がんと闘いゴルフの生涯現役を続けた50年
杉原輝雄
小学校5年のころ、自宅近くの茨木CCでキャディのアルバイトを
始めたのが、プロへの道をめざし、18歳で研修生となり1957年、
20歳でプロテスト合格。
62年の『日本オープン』で陳清波、橘田規に競り勝って
初優勝を飾っている。
小さな体で飛距離も出なかったが、“マムシ”の異名通り決して
あきらめない、ゴルフで勝利を重ね『関西オープン』と『関西プロ』は
各9勝。早くから長尺ドライバーやツーピースボールを採り入れる
などして、体格のハンディを克服に工夫をこらし『大京オープン』で
ツアー通算28勝目を飾った。
84年に創設された選手会、初代会長を務めるなど、ツアーの発展に
も大きく寄与、約50年に渡って、現役を続行してきた存在感の
大きさから、日本プロゴルフ界のドンと呼ばれた。
永久シード権獲得者であるが。ツアー施行後はいわゆる「AON時代」
(青木、尾崎、中島常幸の3人の頭文字を取った呼称)に突入して
いたため、優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司・青木功に
次ぐ歴代3位だが、レギュラーツアーにおいて賞金王(賞金ランキング1位)
を獲得したことがないなかで、 97年末には前立腺がんの宣告を受けたが、
手術は受けず、ホルモン注射や投薬で抑えながら、プレーを続けた。
06年の『つるやオープン』では68歳の最年長予選通過記録を樹立し、
10年の『中日クラウンズ』では同一大会51回連続出場を達成。
アーノルド・パーマーが『マスターズ』で記録していた50回連続を
塗り替える世界新記録となった。
杉原さん独特のスイングフォームで、生涯現役と言いながら、
病気(癌)と闘いながら、続けたゴルフ人生、もうこの辺で楽になり、
天国でゴルフ三昧楽しんでください。
往年のファンとしては、心からご冥福をお祈り致します。合掌
杉原輝雄
小学校5年のころ、自宅近くの茨木CCでキャディのアルバイトを
始めたのが、プロへの道をめざし、18歳で研修生となり1957年、
20歳でプロテスト合格。
62年の『日本オープン』で陳清波、橘田規に競り勝って
初優勝を飾っている。
小さな体で飛距離も出なかったが、“マムシ”の異名通り決して
あきらめない、ゴルフで勝利を重ね『関西オープン』と『関西プロ』は
各9勝。早くから長尺ドライバーやツーピースボールを採り入れる
などして、体格のハンディを克服に工夫をこらし『大京オープン』で
ツアー通算28勝目を飾った。
84年に創設された選手会、初代会長を務めるなど、ツアーの発展に
も大きく寄与、約50年に渡って、現役を続行してきた存在感の
大きさから、日本プロゴルフ界のドンと呼ばれた。
永久シード権獲得者であるが。ツアー施行後はいわゆる「AON時代」
(青木、尾崎、中島常幸の3人の頭文字を取った呼称)に突入して
いたため、優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司・青木功に
次ぐ歴代3位だが、レギュラーツアーにおいて賞金王(賞金ランキング1位)
を獲得したことがないなかで、 97年末には前立腺がんの宣告を受けたが、
手術は受けず、ホルモン注射や投薬で抑えながら、プレーを続けた。
06年の『つるやオープン』では68歳の最年長予選通過記録を樹立し、
10年の『中日クラウンズ』では同一大会51回連続出場を達成。
アーノルド・パーマーが『マスターズ』で記録していた50回連続を
塗り替える世界新記録となった。
杉原さん独特のスイングフォームで、生涯現役と言いながら、
病気(癌)と闘いながら、続けたゴルフ人生、もうこの辺で楽になり、
天国でゴルフ三昧楽しんでください。
往年のファンとしては、心からご冥福をお祈り致します。合掌