元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

尖閣を日本領と証拠づける2つの地図 今こそ歴史のウソに終止符を打つ時

2015-12-21 20:40:47 | 日記

尖閣を日本領と証拠づける2つの地図 今こそ歴史のウソに終止符を打つ時
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9829



◎発見されたのはイギリスとドイツの2つの地図

今回石井氏が発見した地図は、当時の海洋大国・イギリスのスタンフォード地図店が1887年に発行した「ロンドン・アトラス」と、ドイツの地図製作の大家であるアドルフ・シュティーラ氏が1868年に作成した「ハンド・アトラス」。石井氏はそれぞれ、オーストラリア国立博物館のデジタル資料と、東京総合図書館に所蔵されている資料の中から発見したという。

地図発見後、石井氏は尖閣諸島付近の領土表記を調査。その結果、「ロンドン・アトラス」では、尖閣諸島・久場島の西側に領土・領海の境界を示す点線が引かれ、「ハンド・アトラス」でも、尖閣諸島は日本領として琉球併合前の沖縄と同じ色分けをされていたという。


◎日本は日清戦争を通じて尖閣諸島を奪った!?

今、中国は尖閣諸島を中国固有の領土と主張し、日本は日清戦争を通じて、尖閣諸島を奪ったと批判している。ただ、今回発見された地図はいずれも日清戦争以前のものである。すなわち、日清戦争以前からヨーロッパでは尖閣諸島は日本領であると認識されていたということだ。

今年3月には、日本の外務省が「尖閣諸島は日本領」と明記した中国政府発行の地図をホームページ上に公開するなど、次々と中国側の主張を覆す資料が発見されている。 


◎歴史的事実に基づいた証拠資料で反論を

一連の資料が示すように、尖閣諸島は日本固有の領土であることは疑いの余地がない。もし中国側が反論したいのであれば、歴史的事実に基づいた証拠資料を示す必要があるだろう。

日本は尖閣領土問題以外にも、「南京大虐殺」や「軍による慰安婦の強制連行」の有無をめぐって中国と対立している。ただいずれも、それらが実際にあったことを示す証拠資料は見つかっていない。にもかかわらず、日本政府は政府の公式見解として、「軍による慰安婦の強制連行があった」「日本はアジア諸国に苦痛を与えた」とする河野・村山談話を出し、ありもしないウソを自ら世界中に広めてしまっている。

歴史のウソも繰り返すと事実のように見えてくる。しかし、真実は1つである。日本政府は、証拠資料をもとに、自信を持って反論しなければならない。(冨)

【関連書籍】
幸福の科学出版 『国を守る宗教の力』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=816

【関連記事】
2015年3月19日付本欄 尖閣問題はこれで決着! 日本の外務省が毛沢東お墨付きの中国公式地図を公開
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9341

2015年1月21日付本欄 中国が「尖閣は日本領」とオウンゴール 政治的妥協の必要はない
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9075


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アメリカで新たな原発ブーム 日本は最先端技術の実用化をすべきだ!

2015-12-21 20:38:11 | 日記

◆アメリカで新たな原発ブーム 日本は最先端技術の実用化を
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9840

アメリカの軍事会社や、シリコンバレーのテクノロジー企業などが、新たな原発ブームを予想して、原発の開発に合計で13億ドル(約1600億円)もの投資をしていることを、ロイター紙が報じている。

開発中の原発は、既存の原発と比べると小型であり、ウラン以外の核燃料や、水以外の冷却システムを使ったデザインとなっている。今後10年から15年の間に実用化する可能性があるという。


◎核融合炉や小型原発の開発が進む

ビル・ゲイツなどが融資している米企業テラ・パワーは、液体メタルを冷却に使う原発を建設することを目指している。さらに、ビル・ゲイツと共にマイクロソフトの創始者の一人であるポール・アレンが融資する企業トライ・アルファは、核融合炉の研究を進めている。

また、開発企業の中には米軍事会社のロッキード・マーティンや、エネルギー会社のホルテックなどもある。ロッキードは昨年、核融合を使ったエネルギー生成に成功しており、これをトラックの後ろに載せられる規模まで小型化するのに10年ほどかかるという。

こういった研究が目指しているのは、化石燃料(石油・天然ガス)や再生可能エネルギー(風力、太陽光)と比べてコスト面でも負けない原発だ。また、既存の原発が建設に5〜6年かかるのに対し、新しい原発は小型であるため、建設に1〜5年程度の年月しかかからない。

◎日本には世界最先端技術が眠っているが……

日本でも核融合などの研究は進んでおり、核分裂を使う原発技術も世界の中でトップレベルだ。しかし、福島原発事故以来、いまだに多くの原発が停止したままだ。日本には世界最先端の技術が眠っているが、それを使わないまま放置している側面がある。

このまま原発を再稼動せず、新しい核技術・エネルギーの使用を拒み続けたらどうなるのだろうか。10年後や20年後に、先進国が小型原発や核融合炉を使っているときに、日本だけまだ20世紀の技術を使い続けているなどという状況もあり得る。エネルギー業界をリードするどころか、世界に取り残されてしまう可能性もある。

日本は「自縄自縛」をそろそろやめて、最先端技術を積極的に実用化していくべきだ。(中)

【関連記事】
2015年6月号記事 差し止め判断は司法の「メルトダウン」 原発再稼働に横やり - The Liberty Opinion 5
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9507

2015年6月7日付本欄 国際原子力シンポに世界の女性技術者・学者ら結集 事実に根差した原子力の未来を語る
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9729

2015年5月26日付本欄 IAEA原発事故で東電・政府を批判 「脱原発」よりも「原発輸出」の機会に
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9692


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莫大な資金援助と技術提供で、韓国の高度成長を支えた日本

2015-12-21 20:14:58 | 日記

◆日韓国交正常化50周年 韓国は日本の貢献を認め、誠実な外交を
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9774


◎莫大な資金援助と技術提供で、韓国の高度成長を支えた日本

日韓国交正常化と、それに続く「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる韓国の高度経済成長は、朴槿恵大統領の父・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代の大きな業績の一つだ。

国交正常化の際、日韓で賠償を取り決めた日韓基本条約が締結され、日本は韓国に対して8億ドル以上の資金援助や、さまざまな技術・ノウハウを提供し、韓国の経済成長と、その後の先進国入りを助けた。この時、日本からの莫大な資金は、韓国政府の判断でインフラ整備などに費やされ、個人への補償は十分になされなかった。

また、同時に結ばれた日韓請求権協定では、「戦後処理は完全かつ最終的に解決された」とした。当時は議題にも上らなかった慰安婦の問題を、現在、朴槿恵大統領が持ち出すことは明らかに協定に反している。

韓国の経済成長のために、日本が莫大な資金援助と技術の提供で貢献したこと、そして戦後処理は解決されたという協定が結ばれたことは、韓国の一般市民にほとんど知らされていないという。


◎誠実な国家運営と外交で国家存亡の危機を乗り越えられる

昨年4月のセウォル号沈没事件に続き、現在、問題となっているMERS感染の拡大で、韓国政府の対応が厳しく批判・追及され、国内での支持率は急落。長期化している経済低迷、北朝鮮崩壊の危機など、韓国が抱える問題は深刻さを増している。

徹底した「親中反日」路線を突き進み、世界各国で告げ口外交を行っている朴大統領は、国際社会でも孤立しつつある。韓国が中国に影響されて日・米・韓の同盟関係を崩した場合、中国の属国となり、韓国自身が国家存亡の危機を迎えかねない。

朴大統領は「千年経っても恨みは変わらない」などと言って反日路線を走るのではなく、日本が韓国の繁栄に寄与した歴史があることを認め、誠実な国家運営・外交へと転換すべきだ。(真)

【関連書籍】
幸福の科学出版 『韓国 朴正煕元大統領の霊言 父から娘へ、真実のメッセージ』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1051

