を営む父と、浄土真宗を篤く信仰する母、弟と妹の5人家族でした。親戚には、陸軍士官学校を卒業し、青年将校として活躍する叔父がいました。

「お前は軍に入って、お国にご奉公してはどうだ」

叔父の一言をきっかけに、小学校5年生で軍人の道を志した私は、大東亜(だいとうあ)戦争開戦翌年の1942年10月、16歳で東京の陸軍航空学校に入校しました。

当時の日本は、国家存続の生命線である石油の輸入を、アメリカやイギリスなどの国々から禁止されていました。

このままでは国家が〝干上がって”しまう。外交交渉でも打開の見込みはない。もはや、打って出るほかはない――。そんな危機感が、当時の共通認識でした。

私も「お国のために力を尽くそう」と意気込んで入校し、戦闘機操縦の練習に励みました。その後、大津と宇都宮にある訓練学校に進み、卒業後は中国の太原(たいげん)(※)の部隊に配属されました。

※太原 中国北西部にある街。当時、アメリカ軍や中国共産党の八路軍などとの間で、激しい戦闘が行われていた。

 

迫る本土侵攻

開戦当初の勢いとはうって変わり、42年6月のミッドウェー海戦(※1)以降、日本軍は制海権(せいかいけん)を失い、サイパン島の戦い(※2)、マリアナ沖海戦(※3)と立て続けに敗北。戦況は悪化の一途をたどっていました。

44年11月には南洋・パラオのペリリュー島が、翌45年3月には硫黄島が陥落(かんらく)しました。重要な拠点を次々と手に入れたアメリカ軍は、沖縄近海へと集結しつつあり、本土侵攻が焦眉(しょうび)の急となっていました。

何としても、日本の国土を防衛する――。

後世、議論を呼ぶ特攻は、このような情勢下で始まっていきました。

「アメリカ軍は、日本軍を上回る性能の戦闘機や戦艦を配備している。特攻で飛び立っても、敵艦船にたどりつく前に大方が撃墜(げきつい)される」

私たち搭乗員にも、その程度の情報は入っていました。

「けれど、たとえ十分な戦果が期待できないからといって、何もせず手をこまねいているだけでは、どうやって祖国を守るというのか。搭乗員である自分には、わずかなりとも敵を食い止める可能性が残されている。元より軍人を志した以上、死は覚悟の上だ。この上は、自分を犠牲にしてでも、親兄弟を守り、日本を守るんだ!」

こんな気持ちを抱え、私は18歳で特攻隊に志願したのです。

※1 ミッドウェー海戦 1942年6月3日~5日に行われた海空戦。日本軍は大敗を喫し、戦局の主導権がアメリカに移る重大な転換点となった。

 

※2 サイパン島の戦い 1944年6月15日~7月6日に行われた離島戦。日本軍守備隊は全滅し、同年末からはB-29による本格的な日本本土空襲が始まることになった。

 

※3 マリアナ沖海戦 1944年6月19日~20日に行われた海空戦。日本軍は空母と搭載機に大損害を受け、惨敗に終わった。

 

出撃前夜の思い出

「お前は操縦の腕がいい。本当は一緒に行きたいが、後発の部隊を助け、後から来てくれ。俺は一足先に行くよ。靖国で会おう」

45年4月、上官からそう告げられ、私は5名の戦友とともに、7月25日に出撃することが決まりました。

「上官殿。ご武運をお祈りします」

6月、私は、自分も行動を共にするはずだった先発隊を見送った後、中国の天津にある基地で、1カ月にわたる過酷な訓練を受けました。

出撃前日の7月24日。訓練を終え、隊の戦友たちと夕食を終えたころ、誰かがポツリとつぶやきました。

「もうお前たちとも最後だね」

努めて明るく振る舞っていた戦友たちも、沈んだ表情を浮かべます。

「最後の晩だから、歌でも歌おうか」

その一言がきっかけとなって食堂の外に出て、日頃は歌わない唱歌を全員で口ずさむことになりました。時刻は、夜8時を過ぎていました。

「何を歌おうか」

「『我が師の恩』という歌詞がいいから、『仰げば尊し』にしようか」

衆目(しゅうもく)一致し、一斉に歌い始めます。

「仰げば尊し 我が師の恩 教の庭にも はや幾年」

父、母、小学校の先生、航空学校の教官……。目をつぶって歌えば、恩ある人、別れがたい人、懐かしい人の顔が、瞼(まぶた)の裏に次々と浮かんできます。いつしか歌声に、すすり泣きが混じってきました。

「今こそ別れめ いざさらば」

歌い終わると、全員が自然と日本のある東方に向かって整列し、目を閉じて一心に合掌しました。

「お父さん、お母さん。親孝行を何もできず、申し訳ありません。でも僕は、潔く散っていくことで、故郷を守り、日本を守ります。それをもって、親孝行の代わりとさせてください。懐かしい弟妹よ、残される両親を、よろしく頼むぞ……」

故郷から遠く離れていても、今の自分の心情は、距離を超えて伝わっていく――。そんな確信めいた思いがありました。

しばらくして目を開けると、満天の星が広がっているはずの中国大陸の夜空が、ぼやけていたのを覚えています。

突然の「敗戦」

翌7月25日。

「靖国で会おう」「武運を祈る」

戦友の肩を強く叩き、手を堅く握り合って、私は天津の基地を飛び立ちました。目標は沖縄近海に浮かぶ敵艦船。最後の機体整備を行う鹿児島の知覧(ちらん)基地めがけ、奉天(ほうてん)、朝鮮半島の平壌(へいじょう)へと飛んでいきました。

搭乗した機体は旧型で、途中、何度も故障し、そのたびに経由地で応急整備を受けなくてはなりませんでした。思うに任せない状況にやきもきしつつも、頭のなかにあったのは「いかにして、『敵艦船突入』という命令を全うするか」という一念ばかりでした。

そして8月15日。私はその日を、幾度目かの機体整備のために滞在していた平壌の基地で迎えたのです。

「昼に重大なラジオ放送がある。全員集合して聞くように」

朝方、伝達がなされました。

「ラジオで重大な放送とは……。一体何だろうか」

正午、ラジオの前に基地の全員が整列するなか、放送が始まりました。

「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び 以て万世の為に太平を開かむと欲す……」

終戦を告げる玉音(ぎょくおん)放送でした。私はにわかには信じられませんでした。

「我々の受けた任務は、まだ終わっていない! せめて、参謀のいる知覧までは行こう」

周囲の制止を振り切って大邱(※1)まで飛びましたが、進駐(しんちゅう)してきたアメリカ軍に拘束され、大田(たいでん)(※2)で抑留(よくりゅう)の身となりました。

