野坂昭如ってどんな人? 死後21時間で大川総裁に霊言を要求
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『火垂るの墓』で直木賞を受賞した作家の野坂昭如氏が9日、心不全のため85歳で死去した。
本業以外にも、政治家やタレントなどマルチな活動をしていた野坂氏は、死後わずか21時間で大川隆法・幸福の科学総裁のもとを訪れた。大川総裁は、野坂氏の迷いを明らかにし、あの世へと引導を渡すために、霊言を収録した。
戦争中に少年時代を過ごした「焼け跡世代」を代表する野坂氏とは、どんな人物だったのか。
◎実体験をもとに『火垂るの墓』を執筆 反戦を訴える
野坂氏は、世界が戦争に向かっていた1930年に生まれた。生後まもなく実母が亡くなり、養子に出された神戸で空襲に遭った。養父母を失い、妹とともに戦災孤児となったが、妹も栄養失調で衰弱死。野坂氏はのちにこの体験を『火垂るの墓』として著した。
ジブリの映画にもなった同作品について野坂氏は、「もっと妹を可愛がってやれば良かった」という贖罪の思いを込めて執筆したことを後に明かした。当時、妹に食べさせるはずの食糧も自分が食べてしまったことや、妹の夜泣きを止めるために頭を殴ってしまったことなどを悔やんでいたようだ。
◎作家、作詞家、歌手、タレントなどマルチに活躍
野坂氏は1963年に、庶民の色欲を赤裸々に描いた小説『エロ事師たち』で作家デビュー。1967年には、小説『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞を受賞。音楽面でも活躍し、作詞した童謡「おもちゃのチャチャチャ」は日本レコード大賞童謡賞にも輝いた。その他にも歌手やタレントとして幅広く活動し、政界デビューも果たした。
◎「景山さんのように無垢な心を持てればよかった」
野坂氏は1991年に、小説家で幸福の科学の信者だった景山民夫氏と対談し、次のように語っていた。(「週刊朝日」1991年9月27日号、10月14日号より)
「僕は霊がないと思う立場。でも、僕自身は戦災を受けていて、一歳四ヵ月の妹が飢え死にしたのを見ているから、その妹が霊になって安らかに生きていればいいというふうには思いますよ」
「(『野坂さんも天上界に還れる』と説得する景山氏に対して)大きなお世話。霊を認めることで自分を納得させようとは思わない。僕は罪深い者です」「別に(地獄に)落っこったって全然構わない。あえていえば、救われることは罪ですよ」
野坂氏は、景山氏との対談終了後に次のように述べた。
「景山さんのように、純粋、無垢な心を持てればよかったなあと、ぼんやり考えている」「ぼくが霊を信じないのは、(戦争で)あまりにも悲業の死、ムダ死にを身近にしたせいかもしれない。
本来なら、供養して、せめてあの世では安らかにと願うところだが、それはどうも調子よ過ぎるように思えるし、即物的にいうと、どうして、『出て』こないのかとも考える」
こうした発言からは、霊や神仏、霊界の存在を信じたいけれども信じられない、野坂氏の「葛藤」が感じ取れる。
◎迷える言論人をも救うのが宗教の使命
大酒飲みであったり、退廃的な作品を世に出したという面もあるが、作詞した童謡「おもちゃのチャチャチャ」の歌詞からも分かるように、純粋な心も持っていた野坂氏。
死後21時間で収録された霊言では、野坂氏が弱者救済や貧・病・争の解決など、宗教的な使命感に近いものを持っていたことがうかがえる。しかし、幸福の科学に対して嫉妬していたことや、戦争の捉え方で迷っていることも明らかになった。
生前、霊の存在を信じていなかった野坂氏が、死後、霊言を証明する側に回ったことは何とも皮肉だ。新聞やテレビで取り上げられるような有名人も、霊的真実を知っているとは限らないことを改めて考えさせられる内容となった。(真)
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