幸福の科学出版 『守護霊インタビュー 朴槿惠韓国大統領 なぜ、私は「反日」なのか』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1114

【関連記事】
2015年6月11日付本欄 韓国のMERS拡大 朴大統領は為政者としての徳を
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9744

Web限定記事 告げ口外交の舞台裏 慰安婦問題は朴槿惠大統領の金策だった
http://the-liberty.com/article.php?item_id=7510


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昭和天皇の終戦の御聖断【前編】

2015-12-21 20:12:09 | 日記

昭和天皇の終戦の御聖断【前編】[HRPニュースファイル1459]

http://hrp-newsfile.jp/2015/2356/


 ◆戦争を終わらせることは、戦争を始めるよりも難しい

はじめに、戦後70年目の終戦の日を迎え、大東亜戦争で国の為に命を捧げられた御霊に対して畏敬の念を捧げるとともに心より感謝申し上げます。

現在、終戦に至るまでを描いた映画「日本のいちばん長い日」が話題を呼んでいます。

戦争を終わらせることは、戦争を始めることより難しいことです。終戦の決断をめぐり内乱が起きてもおかしくなかった状況下で、終戦の決断は如何に行われたのでしょうか。

そこには、自分の命に代えても日本の国を後世に残こそうとされた先人方のすさまじい覚悟がありました。

 ◆鈴木貫太郎の最後の御奉公

昭和20年4月、戦況悪化の責任をとって辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議が持たれました。その会議で後継に推薦されたの、侍従職の経験もあり昭和天皇から信任が厚かった鈴木貫太郎でした。

鈴木貫太郎は総理就任にあたり、国民に次のように呼びかけました。

※日本ニュース第250号(昭和20年4月23日)戦争証言アーカイブス. NHKより(動画)
(http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300378_00000&seg_number=001)

「私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。」

鈴木貫太郎は、自分の内閣で終戦に導くという大命を自覚していました。

 ◆終戦の御前会議

戦況はますます悪化し8月6日には広島に、9日には長崎に原爆が落とされました。さらに日本が和平交渉仲介を依頼していたソ連が、9日に突然宣戦布告してきたのです。

9日深夜と14日にも御前会議(天皇陛下をお迎えしての会議)が開かれました。会議は日本に降伏を求めたポツダム宣言を受諾すべきとする東郷茂徳外相ら3名と徹底抗戦を主張する阿南惟幾陸軍大臣ら3名に分かれました。

ここで鈴木首相が前者に賛成すれば、4対3の多数決でポツダム宣言の受諾を決議できるのですが、戦わずして敗北を受け入れることができない徹底抗戦を叫ぶ青年将校たちの暴発は止められないと考えていました。

一方で鈴木首相は、終戦の決断が遅れれば、ソ連が満洲、樺太ばかりでなく、北海道にも進攻し、ドイツ同様に分割されてしまう、そうなれば日本の滅亡は免れない、相手がアメリカであるうちに終戦の決着をつけなければならないとも考えていました。

そこで、鈴木首相は昭和天皇に御聖断を仰ぐことによって終戦に導こうと考えたのです。これは昭和天皇と侍従を務めたことのある鈴木首相であるからこそできたともいえます。

鈴木首相は静かに陛下の前に進み、大きな体をかがめて礼をしてお願いしました。

「遺憾ながら3対3のまま、なお議決することができません。この上は、まことに異例でおそれ多いことでございますが、陛下の御聖断を拝しまして、本会議の結論といたしたいと存じます。」

 ◆昭和天皇の御聖断

以下は14日の時のお言葉ですが、昭和天皇は時々、白手袋をした右手を頬に当てながら次のように述べられました。

「世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体護持(日本の天皇中心の国柄を守ること)の問題について、いろいろ疑義があるらしいが、(中略)要はわが国民全体の信念と覚悟の問題と思うから、この際(ポツダム宣言の)申し入れは受諾してよろしいと考える。みなもどうかそう考えてほしい。」 

それを聞いて会議の席で皆は涙があふれていました。昭和天皇も、涙をぬぐい続けました。 

「陸海軍の将兵にとっては、武装の解除なり保証占領というようなことはまことに耐えがたいこと、その気持ちはよくわかる。」
 
「しかし、自分はどうなろうとも万民の生命を助けたい。このうえ、戦争を続けていれば結局はわが国がまったくの焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさせることになり、自分としてはじつに忍び難い。祖宗の霊にも、お応えできない。」

「和平の手段にしても、先方のやり方に全幅の信頼がおけないのは当然であるが、日本がまったくもってなくなるという結果に比べれば、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興の光明も考えられよう。」

「明治大帝が涙をのんで思い切られた三国干渉当時のご苦喪をしのび、この際、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力して将来の回復に立ち向かいたいと思う。」

「今まで戦場で陣没し、あるいは殉職して非命にたおれた者、またその遺族を思うと悲嘆に耐えぬ。また、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者の生活について、自分の心配するところでもある。」

「この際、自分としてはなすべきことがあれば、なんでもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、いつでも自分はマイクの前にも立とう。」

下記は、昭和天皇が昭和20年に詠まれた御製(ぎょせい:天皇陛下が詠まれた和歌)です。

爆撃に たふれゆく民の 上おもい  いくさとめけり 身はいかならむとも 

身はいかに なるともいくさ とめにけり ただたふれゆく 民をおもひて 

「自分の身はどうなってもかまわない。苦しんでいる国民を助けたい」、これが昭和天皇の御心でした。 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩

(【後編】につづく)


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当然だ!アメリカの若者、「原爆投下は間違っていた」の声多数 アメリカは反省せよ

2015-12-21 20:09:16 | 日記


◆アメリカの若者、「原爆投下は間違っていた」の声多数 アメリカは反省せよ
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9971

戦後70年を受け、米世論調査会社「YouGov」が、7月18日〜20日にかけて行った調査で、アメリカ人の10人に6人が、「原爆の発明は悪かった」と答え、多くの人々が「日本に投下したことは間違っていた」という認識であることを発表した。

この調査結果の他にも、回答した18〜29歳の若者のうち、45%が日本に原爆を投下したことについて、「間違った判断」(反対)とし、「原爆投下は正しい」(賛成)と答えた41%を超えた。
一方、45歳〜56歳では、55%が原爆投下を支持し、21%が反対。65歳以上も、65%が賛成、15%が反対である。若い層ほど、原爆投下に否定的な考えを持つことが判明したという。


◎アメリカの国論が変化

原爆投下から長い年月が経ったこともあり、アメリカでは原爆投下を肯定してきた国論が徐々に変わり始めている。

オバマ大統領が、原爆の使用について日本に謝罪を行う意向であったことが、2011年の内部告発サイト「ウィキリークス」の情報で明らかになったり、今年6月には、アメリカン大学美術館で「原爆の図」の展覧会が行われた。ワシントンで展示されるのは初めてだ。

さらに6月から7月にかけて、幸福の科学の会員有志らが運営する「エル・カンターレ財団」が、被爆地・広島の写真や映像などを展示する「原爆展」をハワイで開催。会場には、原爆を落とした米爆撃機「エノラ・ゲイ」の操縦士の友人が来場し、「彼が良心の呵責に苦しんでいたのを知っている」と語り、涙を見せる姿もあった。


◎原爆投下は誤り

アメリカの意識が変わる反面、日本では、同国に反省を求める機運は高まっていない。そこには、政府などが日米同盟を最優先にする判断があるのだろう。だが、当時の日本軍の戦力や、非戦闘員を巻き込んだことを考えれば、アメリカが原爆投下をするべきではなかったのは明らかだ。その点、日本が原爆について卑屈になる必要はない。