「敗戦」の二文字が、現実感と虚脱感を伴って私に迫ってきました。

※1 大邱 朝鮮半島東南部の街。

 

※2 大田 朝鮮半島中西部の街。

 

変わってしまった祖国

2カ月後の10月15日、私は山口県の仙崎(せんざき)港に降り立ち、復員しました。

満員の汽車を乗り継ぎ、鹿児島に戻ると、そこに広がっていたのは空襲で焼け野原になった故郷の姿でした。

「家は大丈夫だろうか。父は、母はどこに……?」

不安に駆られつつ家路を急ぐと、家族は戦災を逃れて無事でした。

生還を喜び合ったのもつかの間、衣食住に事欠く環境のなかを、何とか生き抜く日々が始まりました。食料を求めて方々を走り回る傍ら、材木商の父を手伝い、復興のための資材を提供し続ける毎日。

それでも終戦から3、4年が経つと、生活はある程度の落ち着きを取り戻していきました。

思い返せば、ちょうどそのころからだったでしょうか。大東亜戦争が「侵略」「ファシズム」、特攻に散った戦友が「犬死に」「無駄死に」、特攻からの生還者が「特攻崩(くず)れ」「やっせんぼ(薩摩弁で「卑怯者」)」と呼ばれるようになっていることに気付いたのです。

「自分の命や青春をなげうった純粋な若者に、何ということを……」

内心、幾度となく地団駄(じだんだ)を踏みました。

しかし、先の大戦に関する世間の風当たりは、強まるばかり。自然と、「自分が特攻隊の一員だった」ということに口をつぐみ、世間から身を潜めて生きるようになりました。

「命を懸けて守ろうとした祖国の、こんな姿は見たくなかった……。自分が生き残ったのは間違いだったか。懐かしき戦友と、一緒に逝けばよかったのか……」

次第に、先に散った戦友に、負い目のようなものを感じるようになりました。

 

「せめて自分だけは、寄り添っていこう」

やがて、夜毎(よごと)の夢に戦友たちが出てくるようになったのです。

私は戦友と編隊を組んで空を飛んでいます。すると、戦友が風防ガラスを開けて手招きをします。あるいは、敬礼しながら「早く来いよ」と呼びかけます――。

うなされる日々が続きました。

そんな折、地元の新聞で「知覧町に、法隆寺の国宝『夢違観音(ゆめちがいかんのん)』の複製が、許可を得て建立される」という記事を見ました。

「これはもしかしたら、英霊を慰める好機かもしれん」

私は知覧町に、特攻で散った英霊の慰霊祭を開催するよう持ちかけました。しかし、「軍国主義の復活につながるのでは」と、返事は保留になってしまったのです。

命にかえても祖国を守ろうとした戦友たちの顔が思い浮かび、私はいてもたってもいられなくなりました。

私は、52年12月に見合い結婚した妻が、飲食店を経営するようになったのを機に、父の仕事の手伝いから離れ、慰霊祭開催に奔走しました。そして、55年7月、慰霊祭の独自開催にこぎつけました。

第一回の参列者はわずか50、60人だったものの、100人、200人、500人と、参列者は回を重ねるごとに増加。70年代には、1,000人近くが参列する全国有数規模の慰霊祭になり、主催も知覧町に変わりました。しかし、どれほど慰霊を重ねても、戦友たちの夢にうなされる夜は続きました。

「君らの気持ちは、俺が一番よくわかる。せめて自分だけは、英霊たちに寄り添って生きていこう」

そう思って、戦後を生きてきました。気づけば暦(こよみ)も「昭和」から「平成」へと変わり、齢(よわい)も80を超え、あの大戦は「教科書のなかの出来事」へと変わっていました。

訪れた「慈悲(じひ)」

「そろそろ、諸君の元に還(かえ)ります。お待たせしました……」

そんな思いが、浮かんでは消える日々を送っていた2014年春、転機が訪れました。

「おじさま。今、大川隆法先生という偉い神様が生まれてるんですよ。先の大戦についても『日本には大義があった』と説いてらっしゃいます」

同じ鹿児島に住む妻の友人、末原裕子さんから、そう伺いました。

「偉い神様なら、お参りしたり勉強したりすれば、英霊たちの冥福(めいふく)につながるかもしれん」

そう思った私は、その年の4月9日に幸福の科学に入会し、教えを学び始めました。そして5月28日には、末原さんに連れられて、大分県にある湯布院正心館(※1)に参拝することになりました。小高い山の上に建つ正心館に到着したのは、その日の夕方のことでした。

「御本尊に、まずはご挨拶しよう」

礼拝堂に向かい、前方の席に腰掛けると、お堂の中央に鎮座(ちんざ)されている御本尊が、穏やかなお顔で微笑んでいるように感じられます。

「これは、何かとてもありがたいことが起きるかもしれん」

私は、おもむろに手を合わせ、静かに目を閉じました。すると――。

「もう苦しまなくていいんだよ。幸福をつかみなさい」

胸の奥に、〝お告げ”のようなものが大きく響き渡ります。驚いて目を開けると、夕焼けの光を背にして輝く御本尊が、「おいで、おいで」と手招きしているように見えました。

その瞬間、それまで常に自分の周りにいると感じていた戦友たちの魂が、天に向かって一斉に昇っていったような感覚がありました。

「これが、偉い神様のお力か……。戦友たちもようやっと浮かばれる。素晴らしいお祈りをさせてもらった……」

何十年にもわたって寺社・仏閣に詣(もう)で、お参りを重ねてきましたが、こんな体験をしたことはついぞありませんでした。

「エル・カンターレ(※2)とは、慈悲に溢れた、何と素晴らしい神様か」

その日を境に、夢にうなされる夜は終わったのです。

※1 湯布院正心館 大分県由布市にある幸福の科学の精舎(研修・礼拝施設。)

 

※2 エル・カンターレ 幸福の科学の信仰の対象であり、イエスが父と呼び、ムハンマドがアッラーと呼んだ存在。

 