国際秩序が乱れ、中国が台頭する中、日本とアメリカが真の友人になるならば、お互いの良い部分も悪い部分も認め合うべきである。その姿勢こそが、日米同盟をさらに発展させるはずだ。(山本慧)

【関連記事】
2015年8月号記事 アメリカの反省 —共産主義の大国 中国を育てた3人の大統領
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9819

2015年7月号記事 「河野・村山談話」を無効とせよ 安倍談話は「アジアを解放した日本」を語れ
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9657

2015年7月8日付本欄 日本の戦争はアジア解放のためだった【アメリカ人日本史研究者に聞く大東亜戦争(1)】
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9869

2015年7月12日付本欄 日本に完全降伏を強いたのは間違った戦略【アメリカ人日本史研究者に聞く大東亜戦争(2)】
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9886


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昭和天皇の終戦の御聖断【後編】

2015-12-21 20:08:39 | 日記

昭和天皇の終戦の御聖断【後編】[HRPニュースファイル1461]

http://hrp-newsfile.jp/2015/2359/

 
 ◆青年将校の暴発を鎮めた阿南陸軍大臣

御前会議で昭和天皇の終戦の御聖断があったとはいえ、本土決戦を叫ぶ陸軍の青年将校は、戦わずして敗北を受け入れることができず、終戦を阻むためクーデターを起こそうとしていました。まだ内乱の危機は去っていなかったのです。

昭和天皇の御聖断があった8月14日の深夜、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣は鈴木貫太郎首相のもとを訪れました。

「自分は陸軍の意志を代表して(御前会議で)随分強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりが反って種々意見の対立を招き、閣僚として甚だ至らなかったことを、深く陳謝致します。」

鈴木首相は、阿南大臣が最後の別れの挨拶に来たことを悟りました。そして阿南大臣にこう言いました。

「私こそ貴官の率直なご意見を心から感謝して拝聴した。みな国を思うの熱情から出たもので、なんら意に介してはおりません。日本のご皇室は絶対に安泰ですよ。」

「(ポツダム宣言を受け入れも)陛下のことは変わりません。何となれば、陛下は春と秋とのご先祖のお祭りを熱心になさっておられますから。」

阿南大臣は強くうなずき、「まったく同感であります。日本は君臣一体となって必ず復興すると堅く信じております。」と答えました。

「先祖のお祭り」とは、歴代天皇の遺志を継ぎ、ひたすらに国民の安寧を祈る皇室の伝統です。この御決意がある限り、すなわち、阿南大臣の言う「君民一体」の国体(国柄)は護持できるということです。

いよいよ御前会議の昭和天皇の御聖断をもとに、終戦の詔勅がつくられ、翌8月15日天皇御自身がラジオで国民に直接呼びかけるという異例の玉音放送がなされました。 

 ◆阿南陸軍大臣の自刃

一方で阿南大臣はある決意を固めていました。

「一死をもって大罪を謝す」 

これは、天皇陛下の戦争を止めるという大御心に背いて、陸軍の最高責任者として、「徹底抗戦」を主張した大罪をお詫びするというものです。

阿南大臣は、陛下の「阿南おまえの気持ちはよくわかる。しかし、自分には国体を護れる自信がある」という言葉を信じ、15日未明、割腹自決を遂げました。

それは、ただの割腹ではなく完全に腹を切り裂くことなく一晩生きたまま苦しみに耐えながらの自刃でした。

阿南大臣の自刃は「終戦の意志は陛下の真実の思いであり、反乱することなく矛をおさめよ」という青年将校たちへのメッセージだったのです。

こうして阿南大臣の自刃の姿を拝して、終戦の決断が昭和天皇の御意向であったことを悟った青年将校たちは反乱の矛先を収めました。

 ◆日本を背負って立つ責任感

「自分の身は如何になろうとも」終戦を決断した昭和天皇、「最後の御奉公」として国民の先頭に立って終戦に導いた鈴木貫太郎首相、そして自らの自刃によって青年将校の反乱を鎮めた阿南惟幾陸軍大臣。

この「日本」を背負う責任感、捨て身の覚悟が日本の奇跡的な終戦へと導いたのでした。

この日本を預かった私達の世代は日本国民として、この日本をどのようにすべきなのでしょうか。

その先人方に思いを馳せる時、自分の権利ばかりを主張し国から貰うことばかりを考えている国民、自らの延命を考え言うべきことも言えない政治家、これらがなんとも薄っぺらな生き様に見えてしかたがありません。

「もらう側」ではなく、「与える側」に立ち、国の為に何ができるかを考える国民、他国におもねることなく言うべきは言う「大きな器」を持った哲人政治家の出現が待たれます。文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩

参考図書
『天皇家の戦い』新潮文庫/加瀬 英明著
『鈴木貫太郎自伝』 中公クラシックス)/鈴木 貫太郎著
『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』 PHP文庫/半藤 一利著
『決定版 日本のいちばん長い日』文春文庫/半藤 一利著
『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫/角田 房子著
『宰相鈴木貫太郎』文藝春秋/小堀 桂一郎著  


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中国は必ず、東シナ海で、ガス田開発施設プラットホームを軍事目的に転用する。

2015-12-21 20:08:01 | 日記

忍び寄る中国の軍事的脅威

急速に軍事力を増し、日本を脅かしている隣国があります。

先日、東シナ海における中国のガス田開発施設が、この1年で6基から12基に倍増し、さらに4箇所建設中です。

中国の開発施設にはヘリコプターの発着設備があり、これにレーダーなどの軍事設備が配備されれば、恒久的な軍事基地に使われる恐れもある。そうなれば、中国はこれまで以上に自衛隊の同地域における活動を監視しやすくなる

南シナ海では一足早く、岩礁を埋め立て、軍事施設を設置し始めています。まさに幕末に押し寄せてきた強大な軍事力を持つ国が、その力を背景に諸国を脅かす事態の再来のようにも見えます。

あわせて国民の生命や領土保全に関わる安全保障上、重大な情報を国民に知らせないばかりか、放置し続けた安倍政権は、その危機感の無さには驚愕すべきものがあります。

中国は南シナ海では猛スピードで岩礁を埋め立てて滑走路を造り、東シナ海ではプラットホームを倍増させいつでも軍事目的に転用可能な体制を築きました。

また尖閣諸島には中国公船がほとんど毎日現れ、九州近海でも潜水艦が侵入する海図作成のためと考えられる海洋調査も行われ、軍事的侵攻の準備を着々と進めている事がうかがわれます。

日本が外国から侵攻され、領土が侵されれば、そこに暮らす人々はチベット、ウイグルのように現在のような言論の自由さえなくなります。

早急に安保法制を成立させ、自国を守る体制を整えるべきです。!


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安倍政権の圧力を前に経済界が設備投資を"宣誓"!?「国家社会主義」的なやり方に、民間が屈した

2015-12-21 19:55:34 | 日記



◆安倍政権の圧力を前に経済界が設備投資を"宣誓"!?
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10552

政府は26日、閣僚や経済界トップによる「官民対話」を開いた。会合では、経団連の榊原定征会長が「2016年春闘で前年を上回る賃上げを呼びかける」「設備投資を今後3年間で10兆円増やすことが可能である」との考えを表明した。

安倍首相は、2020年頃に国内総生産(GDP)600兆円を達成することを掲げ、経済界に賃金上げと設備投資の増加を要求していた。今回の表明は、その要求への回答となる。 


◎「内部留保に課税」の圧力?

これは安倍政権の「国家社会主義」的なやり方に、民間が屈した図と言える。

そもそも賃上げや設備投資の増強の決定や実施は、個々の企業の経営判断だ。当初、榊原会長も数値目標の提示に否定的であった。

それに対し、自民党内から企業の内部留保に課税する案が浮上するなど、圧力もかかった。

ここまで政府が経済界に圧力をかける背景として、2015年4〜6月期ならびに7〜9月期の国内総生産が2期連続のマイナスとなり、景気停滞に陥っていることへの強い焦りが伺える。

さらなる増税も控える中、少しでも景気を上向かせなければ、政権の命が短くなる。


◎民間消費が景気回復の肝

しかし、企業が投資を渋っているのも、中国経済の減速や日本経済の先行きの不透明さにある。

日本の経済の6割を支えているのは国民の消費だ。そんな中、2013年4月の消費税増税により、たった1年で約10兆円の消費が失われた(実質GDPベース)。

予定通り、2017年4月に消費税が10%に増税されれば、さらに消費が冷え込み、国内総生産600兆円どころか、国内市場が縮小する。

安倍政権は投資や賃上げを強引に迫るよりも、民間の消費を刺激させる経済環境の整備に目を向けるべきだ。(HS政経塾 油井哲史)

【関連記事】
2015年12月号記事 減税と規制緩和で経済成長を - 「新3本の矢」はアベノミクスの終わり - The Liberty Opinion 3
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10366

2015年11月16日付本欄 「GDPマイナス成長」隠し? 都合のいい数字を"つくる"財務省
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10466

2015年9月27日付本欄 「新3本の矢」は消費増税10%への布石 でも確実に折れる
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10244

2015年9月10日付本欄 国民の負担を減らすには「軽減税率」「還付制度」ではなく「5%への減税」が必要
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10154


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沖縄集団自決に日本軍の強制はあったのか

2015-12-21 19:55:08 | 日記

沖縄集団自決に日本軍の強制はあったのか【前編】[HRPニュースファイル1477]

http://hrp-newsfile.jp/2015/2381/

 文/HS政経塾4期生 幸福実現党 大阪本部副代表 数森圭吾

 【戦火から沖縄住民を守るために動いた日本軍】

 ◆沖縄での集団自決とは何か

1945年の沖縄戦における日本側の死者は約20万人。その内の半数である約10万人が沖縄県の住民だったといわれています。

このような激しい戦場となった沖縄の主に慶良間列島、を中心として一般住民が集団で自殺するという事態が発生します。

これが「集団自決」であり、そこに「日本軍の強制」があったのではないかということが問題となっています。

 ◆沖縄における戦況

1943年当時、日本の大本営は沖縄を前線支援のための航空基地として設定していました。しかし1944年7月サイパン島を失ったことで、沖縄は一転して本土防衛の第一線となります。

これに対しアメリカ側も、台湾とフィリピンを目標として、最終的に日本本土攻略を目指していましたが、戦況の変化と日本本土攻略の利便性から、1944年10月に沖縄を目標とすることを正式に決定します。

米軍にとって沖縄は日本本土攻略のための航空基地・兵站基地として、さらには南方との交通を遮断し、日本本土を孤立化させるために必要な重要地点と位置付けます。

このような流れのなかで沖縄は両国にとって重要な戦闘地域となっていきました。

 ◆両軍の慶良間列島に対する考え方

ここで多数の集団自決が発生した慶良間列島に対する両軍の考えも見ておきたいと思います。

慶良間列島には地形的に飛行場に適した土地がなく、慶良間列島へ米軍が攻撃すれば、沖縄本島への攻撃方向を予告するようなものであるため、米軍は直接本島上陸を行うだろうと考えていました。

そのため、本島に向かう米軍船団を襲撃する目的で、約300隻の特攻艇を慶良間に配備したのです。

これに対し米軍は本島への大規模な上陸作戦に先立って、水上機基地、艦隊停泊地として利用するために慶良間列島を攻略することを決定しました。

慶良間列島に囲まれた慶良間海峡は水深が深く、地形的に風を防ぐことができる構造になっていたため、水上機の理着水、艦船への補給、修理が行いやすく、米軍にとって最適の支援基地となりえたのです。

計画通り米軍は日本軍の海上挺進隊の特攻艇を破壊し、慶良間各地を占領して海軍の支援基地としました。この際、渡嘉敷島・座間味島などで大規模な集団自決が発生したのです。

 ◆日本軍の沖縄住民避難対応

当時、多くの沖縄県民は、「本土防衛のためには玉砕も辞せず」という考えを持つ方も多く士気は高かったと言います。このことから、「防衛隊」、「鉄血勤皇隊」「ひめゆり部隊」「白梅部隊」などが結成されます。

いかに沖縄県民が協力的であったかという点については、海軍司令官の大田実少将が海軍次官にあてた最後の電報や島民手記などの内容からも読み取ることができます。

日本陸軍は1877年の西南戦争以降、国土での戦いを経験したことがなく、国防方針として外征作戦によって国土防衛を行ってきたため、住民を包含して戦う国土戦についての研究を十分に行っていませんでした。

そのため記述の通り、見通しの誤りや、対応の遅れなど不備はあったものの、日本軍はできうる限りの沖縄県民の疎開と避難を行っているのです。

 ○県外疎開の実施

サイパンにおいて日本軍が玉砕した1944年7月7日、政府は即日、沖縄県・奄美諸島(第三二軍守備区域)の住民を疎開させることを閣議決定し、結果的に約8万人の疎開を実施しました。

さらには約7千人の学童疎開も行っています。ただ、当時は制空権、制海権を失った状況であったため疎開船への米軍の攻撃によって犠牲も発生しています。

しかし、帝国海軍は同様の犠牲を増やさないため、疎開船の護衛に残存艦艇および航空機の重点配分を行いました。

さらに1945年3月の疎開の最終段階において帝国海軍は、軍規定を破ってまで戦闘艦に婦女子を乗せて九州に高速避難までさせています(沖縄県中城村在住/真喜志文子氏証言)。

 ○島内に残った住民の県内疎開実施

さらに、沖縄県の人口分布は本島南部に集中していたため、日本軍は島内に残った住民8万人を北部の山岳地帯に避難させました。

しかし、沖縄本島の南部には疎開勧告に応じない非戦闘員が約30万人存在し、さらにこの後、米軍が本島中部の海岸に上陸し、本島を南北に分断した為、中南部住民の北部への疎開は不可能となり犠牲者が多数発生してしまいました。

このほかにも沖縄本島での非武装地帯の設定を試みるなど、当時の日本軍は沖縄戦において住民保護のために取りうる対応を最大限に行ったということができます。

次回の後半では、沖縄住民を守ろうとした日本軍が果たして集団自決を強制したのかについて見ていきたいと思います。

【参考文献】
秦郁彦「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」(PHP研究所)
勝岡寛次「沖縄戦集団自決 虚構の『軍命令』」(明成社)
曽野綾子「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」(WAC文庫)
沖縄タイムス社 編「沖縄戦記 鉄の暴風」
大江健三郎「沖縄ノート」(岩波新書)
家永三郎「太平洋戦争」(岩波現代文庫)
「WiLL」2007年12月
「WiLL」2008年1月
「正論」2008年3月


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中国共産党がキリスト教の取り締まりを強化 「宗教革命」は中国を変える鍵

2015-12-21 19:54:00 | 日記

中国共産党がキリスト教の取り締まりを強化 「宗教革命」は中国を変える鍵
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10119

中国共産党による国内の宗教活動への取り締まりが、自由な宗教活動が認められている香港にも拡大している。
26日付の米ニューヨークタイムズ(NYT)紙が次のように報じた。

香港の牧師のフィリップ・ウー氏が、中国本土のキリスト教徒を香港に招き、宗教セミナーを開催した。すると、広東省深セン市当局宗教課から出頭を命じる電話を受けた。ウー氏が中国本土のキリスト教徒向けにウェブサイトで宗教セミナーの告知をしたことが、「中国本土の法律に違反した」と告げられたのだ。

記事によると、ウー氏は「香港特別行政府の法律」には違反していないため、中国本土からの出頭要請に驚いたものの、深セン市当局宗教課を訪れ、職員と面会した。その時、中国の法律に違反したことを認める文書に署名をさせられたという。