戦後70年目の祈り

それから1年たった15年5月3日。私は、知覧で行われた61回目の慰霊祭に参列し、出席者を代表して慰霊の言葉を述べました。

するとその晩、1年ぶりに夢を見ました。それは、20人ばかりで肩を組み、破顔大笑(はがんたいしょう)しながら軍歌を歌う、亡き戦友たちの姿でした。

「そうか……。君らは今、天国におるのだな。本当によかった……」

長かった「戦後」というものが、ようやく一区切りついた――。そんな気持ちが去来していました。

あの大戦が終わってから、今年で70年目を迎えます。戦後空前の繁栄を遂げた日本にあって、先の大戦については、否定的な見方が多くあるように見受けられます。

しかし、少なくとも私たちは、大東亜戦争当時、「このままでは国が滅びる」という危機感を共有し、文字通り身命(しんみょう)を賭(と)して外敵と戦いました。武運拙(つたな)く敗れはしたものの、大和魂・武士道にもとるような卑怯(ひきょう)な振る舞いは、一切してこなかったつもりです。そんな我々の思いを汲(く)んでか、近年、「『日本は侵略国家だった』という見方は、本当に適切なのか」と、改めて過去を見つめ直す流れも出てきています。

なかでも幸福の科学の大川隆法総裁は、その霊的なお力を用いて東條英機(ひでき)首相や松井石根(いわね)大将などの霊言(れいげん)を行い、この国の宿唖(しゅくあ)である「自虐史観」を根本から治療しようとされています。また、そのご著作を通じて、「先の大戦の意義を、もう一度見直そう」と訴えておられます。

本当に、ありがたいことだと思います。

身も命も惜しまず、この国を守って散った英霊たちへ。

私は、この年にして、素晴らしい宗教に巡り合うことができました。この教えは、「日本の希望」です。遅ればせながら私は、この教えに沿って修養(しゅうよう)を重ね、人格を陶冶(とうや)し、いずれ懐かしき君たちの元に還ります。どうかそれまで、愛する日本を見守ってください。

そう切に願い、戦後70年を生きた元特攻隊員の話の結びといたします。


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難病を持つ娘と過ごした日々

2015-12-15 14:05:43 | 日記

http://voicee.jp/201310016536

生まれたばかりの娘が難病を抱えていた――。
それは、「自分は不幸だ」と思うには、十分すぎる理由でした。

どん底のような思いで生きる日々……。

そんな毎日から私を救い出してくれたのは、1冊の仏法真理の書との出会いだったのです。
今日は、そのいきさつをお話ししたいと思います。

長女の誕生

1989年2月24日、私は2人目の子、Cを出産しました。
女の子です。

生後1カ月半くらいたった頃からでしょうか。
なかなかCの首がすわらないのが少し気になりだしました。
でも、2カ月検診では、特に異常はみられませんでした。

「まあ、女の子だし。こんなものなのかな」

ところが、Cは4カ月たってもまだ首がすわっていませんでした。

「やっぱり、心配だなあ……」

近くの病院に連れて行くと、小児科の脳の発達外来を紹介されました。
そこで血液検査など、一通り調べてもらいました。

「首がすわるのが、ちょっとまだ遅いですが、今みる限り、特にどうということはないと思います。念のため、脳のCTを撮りましょうか」

先生の態度が急に変わったのは、CTの画像を見てからでした。

「これは……。お父さんを呼んでください」
「え?」

先生の険しい表情に戸惑いながらも、主人に連絡を取りました。
主人もすぐに駆けつけてくれました。

「……Kさん。この子は、1年もたないかもしれません」

先生はCT画像に写る脳の一部を指差しながら、淡々と話を続けました。

「ここの脳のシワができていないんです」

思わず、抱いているCの顔を覗き込みました。

「これは非常に珍しい病気です。ウチの病院でも、これまでに6人ほどしか症例はなかったと思います。だいたい1年以内に亡くなっています。最後は肺炎や痙攣の発作を起こして……」

「待って。だって、表情もしっかりしているし、普通に笑うじゃない。ミルクだってちゃんと飲むのに、そんな……」

先生から出た悲惨な言葉と、娘の元気な姿には、あまりにもギャップがありすぎ、他人事のようにしか聞こえませんでした。

診断書の病名の欄には「滑脳症」と書かれていました。

つのる不安

検査のため、2日後には、Cと一緒に病院で寝泊りする生活が始まりました。

脳関係の病棟には重症のお子さんも多くいます。
痙攣を起こした子の処置に、お医者さんや看護師さんが走り回っていました。

「こんな大変な場所に、私もいるんだ」

この現実を受け入れなければいけないと思うと、すごく怖くなりました。

「今は普通だけど、将来はあんなふうになっちゃうんだろうか」

不安がふくれあがり、初日から眠れない夜をすごしました。

Cと同じ病気を持つ方はいませんでしたが、子どもに付き添う他のお母さんたちに、育児の大変さや薬の副作用についてなど、話をたくさん聞きました。

先の見えない不安。
事前に聞いておくことで、「いつか本当にそうなっても耐えられるようにしなきゃ」と思う一心でした。

何のために生まれてきたのか

検査入院から1カ月後。

「いろいろと検査をしてみましたが、結局、原因は分かりませんでした」
先生にそう言われました。

「Cちゃんがあと何年生きられるかも、分かりません。ただ、今すぐに亡くなる要因はないようです」

その言葉に、とりあえずホッとしました。
ようやく戻れた日常生活。
でも、今までとは何か違う感じがつきまといました。

抱っこしながらお散歩に行っても、周りの人から好奇の目で見られているような気がしました。
どうしてもCと他のお子さんを比べてしまいます。

Cは体温調節機能が悪く、夏は暑さで脱水症状を起こしたり、肺炎を起こし、そのたびに入退院を繰り返していました。
再入院したある晩、静かに眠るCの隣で、私は病室の窓から見える夜景をぼんやりと眺めていました。

窓越しに見える街の明かり。
そのあたりは、私が会社員をしていた頃に、何度も足を運んだ場所でした。

「もう、あそこには帰れないんだ」

ふいに涙が溢れてきました。
それまで普通に眺めていた夜景が、ガラス1枚隔てて、別世界のように見えました。

難病の子どもを抱えていると、いろんな苦労がある。
何も知らなかった頃には、もう戻れない──。
自分だけが世の中から取り残されたような気がしました。

「現代医学でもこの子の命がどうなるか分からないなんて。Cは、何のために生まれてきたの?」

考えても分かりません。

医師や知り合い、時には霊能者と言われるような人にも聞いて回りましたが、答えをくれる人は誰もいませんでした。

「もしかしたら、目に見えない“何か”があるのかも──」
そんな気がしてなりませんでした。

神様にお任せしよう

Cが1歳になったある日、ついに恐れていた痙攣が始まりました。

「とうとう、この時が来てしまった」

膝がガクガクと震えました。

漠然と考えていた不幸な出来事が、一気に現実感を伴って襲ってきました。
主人も仕事が忙しく、私はCの体調のちょっとした変化も見逃さないよう、いつも気を張っていました。