◎中国は世界最多のキリスト教人口国家になる

キリスト教は、今や中国国内で約7000万人の信者を持つ最大の宗教勢力となっている。2030年までには2億4700万人に拡大するという予測もあり、そうなれば、アメリカを抜いて世界最多のキリスト教人口を抱える国になる。今回の件のように、中国本土からは、毎年何万人ものキリスト教徒がより自由な宗教活動を求めて香港を訪れている。

共産党指導部は、キリスト教の伝道を通して西欧諸国の考え方が宗教として中国に入り、共産党への批判につながることを危惧している。確かに、昨年9月に始まった香港の雨傘革命も、キリスト教徒のリーダーたちが運動をけん引していた。約7000万人もの国内のキリスト教徒が、外国の支援を受けて一斉蜂起すれば、共産党も無視できない勢力となるはずだ。

中国当局は5月以降、キリスト教の活動が盛んな浙江省において非公認教会(地下教会)の弾圧を本格化させ、既に数千もの教会の十字架が撤去・破壊されるなどの被害を受けていることも明らかになっている。


◎信教の自由を奪う政策は国内外の批判を集める

中国当局が宗教活動を取り締まる背景には、儒教の「易姓革命」の思想がある。これは、徳を失った王朝に天が見切りをつけたとき、宗教をきっかけに革命が起き、王朝が変わるというものだ。実際に中国では、清朝末期に「滅満興漢」のスローガンを唱えた「太平天国の乱」など、宗教活動が政治活動に転化して国を動かしたことが歴史上何度も起きていた。

中国は今、上海株の暴落や、深刻な環境汚染、天津での大規模な爆発事故など、さまざまな国難に見舞われている。人間の尊厳にかかわる「信教の自由」をも奪おうとする当局に、民衆の不満はさらに高まり、宗教をきっかけとした革命が中国本土で起きる日も、そう遠くないかもしれない。(真)

【関連記事】
2014年11月16日付本欄 全体主義国家を変革するのは「宗教」 中国共産党が党員の宗教禁止を徹底
http://the-liberty.com/article.php?item_id=8734

2014年10月4日付本欄 香港の民主化運動を支える宗教的価値観 宗教は自由と民主主義の最後の砦
http://the-liberty.com/article.php?item_id=8524

2014年9月27日付本欄 宗教弾圧を強める中国に革命は近い? 中国共産党が十字架を撤去
http://the-liberty.com/article.php?item_id=8499


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日本はサイバー攻撃に対しても毅然とした対応を!

2015-12-21 19:53:33 | 日記

日本はサイバー攻撃に対しても毅然とした対応を![HRPニュースファイル1456]

http://hrp-newsfile.jp/2015/2350/

 文/幸福実現党・宮城県本部副代表 HS政経塾5期生 油井 哲史(ゆい・てつし)

日本年金機構の個人情報集出事件で、101万人以上の個人情報流出が確認されています。手口は、標的型攻撃メールでした。

不特定多数の対象にばらまかれる通常の迷惑メールとは異なり、対象の組織から重要な情報を盗むことなどを目的として、組織の担当者が業務に関係するメールだと信じて開封してしまうように巧妙に作り込まれたウイルス付きメールのことです。

一連の攻撃には、中国語に堪能な組織が関与したと見られており、日本は確実に標的となっています。

なお、2010年尖閣諸島をめぐる情勢等と関連したとみられるサイバー攻撃においても、ウェブサイト改善事案の捜査を通じて把握したIPアドレスを分析した結果、全て海外所在(約94%が中国)のものでした。

 ◆悪を抑止させる姿勢が鮮明な米国

米国が受けたサイバー攻撃も中国の関与が指摘されています。

米連邦政府の人事管理局は2150万人分の連邦政府職員らの個人情報が不正アクセスを受け、流出したと発表。ジェームズ・クラッパー米国家情報長官は、中国のハッカーに侵入された可能性が高いことを明かしました。

ニューヨークタイムズの報道によると、従来の防諜体制による通常の戦い方ではハッカー攻撃の規模に対応できないため、中国へ報復的サイバー攻撃を検討しているといいます。

実際に、米国は北朝鮮に対しサイバー攻撃の報復で制裁を行っています。

2014年11月、ソニーの100%子会社である映画大手の米ソニーピクチャーエンタテイメントは北朝鮮首脳を風刺したコメディ映画「The Interview」の劇場公開の妨害のため、大規模なサイバー攻撃を北朝鮮から受けました。

公開映像のファイルや最高幹部の電子メールなど大量の情報が流出。さらに、映画の上映予定の映画館に脅迫メールが送られました。

これを受け、オバマ大統領はCNNのインタビューで「とても大きな損失を伴う、高くつく『サイバー破壊行為』だと非難し、相応の対抗処置をとる」と述べました。

ジョン・マケイン上院議員は、今回は間違いなく戦争行為と断定。経済組織を破壊し、世界に、特にアメリカに検閲を課すことができるなら、それは破壊行為以上のものだとし、新たな戦争の形態であり、力強く対応する必要があるとしました。
これらの対抗処置でオバマ大統領は、金融制裁を科す大統領令に署名。米財務省は北朝鮮の3つの政府関連組織と10人の個人を制裁対象に指名し、米国内の資金を凍結。また、米国の人々に対しこれら制裁対象との取引を禁じました。

米国はサイバー攻撃を受け、国益を損ねたならば、その悪を押しとどめるための行動を起こしたのです。

 ◆弱腰な対応で、国益を損なう日本

残念ながら、サイバー攻撃に関して日本政府は弱腰で曖昧な対応です。

2010年尖閣諸島をめぐる情勢等と関連したとみられるサイバー攻撃では、官房長官が「サイバー攻撃への対処は、国家の危機管理上重要な課題であって、政府として情報セキュリティ対策の一層の充実・強化を図る必要がある」と述べました。

しかし、サイバーセキュリティを強化する取り組みは成されましたが、攻撃に対する明確な対応はぼやけました。

また、日本企業への攻撃に際して日本政府の動きは鈍いと言わざるを得ません。

ソニーピクチャーエンタテイメントの一件は、日本資本の企業へのサイバー攻撃であり、当然ながら日本にも影響を及ぼす可能性のあることでありましたが、一部の閣僚らが、北朝鮮を批判する発言をするにとどまりました。

自分の国への影響をそこまで考えておらず、サイバーセキュリティへの認識が弱いと思われます。

日米両国はサイバー空間における脅威に対応するために、日米安保・防衛協力において連携を強め、共同して取り組みや計画における協力を推進していくことになっています。日米安保の関係をさらに強める機会を逃したとも言えるでしょう。

 ◆日本は「止悪」の観点から毅然とした対応を!

軍事的に膨張する中国、核ミサイル保有を急ぐ北朝鮮など物理的な脅威として、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。

国家の国益や国民を守り抜くにも、国防強化に取り組まなければなりませんが、サイバーセキュリティにおいても体制を整えるとともに、毅然とした態度で意見を述べ、さらには「制裁」やサイバー攻撃を可能とするための整備が必要であると考えます。

東南アジアへのサイバー攻撃において、中国がハッカー集団を支援していると米国セキュリティ会社が発表しており、背景には南シナ海紛争があると言われています。

不当な軍事攻撃や侵略、サイバー攻撃を企む国に対しては、「止悪」の観点から毅然とした対応をしなければなりません。日米は協力して、その役割を担うべきです。世界の国々も、正義の実現を求めています。


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宇宙人からの技術供与されてアメリカが作った反重力機・UHOはこれだ!!