自分が薬を与えたり、病院に連れて行ったりする、その判断ひとつで、わが子の命が左右されてしまう──。
その重圧が、苦しくて苦しくて仕方がありませんでした。

「私がしっかりしないと」

押しつぶされそうになりながら、でも、なんとか気持ちを奮い立たせていました。

「1年もたない」と言われていたC。
それでもなんとか無事に、2歳の誕生日を迎えることができました。

ある日、私はベビーシートの脇に座り、Cをあやしていました。
少し前に、家族で行ったお花見を思い出しながら語りかけました。

「Cちゃん。桜、きれいだったね。Cちゃんも楽しかった?」

そっとCに触れた時、ふっと思いました。

「私がなんとかしなきゃ、と思っていたけど……。この子の命を、私が管理できるというようなものじゃないんだ」

ベビーシートのなかで、小さな手を一生懸命に動かすC。

「目に見えない神様にお任せしよう」

そんな思いが湧き上がってきたとたん、ずっと張り詰めていた気持ちがスッと楽になりました。

『太陽の法』を読んで

それからしばらくしてからのことです。
買い物から帰ってくると、同居している母から声を掛けられました。

「今日、こんな本を持ってこられた方がいてね」

近くに住む幸福の科学の信者さんが持ってきてくれたというのです。
それは大川隆法という方の『太陽の法』という本でした。

読んでみると、仏様のことや魂のことなどが書かれていて、引き込まれるようにページをめくりました。

「……まず人間本来の目的と使命という点から考えていくことが必要です。その出発点は、なぜ人間はこの世に生まれてきたのかということにあります」(第4章「悟りの極致」)

一気に読み終えました。

「やっぱり目的があって生まれてきているんだ!」

人間の本質は霊的な存在であり、仏と同じ光が宿っていること。
あの世で人生計画を立て、魂修行のためにこの世に生まれてくること。
どんな人生にも必ず意味があること……。

安堵感が私を包みました。

「なぜ私がこんな目に遭うのか」「どうしてこの子が難病になったのか」──Cを育てながら常に考え続けた疑問。

その「なぜ」に答えをもらったような気がしました。

「意味があるのなら……がんばろう」

私をとりまく世界がパーッと広がった気がして、なんだかとても元気が湧いてきました。

新たな出会い

私は、書店で大川先生の本を探して読みました。
どの本を読んでも、胸がうたれました。

最新情報が知りたくて、思い切って近くの支部に行ってみました。

「こんにちは……。初めて来たんですが」
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、中に入ってください」

少し緊張しましたが、出迎えてくださった方の笑顔にホッとしました。

その日は、まず支部長が仏法真理の話をしてくれました。
その後に、参加者が4~5人でグループになりました。
私もひとつのグループに入れてもらいました。

支部長の話を聞いて思ったことや、幸福の科学の教えについてなど、みなさんが思い思い、話をしました。
身近な人の問題を我がことのように真剣に考えている方もいて、驚きました。

「私は自分に悩みがあってここに来たけど、この人たちは他人のために何かをしようとしている人たちなんだ……」

支部にいた方の勧めもあって、私は幸福の科学に入信しました。

Cちゃんの笑顔

ある日、空いた時間を見つけて、幸福の科学の月刊誌を読んでいました。
そこには、「お布施(※)とは与える愛であり、人に笑顔を与えるのも布施の一つ」だと書かれていました。

「へ~。Cちゃん、笑顔も、人に愛を与えることになるんだって」

思わず横にいたCに話しかけました。

Cは笑い声をあげて、ニコッと笑いました。

ハッとしました。

「Cは、よく笑う! こんなステキな笑顔をいつも私に与えてくれていたんだ」

心が震えたような感じがして、涙が溢れてきました。
何もできないC。
生きていくことさえ一人じゃできないと思っていました。

「違う、そうじゃない。Cも一生懸命、愛を与えて生きてきたんだ」

Cはなんのために生まれてきたのか、少しだけ分かったような気がしました。

「あと、どのくらい生きられるかは分からない。でもCがいてくれるだけで、こんなにも幸せ……」

主人も、仕事で夜遅く帰ってくると、Cの小さな手を、いつもいとおしそうに握っていました。

「お母さんたちも、Cと他の子を比べたりしないで、同じように接してくれる」

長男のKは、自分の好きな絵本をCに読み聞かせてくれます。

「みんな、Cを愛してくれてる。私のことも支えてくれてる。ありがたい……」

※人に対する施(ほどこ)しのひとつとして、笑顔を与える顔施(がんせ)があります。大川隆法総裁『成功の法』 や『釈迦の本心』等で説かれていますので、ご参照ください。

満月を見上げながら

「Cちゃん、お腹の調子が悪いかな?」

Cはここ1カ月ほど調子が良かったこともあり、しばらく様子を見て、病院には翌日、連れていくことにしました。

「──少し脱水症状を起こしていますね。入院しましょう」
「え? また入院ですか……」
ちょっと、うんざりしました。

ちょうど私のお腹のなかには5カ月目の子どもがいて、病院で寝泊りするのは正直しんどいと思ったのです。
それから、Cを先生にお任せして、受付に入院の手続きをしに行きました。

午後3時頃──。

「Kさん、ちょっと来てください」

手続き中の私のところに、看護師さんが駆け寄ってきました。

 
「何か、あったんですか?」
「とりあえず、来てください」

嫌な感じがしました。

処置室の前に先生が立っていました。

「Kさん、Cちゃんの容態が急変しました。原因は分かりませんが、いま、できる限りのことはします。Kさんは、ここにいてくださいね」

そう言い残して、先生と看護師さんは処置室のなかに入っていきました。

気持ちばかりが焦りました。
長イスに腰掛け、ひたすらお祈りしました。

顔を向けると、高校の同級生だった看護師さんでした。
彼女はCが入院した時に、いつも気にかけてくれていました。

私と同じ目線の高さまで腰をかがめて彼女は言いました。

「お父さん、呼んだほうがいいかも……」

それからは、何がなんだかあまりよく覚えていません。

主人に電話をかけようとしても、手がぶるぶると震えてしまって、落とした手帳もうまく拾えませんでした。

「──Kさん、なかにどうぞ」

看護師さんに呼ばれて、主人と共にCのもとに行きました。

(C!)