2015-12-21 19:14:01 | 日記

幸福の科学出版「ザ・コンタクト」より抜粋

アメリカは宇宙人と取引きをしてますね。明らかに秘密協定を結んでいます。

それは、ロズウェル事件(1947年)意向ですね。アメリカは墜落したUFOの回収、宇宙人の死体の回収、および、生きている宇宙人の捕獲をしましたが、それらを返すことの交換条件として、宇宙人からの技術供与が始まっています。

空飛ぶ円盤は宇宙から来たものが多いですけれども、今、アメリカでもつくっています。アメリカの空軍の秘密基地では、空飛ぶ円盤の試作機をつくって、飛ばしています。

空飛ぶ円盤として、今、発見されているもののなかには、三角形のものとか、ひし形のものとかがありますが、こういうものは、アメリカ独自でつくっている空飛ぶ円盤です。

それから、ステルス戦闘機の技術にも、宇宙人の助言はかなり入っています。


「TR-3B」の画像検索結果「TR-3B」の画像検索結果

「TR-3B」の画像検索結果「TR-3B」の画像検索結果

TR-3B

アメリカが秘密裏に開発した反重力機と推測されている。2014年のタリバン紛争時に、同タイプのUFOが目撃されるなど、各地に出没情報がある。

 

 

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大川隆法・本日の格言「貴人との出会い 」

2015-12-21 19:13:25 | 日記

世の中には人材を求めている人が数多くいるので、

自分が気づかないところで、人物のほどが見られています。

自分が目指して努力している方向とは特に関係のない人が、

まったく違った眼で自分を見ていて、

新たな道を開いてくれることがあるのです。


これが「貴人との出会い」というものです。

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』P.81

 

http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=156&utm_source=wordsJpn&utm_medium=email

※Amazon
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4876883173/hsmail-22/


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「まるで未来」ピラミッド型の米新型ステルス駆逐艦

2015-12-21 17:57:49 | 日記

レーダーでは漁船クラスにカムフラージュ

 12月上旬、ズムワルトは川岸の造船所から離れて川を下り、すべるように大西洋に乗り出した。特異な形状の艦船の出現に人々は驚きの声をあげた。「こんな船はいままでない。まるで未来のよう」。数々の艦船を送り出してきた造船所の職員も感慨深げだ。

 斜面のような側面に加え、へさきも通常の船と逆向きの角度で波を切る。レーダーやアンテナを内部に収容し、極度に凹凸が少ない形だ。このため、レーダー上では漁船程度の大きさにしか映らないという。

 また最新機器を備えながらも、従来艦の半数程度の乗員で運行が可能だ。

 主力のパワーはガスタービン発電による電力。スクリューを回し、「レールガン」と呼ばれる新兵器にも使う。電磁気を利用して物体を高速発射する海軍で開発中の兵器で、マッハ7の速度で約180キロ先の標的を狙えるという。

早速“救助”活動

 一方で問題は、44億ドル(約5300億円)以上という巨額の建造費だ。このため32隻だった当初見込みの建造数が、3隻にまで減らされた。軍事専門家からは「技術展示プロジェクトのようだ」と厳しい指摘もある。さらに特異な形状から、荒天時の安定性を不安視する声も出ている。

 ズムワルトは海上でさまざまなテストを実施しているが、メーン州沖で航海中に思いがけない一般乗船者が現れた。近くで操業中の漁船で男性乗組員が急病になり、通報を受けたズムワルトが小型ボートで救助。男性は、デッキから病院へヘリコプターで運ばれたという。

 ズムワルトは来年、海軍に引き渡される。同型艦2隻は2018年末までに、順次完成の見込みだ。


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アル中の父親を許し介護した15年間

2015-12-21 07:22:29 | 日記

http://voicee.jp/201310197004

 

アル中の父から虐待されて

「何べん言うたら、分かるんや!」

父はそう怒鳴ると、まだ小学生だった私の髪の毛をつかんで引きずり、さらに、背中を拳でなぐりつけました。
父が決めた門限は5時。
少しでも遅れると、父はこうして私を厳しく折檻しました。

母は、私が4歳のころに亡くなり、兄と私は四国の祖母のところに預けられました。
しかし、祖母とそりが合わなかった私は、小学校5年生のときに、大阪の父のもとで暮らすようになったのです。
自ら望んだ父との生活。


けれども、大阪に行って私が見たものは、酒に溺れる変わり果てた父の姿でした。
父は、お酒を飲んでは、毎晩のように私に暴力をふるいました。

 


抵抗できない私は、アルコール臭漂う狭くて暗い長屋の一室で、まるで人形のように、ただ、ただ、父の暴力がおさまるのを、待つことしかできませんでした。

学校に通う以外は、どこにも行くことを許されなかった私は、中学生になると、父への逆襲を始めます。
夜は暴走族仲間と遊びまわり、クラスメイトの家に何日も泊めてもらったこともありました。
ある日、酔って私を連れ戻しに来た父に、私は初めてやり返します。


私を殴ろうとした父の手を振り払い、足を蹴り飛ばすと、父は、あっけなくも尻もちをつきました。
このとき私は、心のなかで無様な父を嘲笑い、父の束縛の鎖を断ち切れた喜びに、戦慄さえ覚えていたのです。
父は、酒のせいで職を転々とし、収入は不安定。

 


私は、せっかく通い始めた専門学校も中退を余儀なくされて、ホステスをしてお金を稼ぐようになりました。

「体がきつい。働きたくない……」と、ゴネる父に、私は冷たく言い放ちます。
「働かないで食ってけるほど、世の中、甘くはないねん!」

介護の始まり

1996年、私が24歳のときに、事件は起こります。
泥酔した父が、仕事帰りに自転車ごと溝に落ち、頸椎を損傷して、言語障害と歩行障害に陥ったのです。
奇跡的に、狭い長屋のなかを這って動けるまでには回復しましたが、父は職を失い、介護が必要となったのです。
結婚して名古屋に暮らす兄には、経済的援助はともかくとして、日々の介護までは頼れません。
父の家の近くに住む私が、面倒を見る以外に選択肢はありませんでした。

「いったいどこまで、あたしを苦しめたら、気がすむんや!」

私は、憤りと失望とで、奈落の底に突き落とされたような絶望感に襲われました。
しかし、さすがに何もできない父を放っておくことはできません。やむなく私は、父の長屋に毎日通い、掃除、洗濯、食事づくりなどを、たった一人でこなしていったのです。

「お父さん、ちゃんと毎日、歯磨きしてな」
「口うるさいな! もう、来んでええ! お父ちゃん、自分のことは自分でできるわ!」

父は、些細なことですぐに激怒します。
幼いころからの恨みつらみもあって、私は父の介護が嫌で嫌でたまりませんでした。

「もう、限界や……。早くこの苦しみから解放されたい!」

何度、そう思ったことでしょう。
唯一の救いは、幸福の科学の信者のみなさんの励ましでした。
20歳のときにアルバイトを始めた居酒屋の店長Aさんの勧めで、私は幸福の科学の信者になっていたのです。
あれはAさんに連れられて、初めて支部に行ったときのこと。
面談していた支部長の胸のペンダントから、泡のような光が生まれているのが見えました。

「あ、これ? 『正心宝(しょうしんほう)』いうねん。さわってみる?」

勧められるままにさわると、ビビビビーっと衝撃が走り、一瞬、意識が飛びました。
子供のころから、酒を飲んだ父の背後に黒い影が見えるなど、不思議な体験を数多くしていた私でしたが、幸福の科学の本には、その意味がはっきりと書かれていました。
そして、書籍を読み進めるほどに、教えの素晴らしさを確信して、私は入信を決めたのです。

Aさん夫妻は、私を家族同然にかわいがってくれ、いつも人生相談にのってくれました。
父のことも、「苦難・困難は、魂を磨いてくれる砥石なんや。だから頑張りや」と、勇気づけてくれました。