ベッドに横たわる小さな体。

対面できたのは、わずかな時間でした。
Cは静かに息を引き取りました。

涙が溢れて、Cの顔もよく見えませんでした。

病院を出ると、とてもキレイな満月が浮かんでいました。

「C、今までありがとう……」

いずれまた会える

居間に入る時、食事の支度をしている時……何気ない瞬間に、Cがいつも寝ていた場所に目が向いてしまいます。

「あれ、Cがいない」と思いかけて、現実に返ったことが何度あったでしょう。

2歳8カ月──。

その短い時間を、精一杯、生きたC。

「不思議だなあ、Cと私は過去からもずっと縁があったような気がする」

Cとの思い出を何度も何度も反芻しては、そんなことを感じていました。

この世には「もういない」という悲しみはありましたが、不思議と心は静かでした。

「あの世があると知るっていうのは、こういうことなのかな……」

魂は永遠なのだから、またいずれCに会える──。
そんなことを心のなかで繰り返していた気がします。

 
ママもがんばるからね

1998年、私は総本山・正心館で研修を受ました。
そこで朝の瞑想の時間に、不思議な体験をしました。

風のように吹き渡り、雲のように流れていく瞑想をしていた時──。
Cの姿が心のなかにあらわれた感じがしました。
ニコニコ笑っている、元気なC──。

「ああ、Cは、あの世で元気にしているんだ」

その瞬間、Cなりに人生をまっとうできたんだという思いがこみあげ、涙が出ました。
心の奥で、親として十分にしてやれなかったことを申し訳なく思う気持ちがありました。
でも、あの笑顔……。

「Cが早く亡くなるのも、きっと魂修行のために親子で決めてきた人生計画だったんだね。ママはCのおかげで信仰にたどりつけました」

私がこの信仰に出会って救われたと伝えていくことが、Cの生きた人生を輝かせることにもなると思いました。

病院でお世話になった看護師さんや同じように子どもの病気で苦しむお母さんたちに、今まで以上に手紙やお電話で近況を報告しながら、これまでの体験をお話ししています。

「Cちゃんを亡くしてるのに、どうしてそんなに元気でいられるの?」
「Cの命が短くても、それに意味があることが分かったからかな。私、心の教えを学んでいて、『死んでも終わりじゃない』って知って、すごく励まされたの」

初めは驚いたように聞いていた友人たちも、次第に幸福の科学に興味を持ってくれるようになり、入信して一緒に勉強する方もできました。

これまで、多くの方に愛をたくさんもらったように、私も愛を与えられる人になりたいと思って生きています。

大川隆法総裁先生、ほんとうにありがとうございました。

最後に、Cちゃんへ。
ママもがんばるからね。
あの世で再会した時に、Cちゃんになんて言ってもらえるか、楽しみにしています。


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中朝国境“緊迫状態” 中国、即応部隊2千人を増派 正恩氏発言が影響か

2015-12-15 12:10:14 | 日記

夕刊フジ中国と北朝鮮の関係が緊迫している。習近平国家主席率いる中国人民解放軍の即応部隊2000人が中朝国境に緊急増派されたという情報がある。

北朝鮮の美女音楽グループ「牡丹峰(モランボン)楽団」は北京公演をドタキャンし、緊急帰国した。金正恩(キム・ジョンウン)第1書記による「水爆保有発言」が影響しているようだ。

 香港の人権団体、中国人権民主化運動ニュースセンターは13日、中国が北朝鮮に対し石油支援を中止する可能性があることを伝達し、12日夜に中国軍の即応部隊2000人を国境に緊急増派したと伝えた。

 中朝関係はこれまでも何度か悪化したが、中国はパイプラインを通じて北朝鮮に石油支援を続けてきた。支援中止は北朝鮮体制の崩壊に直結しかねず、中朝関係の断絶を意味するからだ。

 真偽は不明だが、同センターは、この決定に金第1書記が激怒し、北京で12日から3日連続で行われる予定だった「牡丹峰楽団」の公演が中止されたとしている。

 「牡丹峰楽団」は金第1書記が2012年に結成した。ミニスカート姿の派手な衣装で、北朝鮮版「少女時代」とも称される。

 今回の中朝緊張のきっかけは、金第1書記による「水爆保有発言」とみられている。

 朝鮮中央通信は10日、金第1書記が平壌の視察先で、北朝鮮が「自衛の核爆弾、水素爆弾の巨大な爆音をとどろかせることのできる強大な核保有国」になったと述べた-と報じたのだ。

 中国はこれに猛反発した。習主席がこれまで何度も「北朝鮮による核開発は容認しない」と表明してきたためだ。当初、「牡丹峰楽団」の公演を、中国共産党の政治局員1人が観覧する予定だったが、観覧者の格を次官級に引き下げた。

 習主席は、親中派だった張成沢(チャン・ソンテク)氏を粛清し、核開発で従わない金第1書記を嫌っているとされる。


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軽減税率、新聞も対象に・やはり新聞社と密約があるというウワサは本当だった

2015-12-15 08:50:46 | 日記

消費税を8%に上げるとき、全部の新聞社が大賛成だった。

普通なら、反対する新聞社があってもおかしくないのに、おかしいと思っていた。

賛成するかわりに軽減税率で新聞は値上げしないという密約があると言われていたが、やはり本当だった。

新聞社は中立であるべきなのに、政府と結託して消費税を上げた。それで景気は落ちた。

新聞は政府と一体となっている。国民は新聞を信じて読んでいるが、新聞を信じるべきではない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

時事通信  自民、公明両党の税制調査会は14日午後、消費税の税率を低く抑える軽減税率の対象品目について東京都内で協議し、外食と加工食品の区分は食品衛生法を基本に調整することにした。

 また、新聞も原則的に対象に含める方向で一致した。16日にも決定する2016年度与党税制改正大綱に盛り込みたい考えだ。


 両党は12日、飲食料品の中でも「外食サービス」は軽減税率の対象外にすることで合意。今後、加工食品を買ってその場で食べる場合など、外食と加工食品の線引きの基準をどこに置くかが課題となっている。


 食品衛生法は、食品を調理する飲食店や喫茶店の衛生面を規制し、危害の発生を防止する法律。多くのコンビニは簡単な調理しかしておらず、同法の許可を得る必要がない。このため、イートインコーナーで袋入りのパンやお菓子を食べても「外食」とはみなされず、軽減対象となる見込みだ。
 ただ、同法では、飲食店の出前や客による持ち帰りは外食扱いとなる可能性があり、両党は最終的な詰めを急ぐ。