また、大阪正心館のある講師は、「介護は、一生涯は続かない。修行がすんだら、ある日突然、『はい、おしまい』ってなるんや」、そう教えてくれました。
私は、「とりあえず、今日一日を生き抜こう。そしたら、また明日一日、頑張ってみよう」と、自分を励ましていきました。

募る憎しみ

介護を始めて3年ほどがたった1999年。
私は、居酒屋のかつてのアルバイト仲間Iさんと、結婚することになりました。
彼もまた、Aさんの導きで、幸福の科学の信者となっていました。
けれど、彼との新しい生活に胸躍らせながらも、私の心は晴れません。
あのうす暗い長屋に独りで暮らす父を、彼の両親に紹介するという関門を通過しなくてはならなかったからです。

私は精一杯見栄を張って、高級料亭に場を設けました。
そして、車椅子に乗せて父を連れていき、彼の両親に紹介しました。
父は事故以来、アルコールは一滴も飲んではいませんでしたが、「小脳変性症」という脳が委縮していく病に侵され、肢体の麻痺や震えは一生治らないと言われていました。
震える手で懐石料理をこぼし、ろれつの回らない舌で、「酒の飲み過ぎでこんな体になってしまって……」などと饒舌に話す父。
ずっとアル中の父を恥ずかしいと思い続けてきましたが、私はこのときほど父を憎いと思ったことはありませんでした。

あんたなんか、死ねばいいんや!

結婚後も、父の介護は続きます。


2003年に最初の子供をみごもってからも、私は重い体を引きずって、父の長屋へと通いました。
父は、食べ物をこぼしては服につけ、そのまま家中を這って移動するので、床は汚れて異臭を放ち、入浴を嫌がる父の体からは悪臭が……。


つわりに苦しむ私には、まさに地獄の責め苦そのものでした。
ようやく妊娠6カ月のころ、兄のはからいで、ヘルパーさんが来てくれることになりました。

「もっと早く手続きしてたら……。この世の知恵も大切やなぁ……」

週に何度か来てくれるヘルパーさんは、掃除や買い物まで請け負ってくれ、当時の私には、まるで天使のように見えました。

ところが―――。

「お父さんが、鍵をかけて入れてくれないんです! すぐに来てください!」

買い物に行っている間に父に閉め出され、困り果てたヘルパーさんからの電話です。
もともと人嫌いで対人関係が苦手な父。


とくにここ数年は、私以外と接することもなかった父にとって、赤の他人が家に入ること自体、かなりのストレスだったにちがいありません。

「誰がヘルパーを雇えって言うた! おまえ、お父さんの面倒みるの嫌やからヘルパーなんか雇ったんやろ! ヘルパーなんかいらん! ほっといてくれ! もうお父さん、 死にたいんや! 殺してくれ!」

その日は、いつになく疲れていた私。
父の暴言に、突然、心のなかで何かが切れました。


そして、次の瞬間、私は、台所から包丁を持ち出して、父に突きつけて、言ったのです。

「あんたなんか……。あんたなんか、死ねばいいんや! 私は犯罪者になるのは嫌や。 だから、今すぐこれで、自分の喉を切れっ!」

いつもと様子の違う私に、さすがの父も、たじろんでいます。
私は、涙と震えが止まらず、腹の底から真っ黒な怒りがワーッとこみあげてくるのを抑えることができません。

「憎い! この人が憎い!」

介護で追いつめられ、身内を殺してしまう人の気持ちが、このとき、はっきりと分かりました。

「お前はよく頑張った。こいつがいる限り、お前は決して幸せにはなれない。そうだ、ひと思いに殺してしまえ!」

そうささやく声が、耳元で聞こえます。


その後、なんとか正気に戻り、私はフラフラと家に帰って、ベッドに倒れ込みました。
帰宅した主人が異常を察して、何も言わずに夕食をつくってくれました。


けれど、愛情いっぱいの家庭に育ち、両親は大切にするものだと自然に思える主人には、すべてを話すことはためらわれました。
数日後、私は、以前から評判を聞いていた「両親に対する反省と感謝の研修」を受けるために、琵琶湖正心館へと向かったのです。

介護は、愛を学ぶ修行

「思い出しては父の恩 山より高くそそり立つ 思い出しては母の恩 海より深く包み込む」

私は、研修のなかで講師があげる「大悲(だいひ)・父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」に、耳を傾けていました。
けれど、礼拝堂で瞑想をしても、父への憎しみは募るばかりです。


そればかりか、父のことを考えると、頭が割れるように痛み、吐き気さえもよおします。
私は、心晴れないまま、帰宅することになりました。
そして、事件から2週間。


私は父の家には1度も行かずに、ずっと部屋にこもりっきりになっていました。
すると、1本の電話が―――。
支部で、いつも相談に乗ってくれるMさんからでした。

「最近、支部で見ないから、どうしてるかと思ってね。もうすぐ、生まれるんやろ? 」

Mさんの穏やかな声を聞くやいなや、私は、せきを切ったように泣き出しました。

「何か胸さわぎがしたんや! 今すぐ迎えに行くから、待ってるんよ!」

私は、Mさんの家で、苦しい胸の内をすべて吐き出しました。
ご自身も母親の介護と看取りを経験していたMさんは、私の話に黙って耳を傾けてくれ、優しく私の肩を抱いて言いました。

「お父さんに感謝できないんやったら、 無理に感謝しなくてもいいんやない? 私も、母が生きている間は、なかなか感謝できなかった。それこそ『殺せ~!』とかもあったわ」

Mさんの言葉に、張り詰めていた心が、フッと楽になり、光が差し込んできました。

「あなたの小さい頃の話を聞いて、とても気の毒だとは思う。でもね、きっとあなたは天上界で約束して、今のお父さんを選んで生まれてきたと思うの。お互いの魂を磨き合うためにね。喧嘩しながらゴリゴリ磨き合う親子だっていいじゃない。それでも親子は親子。それに介護ってね、愛を学ぶための修行なの」

 

それまで私は、「きっと私は、過去世で父に悪いことをしたから、今世、父に酷い目にあわされているんだ」と、思っていました。
けれども、このときから私は、「介護も尊い修行」と覚悟を決め、前向きに、介護と向き合っていこうと思えるようになったのです。

初めて過ごす穏やかな時間

その翌日、私は久しぶりに父のところに行きました。
父は、電気もつけず、真っ暗な部屋で、テレビを見ていました。
私はテレビを消すと、言いました。

「どんなん喧嘩しても、親子は親子や。あんたを最後まで看るのは……あたしやで!」
「お、お父さんには、おまえしか頼れるもんは……おらんのや……」

父が言い終える前に、私は黙って立ち上がり、いつものように食事をつくり始めました。

再びテレビを見始める父。
その頬に、光るものが流れるのを、私は見逃しませんでした。
その晩、主人にその話をしました。

「それは良かったなぁ。でも、前から思ってたんやけど、おまえ、お父ちゃんに対して、言葉きついよな。俺、聞いてて、痛かったもん」
「……え? そうなん?」
「感情を、そのままぶつけるんじゃなしに、普通でええやん。俺や、友達にしゃべるみたいに」

私は、ハッとしました。
父も私も、互いにいつも喧嘩ごしで、顔を合わせば言い争いになり、それが当たり前になっていたのです。
翌日、父の家に行くと、私は玄関の前で、幸福の科学のお祈りのひとつである「守護・指導霊への祈り」をあげて、「どうか今日はきつい言葉が出ませんように……」と、お祈りをしてから家のなかに入りました。

「なぁ、お父さん。今日は天気いいし、お風呂入ってみる? わかしたろか?」
「……。そやな。わかしてくれ」

いつもお風呂を嫌がる父。
今までなら、ここで言い争うか、お互いにだんまりを決め込むかの、どちらかでしたが、この日は、父とは一度も喧嘩することなく、初めて、穏やかな時間を過ごすことができたのです。