 一方、新聞は、毎日配達される体制の整っている一般紙については全国紙、地方紙を問わず対象となる方向だが、詳細は今後詰める。書籍は長期的な検討課題となる見通しだ。 


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日印首脳会談 原発協力は戦略的関係の柱だ

2015-12-15 04:50:03 | 日記

読売新聞 

日本とインドは、戦略的な利益を共有する大国だ。多角的な協力を着実に深めねばならない。

 安倍首相が訪印し、モディ首相との会談で、原発、高速鉄道、安全保障などで連携する共同声明に署名した。

 安倍首相は会談後、「日印新時代が始まる」と強調した。モディ首相は「日本企業の投資は飛躍的に前進するだろう」と語った。

 特筆すべきは、日本からインドに原子力関連の資機材や技術を輸出する前提となる原子力協定の原則合意だ。インドは、米仏露や韓国などと協定を締結している。

 インドは、深刻な電力不足の解消のため、原子力発電所の大幅な増設を計画中だ。日本の協力は、インドのエネルギー戦略にも合致し、日印関係をより高い次元に引き上げる重要な基盤となる。

 インドは、核拡散防止条約(NPT)に未加盟の核保有国だ。2008年に核実験凍結の継続などを対外的に表明している。

 安倍首相は会談で、核実験が行われた場合、協力を停止する方針を伝えた。協定は、平和目的の協力に限り、軍事転用に明確な歯止めをかける内容にすべきだ。

 政府はインドに対し、核不拡散の国際的な枠組みに参加し、核軍縮を進めるよう、粘り強く促し続けることが重要である。

 両首脳は、インド西部ムンバイ・アーメダバード間の高速鉄道計画に、新幹線方式を採用することで一致した。総事業費は1兆8000億円で、その約8割を上限に、日本は円借款を供与する。

 海外での新幹線の採用は台湾に次ぐ2例目だ。インドネシアの高速鉄道受注競争で中国に敗れたことを踏まえ、資金支援を強化したことなどが奏功したのだろう。

 原発や交通インフラの輸出拡大は、安倍政権の成長戦略の柱だ。官民が中長期的な視点を持ち、緊密に連携しなければなるまい。

 共同声明は、南シナ海情勢に関し、「一方的な行動」の回避を関係国に呼び掛けた。人工島造成を進める中国が念頭にある。

 中東とアジアを結ぶ海上交通路の安全確保は、自由な経済活動に不可欠だ。中国の強引な海洋進出には、様々な機会を通じて、異論や注文を唱える必要がある。

 日印両国は、防衛装備品・技術移転協定と、軍事に関する情報保護協定に署名した。米印両海軍の共同訓練に、海上自衛隊が定期的に参加することも確認した。

 日印の防衛協力の実効性を高めるため、米国や豪州などを交えた重層的な連携を強めたい。


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軽減税率「外食」線引き案、出前などは8%適用

2015-12-15 04:26:48 | 日記

読売新聞  消費税の軽減税率の適用対象が「食品全般」(酒類と外食を除く)に決まったことを踏まえ、政府・与党がまとめた「外食」と「食品」の境目が曖昧な商品・サービスに関する線引き案が14日、判明した。

 ハンバーガーや牛丼などのファストフード店の持ち帰り(テイクアウト)や、そば店の出前、すし店の土産用の折り詰め、コンビニエンスストアの飲食場所(イートイン)での食事などは外食に当たらないとして、軽減税率(8%)を適用するとした。

 線引き案は、外食を「テーブルや椅子など、その場で飲食をさせるための設備を設置している場所での、食事の提供」と定義した。飲食店に営業許可などを出す食品衛生法などに基づいて区別し、消費税法に新たに規定する。


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ロシア駆逐艦、トルコ漁船に警告射撃 「衝突回避のため」

2015-12-15 04:22:52 | 日記

【AFP=時事】ロシア国防省は、ロシアの駆逐艦がエーゲ海(Aegean Sea)で13日、トルコの漁船との衝突を避けるために警告射撃を行ったと発表した。両国は、先月のトルコ軍によるロシア軍機の撃墜をめぐり激しく対立している。



 同省は「エーゲ海北部、ギリシャのリムノス(Lemnos)島沖22キロ地点にいたロシアの巡視船スメトリブイ(Smetlivy)の乗組員が、トルコの引網船との衝突を回避した」と発表。警告のために小火器を発砲したと付け加えた。

 同省によると、グリニッジ標準時(GMT)の13日午前6時3分(日本時間同日午後3時3分)、ロシアの駆逐艦が、約1キロ離れた右側の海上から接近するトルコの漁船を発見。

「スメトリブイによる幾度もの試みにもかかわらず、トルコの引網船は無線連絡に応じず、また特別な可視信号にも応答しなかった」という。

 両船の間隔が約600メートルになると、ロシア船の乗組員は「船舶衝突を防止するため」に、「生存保証距離」にある漁船に向かって小火器を発射せざるを得なかったと、ロシア政府は説明。

「その直後にトルコ船は大きく進路を変更して、進行を続け、ロシア乗組員と連絡を交わさないまま、スミトリブイから540メートル離れた距離を通過した」と、ロシア国防省は述べている。

 同省によると、この出来事の後、アナトリー・アントノフ(Anatoly Antonov)露国防次官はトルコの大使館付武官を呼び、「(シリアに展開されている)ロシア軍の分遣隊に対するトルコによる軽率な行為がもたらす悪影響」について警告するとともに、ロシアは「駆逐艦スメトリブイに関するトルコ側の挑発行為に重大な懸念を持っている」と述べた。

 両国の関係は、11月にロシアの戦闘機がシリア国境付近でトルコ軍に撃墜されて以降、冷戦(Cold War)終結以後で最大の危機にさらされている。【翻訳編集】 AFPBB News


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「NEWS23」岸井成格氏の発言が放送法違反なのは明白ではないか テレビ局の“傲慢”許すな

2015-12-15 04:03:15 | 日記

産経新聞 「政治的公平」をうたった放送法上、テレビの報道番組はどうあるべきかという問題は、私がこのコラムで昨年5月に提起させていただいたときも大きな反響いただき、議論になってきましたが、ここにきてまた注目されています。

というのも、TBSの「NEWS23」の報道が「放送法違反だ」として、作曲家のすぎやまこういちさんが代表呼びかけ人を務める任意団体「放送法遵守を求める視聴者の会」が11月26日、番組アンカーの岸井成格(しげただ)氏やTBS、総務相に公開質問状を送ったからです。

 私は以前から、とくに平成24年の安倍晋三政権発足以降は「NEWS23」や同じくTBSの「サンデーモーニング」、テレビ朝日の「報道ステーション」は、政治の問題を扱う際に明らかに特定のスタンス(はっきり言えば反安倍政権ですが)をとっており、放送法上疑義があると思っていたので、この動きは歓迎すべきことです。今回は改めてこの問題を考えてみたいと思います。

 「視聴者の会」が問題としたのは、岸井氏が安保関連法の審議が大詰めを迎えていた9月16日の放送で、「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したことです。