思い出した、父の恩

2004四年の春、長男が生まれました。
すくすくと成長する長男の存在は、父と私の距離をさらに縮めてくれました。
長男は、父のことが大好きで、いつも、「ママ、じぃじんとこ、行こ」とせがみます。


その日も彼に促され、父のところへ行くと、父は嬉しそうに、その姿を目で追っていました。


仲良く並んでご飯を食べる2人。
ふと、私は、父に訊いてみたくなりました。

「ねえ、小さいときのあたしって、あっくん(長男)みたいやった?」 
「ケッ! お前はそんなに賢い子やなかった。言うこと聞かんかったし」
「……もう、ええわ! あっくん、帰ろ!」

私は少しムッとして、帰り仕度を始めました。すると父が、ポツリと言いました。

「お前はよく泣いた……。あんまり泣くから、お前を抱いて、お母さんとお父さんは、よく夜中の散歩に行ったもんや。お母さんはほんとうに素晴らしい人やった……」

私はとても驚きました。
父はそれまで一度も、死んだ母のことを話してくれたことはなかったからです。
母のことを、とてもとても愛していた父。


最愛の母を失い、子供たちも手放して、寂しさのあまりお酒を飲むようになった父……。
私は、複雑な気持ちになっていました。

父の家をあとにして、支部へと向かう車中。
長男は助手席で、寝息を立てて寝ています。
突然、「大悲・父母恩重経」の経文が、私の心に響いてきました。

「思い出しては 父の恩……」

そして次の瞬間、まぶたの裏に、ある光景が浮かんできました。
そう、それは四国の祖母の家の前の、海沿いの国道にあるバス停でした。
夕暮れ時。
太平洋に沈んでいく真っ赤な夕日が、私と、私の横に座る兄の顔を照らしています。
幼い私たちは、何かを心待ちにしています。
やがて一台のバスがやってきました。


バスから降りてきたのは……。
バスから降りてきたのは、満面の笑顔で、両手いっぱいにお土産を持った、若き日の父でした。
兄と私は、父に駆け寄り、飛びつきます。


父は私を抱き上げ、肩に乗せました。
懐かしい父のぬくもり……。

「お父さん!」

熱い涙が、あとからあとから溢れました。
長男を起こさぬよう、私は声を殺して、いつまでも、泣き続けました。

「そうだ、そうだった……。あの頃の私は……。あの頃の私は、お父さんが大好きだった!!」

この日を境に、私は父に対して、いっさい怒りを覚えることがなくなったのです。

ある決意

2007年、夏。
父は、血尿を出して、入院しました。
病名ははっきりしませんでしたが、カテーテルを挿入され、尿袋をつけられた父は、医師や看護師にも、「さわるな! ボケ!」などと暴言を吐いて大暴れしました。
そのたびに、私が呼び出されます。


甘いもの好きの父のために、おはぎを差し入れすると、父は、ただ、ガツガツと食べ尽くします。
食べて寝て、排泄するだけの父。


「それでも、お前は、父を愛せるか?」――毎日、そう問われているようでした。
けれど、私は、どんな姿の父を見ても、もはや腹を立てることはなくなり、ごく自然に父に優しくしてあげようと思えるのでした。
人を許すということは、こんなにも幸福なものなのだということが、しみじみとわかりました。

そして、私は、あることを決意しました。
それまで私は、こんなにも娘を苦しめた父は、死後、地獄に堕ちて反省し、犯した罪を自ら償うべきだと、ずっと思っていました。
けれども、その考えは変わりました。

「私は……。地獄で苦しむ父ではなく、素晴らしい父の姿が見たい! あの世の天国で、母と再会し、二人で幸福に暮らしてほしい!」

私は、父に幸福の科学に入会をしてもらおうと、心に決めたのです。

「もういっぺん、言うてくれ!」

しかし、父が入院する病院から支部までは、車で40分以上。
カテーテルをつけ、歩くこともできない父を連れて行くのは困難でした。
私は、支部で祈願を受けました。

「父のことはすべて主エル・カンターレに委ねます。けれど、主よ……。父のように苦しむすべての人を、どうか、どうか、お救いください……」

きれいごとでも、かっこつけでもなく、私は、初めて心からそう願って、祈願を受けました。
すると、祈願式典終了後、病院から電話があり、父を詳しく検査するために、明日、別の病院に転院させると言うのです。
驚きでした。
しかも、その病院は、なんと、支部から徒歩10分のところの病院でした。
意外にも父は、支部へ行くことを、あっさりと承諾してくれました。

「はじめまして。私はここの支部の支部長をしているものです」
「はぁ……。いつも娘がお世話になっています」

父は深々と頭を下げました。
一暴れするかと覚悟していましたが、あにはからんや、父は、素直に支部長の話を聴いています。
思えば、ここまでくるのに、長い長い歳月を要しました。


込みあげてくる思いに、涙をこらえることができません。
私は、つつがなく、幸福の科学に入会をした父の横に座り、言いました。

「お父さん……。これだけは、聞いてほしい」

父は、じっとエル・カンターレ像を見つめています。

「私が信じる神様は、主エル・カンターレやねん。もし、つらくて、悲しくて、寂しくて、どうしようもなくなったら、主に祈り、主に許しを請うんよ……」

父の目から、大粒の涙が溢れています。
父は、エル・カンターレ像に手を合わせ、言いました。

「もういっぺん、言うてくれ!」

私は、泣き崩れそうになるのをこらえながら、もう一度父に言いました。

「あんたの娘が信じ、あんたを護ってくれる神様は、主エル・カンターレや!」

父と私の最後の一頁

幸福の科学に入会した父は、うそのように穏やかになりました。
2009年の春には、またも祈願によって道が拓かれ、父は、すべてが理想的に整った施設で暮らせるようになったのです。
そして、2010年2月。
長女が生まれました。

「もしもし、お父さん? 生まれたで。お父さんの言ったとおり、女の子や」

父は、生まれる前から、ずっと女の子だと言っていました。夢に出てきたと言うのです。
長女の誕生を、誰よりも喜んでくれた父。


しかし、彼女がヨチヨチ歩きを始めるころから、父は、車椅子にも乗れなくなり、一日中、介護ベッドの上で過ごすようになりました。

介護を始めて、15年―――。
父は、何不自由ない施設に暮らしています。
それでも私は、父のもとへと通い続けました。


以前は、吐き気を催しそうだった排泄物の処理も、もはや私の日常となり、父が私の手のひらに、おはぎのカスがいっぱいついた入れ歯を吐き出すと、私はそれを、歯ブラシできれいに磨いてあげます。


父のオムツを換えるのも、床ずれの手当てをするのも、すっかり手慣れたものです。
そして、孫たちを見つめる父の笑顔は、まるで天使のようでした。
2011年1月。
私は、再び祈願を受けました。

「どうか、娘が父のことを覚えていられる歳になるまで、父を生かしてください」

 

 

そのわずか数週間後の2月3日。
午前時30分。
父は静かに逝きました。
享年、75歳。
あまりにも突然のことでした。

ねえ、お父さん。
ただ、ただ、良くしてあげたい。
これからもずっと世話をしてあげたいと、やっと、心からそう思えるようになったのに……。
もっと生きてほしいと祈願したのに……。
なのに、どうして……?
ねえ、お父さん、どうして逝っちゃったの?

 

私は、講師の言葉を思い出しました。

「介護は、一生涯は続かない。修行がすんだら、ある日突然、『はい、おしまい』ってなるんや」

こうして、私の15年間にわたる父の介護の日々は、静かに幕を閉じました。
お父さん。
もう、お父さんの気配を感じない。
だから、きっと、もう、天国に還っているんだね。
お父さん、ありがとう。
お父さんからもらった宝物を胸に、私は、これからの人生、輝きに満ちて生きていきます。


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