これについて、公開質問状は「岸井氏は番組の司会者であり、番組と放送局を代表する立場から、一方的な意見を断定的に視聴者に押しつけることは、放送法4条に明らかに抵触する」として、見解を問いただしました。

 放送法4条は「放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」とし、(1)公安及び善良な風俗を害しないこと(2)政治的に公平であること(3)報道は事実をまげないですること(4)意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること-を規定しています。

 新聞は発行しようと思えば誰でもできるので、憲法21条の表現の自由(報道の自由)に基づいて、それぞれの社が独自に政治的な主張を掲げることを認められています。

しかし、テレビやラジオは国から限られた電波を割り当てられた免許事業で、誰でも放送できるわけではありません。

さらに、放送は音声や映像で情報を伝えることから、活字以上に国民の思想や世論などに与える影響が強いという側面もあります。このため、放送法によって報道の自由に一定の制約が課され、政治的な意図をもった主張をしてはいけないことになっているのです。

 放送法のうち、(1)と(3)は当然のこととして、政治報道で問題となるのは(2)と(4)です。国民の間で賛否が分かれている安保関連法のような問題の報道の仕方は、「政治的公平」と「多角的な論点の提供」にはとくに注意を払うべきです

。しかし、岸井氏の発言はメディアの報道の方向性として「廃案に向けてずっと声を上げ続ける」ことを求めていますから、(2)と(4)の規定に反していることは誰の目にも明らかです。

 岸井氏は「NEWS23」の中で9月16日の放送に限らず、安保関連法や原発再稼働、特定秘密保護法など安倍政権が進める重要政策について反対の立場を表明してきました。

私にはこれらの発言は「一方的な見解の表明」にしか見えず、「反安倍政権」という自らの政治的主張に視聴者を導こうとする意図さえ感じます。放送法4条の規定に配慮する姿勢に欠けていると言っていいでしょう。

 岸井氏だけが問題なのではありません。岸井氏は毎日新聞特別編集委員ですから、その発言は当然、毎日新聞の社論に沿ったものになるでしょうが、番組を仕切る立場のキャスターも、その主張にただ相づちを打って追認するだけで多角的に論点を紹介することはほとんどありません。

従って番組の構成そのものが問題で、キャスターにも、番組の責任者であるプロデューサーにも、そして番組を放送しているTBS自体にも責任があります。

 それにしてもなぜ、こうした報道がまかり通っているのでしょうか。それは放送法4条には罰則がなく、「単なる倫理規定」と軽んじられているからにほかなりません。

さらに、「権力に対してチェック機能を果たすのがメディアの役割であり、批判するのであれば意見が偏っていても構わない」という「勘違いの正義感」も背景にあると思います。

 しかし、「視聴者の会」が指摘するように、それは視聴者を無視したテレビ局の「傲慢」あるいは「自己満足」でしかありません。

多くの視聴者は特定のテレビの報道番組をただうのみにするほど愚かではありません。

テレビに限らず、新聞やインターネットのニュースなどさまざまなメディアから情報や論点を得て、自らの見解を見いだそうとしています。

その中で、特定の番組が一方的な意見を押しつけようとしても、そうした賢明な視聴者からは反感を買うだけだと私は思います。

 「視聴者の会」が岸井氏の発言について「放送法違反」と指摘したことは、政界にも波紋を広げています。

民主党の岡田克也代表は3日の記者会見で、「メーンキャスターが自分の意見を言ってはいけないというのは一つの見方かもしれないが、偏った見方だ」と述べ、「視聴者の会」を批判し、岸井氏を擁護しました。

しかし、もしあるテレビの報道番組のキャスターが「メディアは民主党を無くすように声を上げ続けるべきだ」と発言しても、岡田氏は容認するでしょうか。

するはずがありません。岸井氏の発言がそういう問題であることを岡田氏は理解していないのです。

 民主党に対しては3年間の政権の失敗やその後も責任ある野党として役割を果たせていないことから、「民主党はもはや無くした方がいい」という意見も少なくありません。

現に党内や他の野党から民主党解党論が出ています。ただ、テレビの報道番組がこの問題を取り上げる場合もやはり、民主党のあり方について一方的な主張を伝えるのではなく、同党の現状や政策、国会での対応、野党再編の動きなどを多角的に報じ、視聴者に論点を与えるべきなのです。

 政府・与党は今のところ、岸井氏の発言問題について静観の構えをとっています。しかし、岸井氏の発言に代表されるテレビの政治報道の問題を放置していていいわけはありません。

放送法4条は視聴者、国民、さらには国家のあり方にとって極めて重要な規定だからです。それを「単なる倫理規定」、「従わなくても罰則はない」などとして、テレビ局の恣意的な報道を許していてはその意義が脅かされます。

 同条については、平成19年の総務相答弁で「一つの番組ではなく当該放送事業者の番組全体を見て、全体としてバランスのとれたものであるかを判断することが必要」との見解が示されています。

しかし、「視聴者の会」の公開質問状が指摘したように、「一般視聴者がある一局の報道番組全体を見ることはできません」。

したがって、「なるべく一つの報道番組内で公平性や多様な意見の紹介に配慮しようと努めるのが、放送番組責任者の当然の倫理的責務」なのです。

 政府・与党はこの問題について「報道への権力の介入だ」などという批判を恐れることなく、冷静にテレビの報道番組の現状を分析したうえで、放送法4条の運用がどうあるべきかを、議論すべきだと思います。

監督官庁である総務省も、非現実的な過去の答弁に縛られることなく、同条についてよりきめ細かなガイドラインを定めたり、報道番組の内容、構成をチェックして逸脱していた場合は指摘を行ったりといった対応をとるべきだと思います。

 放送法4条には先に書いた重要な意義があるのですから、テレビ局の「傲慢」を許して死文化させてはいけません。まずは「視聴者の会」の公開質問状に、当事者たちがどう回答するのか、注目したいと思います。(高橋昌之)

コメント (1)
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養母との関係を見直して――心配性の克服で豊かな愛の子育て

2015-12-15 04:02:43 | 日記

http://voicee.jp/2015030610824

心配が募っていく……

「自分の意見を言えるようになろう」

小学4年生の娘のMがもらってきた通知表を見て、私はがっかりしました。2年生ごろから、毎回のように同じことを書かれていたのです。

娘の趣味は読書。本を読んでばかりいる姿を見るとますます内向的になってしまわないかと心配になります。自分の子供の頃を振り返ると、もっと外で遊んだり、運動したりしたものでした。

ついきつい口調で言ってしまいます。

「M、もっと外で遊んだら?」

「はーい」

素直に返事はするものの、何事もなかったかのように読書に戻るM。

私は「この先、本当にこのままで大丈夫かな……」と不安になるのです。

Mのほかにも2人子供がいますが、私は子供たちのことで何か気になると、すぐ心配になり、悲観的な未来を想像していました。「そんなの考えすぎだって」と支部のママ友に言われるほどで、心配のあまり、イライラして子どもを怒鳴ったり、口出ししたりすることもこともよくありました。

育ての母親と私の関係

私のこの性格は、育ての母の影響かもしれないと、うすうす感じていました。

実の母は、私を産んですぐ亡くなったので、親戚である養母が私を赤ん坊のときから育ててくれました。その養母も、かなり心配性の人でした。

そんな養母に、10代の頃の私はよく思っていなかったはずなのに、今、同じ事をしていました。「この性格を何とか変えたい」と思いながらも、日々の生活に追われ、何もできないでいたのです。

その年の10月、私は大分県にある湯布院正心館に泊まりがけで行くことになりました。

主人が家で子どもたちを見てくれるおかげで、私は子どものことを心配せずに、久々に自分をじっくり見つめることができそうな予感がしていました。

そして、大川隆法総裁の法話「子どもたちの試練と自立について」を聴きました。それは、総裁自身の経験をふまえた、家庭における人生修行についてのお話でした。

法話を聴き終えた私は、以前から気になっていた養母との関係についてゆっくり振り返ってみました。

養母は、同居する家族との折り合いがよくなかったためか、よく「あなただけが生きがいよ」と私に言い、なにかと干渉してきました。私はそんな養母をうっとうしく感じながらも、何も言えませんでした。

進路についても、家が薬局を営んでいたため、私は養母に期待されるままに、薬剤師を目指すようになりました。本当は理数系は苦手で、逃げ出したい気持ちだったのに──。

親の言うとおりにしなければ危ないという思いこみ

改めて思い返すと、当時の私は、養母の実の子ではないという負い目から、「いい子でいないと、この家にいられなくなる」という不安につき動かされていたのではないかと気づきました。

本心を押し殺して、養母の思う「あるべき姿」に、無理やり合わせようとし続けてきた私は、「親の言うとおりにしないと、何か悪いことが起きる」という思いこみを今も持ち続けていました。

それが子育てにも表れ、子どもに悪いことが起きないように、「こうでないといけない」と考えがちになっていたのです。そのため、Mの個性を無視して枠にはめようとしてしまい、枠から外れると不安になるのでした。

しかし、仏法真理には、「一人ひとりに仏性があり、その輝き方はそれぞれ違う」という教えがあります。私は、娘の個性を尊重していなかった自分に気づいて、この日から考えを改める決意をしました。

養母の立場になって考えることができた

それから、養母のことも考えてみました。

子どもの頃、琉球舞踊の稽古に、養母が毎週ついてきてくれていたこと、発表会の時も私のお化粧を一生懸命してくれて、舞台裏で見守ってくれたこと、それに私が出産した時、「Cが子を産んだ」と喜んで、足が悪いのにタクシーで1人で病院まで駆けつけてくれたこと――。

そうしたことが次々と思い出され、養母なりに私を精一杯愛してくれていたんだとわかりました。

すると、養母へのわだかまりがすっととけてゆき、感謝の気持ちが湧いてきたのです。

「子育てしたことのないお養母さんが、私を引き取ったんだもの。手探りで、不安だっただろうに、よくやってくれたな。ありがたいなあ……」

以前は他の人より大変だと思っていた自分の家庭環境が、それほどでもないものに見えてき、過剰に思われた養母の心配も私をいとおしく思っていたがゆえだったと認めることができました。

そして「まったく問題のない家庭などない」という教えが思い出されました。そして育った家庭の影響から脱していく道を教えてくださったのだから、私も仏法真理を学んで努力すれば、きっと変われるはずだと、前向きな気持ちがわき上がってきたのです。

「今の、幼子のような屈託のない心を忘れないでいたいなあ。これからは、もっと子どもたちの明るい未来を信じていこう。そして、大きな愛で包み込めるような母親になっていこう──」

すっかり穏やかになった心で、私は決意しました。

おとなしい娘が学芸会の主役に

早速私は、子どもを心配するクセを変える努力を始めました。

それから毎日、子どもたちが学校へ行った後、「子どもたちがそれぞれ持っている素晴らしさを発揮できますように」と御本尊の前でお祈りをしました。

すると徐々に3人の子どもたちが、笑顔で生き生きしている様子を、はっきりとイメージできるようになっていきました。

子どもについて悲観的なことを考える事はかなり減りました。ときどき不安がよぎって、つい「無理だ」「だめだ」と否定的な言葉が出そうになることもありましたが、そんなときは、ぐっとこらえるようにしました。

そして、穏やかな心をとり戻す努力を続けました。

3カ月ほど経ったある日のこと。学校から帰ってきたMが、淡々と私に言いました。

「今度の学芸会で『青い鳥』をやるんだ。チルチルとミチルの『ミチル』役に決まったよ」

驚きました。つい「えー、うそー! おとなしいMが主役? 本当にできるの?」と言いそうになったところで、言葉をのみ込みました。

「そうなの。立候補したの?」

「ううん、推薦された。みんなが『Mはミチルに似てる』って」

「へえー。よかったねー」

夜になって、私は主人と話しました。

「担任の先生も応援してくれているし、まあ、大丈夫だろう。家でも応援してやろうよ。」

私も話を聞いた時は動揺しましたが、ここが正念場だと思い、Mの力を信じようと、自分に言い聞かせました。

「あなたはやれば何でもできる」

それから本番までの1カ月間、私はMの成功を信じ、祈り続けました。

Mが劇のセリフの練習を始めると、私もなるべく家事の手を止めて聞くようにしました。

「うまくなったねえ。よかったよ!」

心からほめると、Mは照れながらも、いっそう練習に励みます。

そして、ついに本番――。私は、堂々と主役を務めるMの姿に、胸が熱くなりました。内向的だとばかり思っていたけれど、こんなに前向きで強い子だったとわかり、本当に嬉しかったのです。

1カ月後の学期末、Mの通知表には、先生から次の言葉が添えられていました。

「学芸会で新しい自分を発見したと思います。あなたはやれば何でもできるのですから、色々なことにチャレンジしてください」

そうほめられても、マイペースで飄々(ひょうひょう)としているMですが、私はそんな娘のありのままの姿を受け入れられるようになりました。

子どもを愛するということは、心配することではなく、子どもの可能性を信じて、その成長を支援していくことなのだと、今、実感しています。

これからも仏法真理を学びながら、心の平静を保ち、子どもの個性の輝きを見出す努力を続けて、愛あふれる子育てをしていこうと思います


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