阪急の監督の印象が強い
西本幸雄氏
名監督としてプロ野球界の球史に残る元阪急・近鉄で多くの
ドラマを演じた西本幸雄氏、心不全により91歳の生涯を終えられた。
旧制和歌山中(現桐蔭高)から立教へ進み、35年に大毎監督に就任
1年目でリーグ優勝、38年に阪急ブレーブスの監督に就任42年の
優勝から、阪急時代5度のリーグ優勝を成し遂げ常勝チームに育て
挙げ、49年から近鉄に移り、54・55年と連続優勝さながら、
惜しまれてユニホームを脱ぐ事になった、監督時代8度の
日本シリーズに挑みながら、日本一になれなかったことが、
「悲運の闘将」と呼ばれる事となった。
特に、近鉄時代の54年今も語り継がれる、あの「江夏の21球」
で敗れ、日本一になれなかった「生涯の悔しさ」時の監督の心中、
何人も理解する事は出来ないだろう。
63年には野球殿堂入り、そのご評論家として活躍されていたが、
監督の悲報を知り、えぇ、
球界では訃報を聞き、悼む声が相次いだ、王貞治氏は「パリーグ
の発展の礎を築かれた」上田利治氏は「野球に対する情熱は
すごかった」江夏の21球の折の監督だった古葉竹識氏は
「西本氏が目標だった」野村克也氏「西本氏に日本一を
とってほしかった」など語りながら,西本氏の訃報に接し、
多くの関係者の声が語られた。
この悲報を聞いたフアンは、監督は91歳にもなられていたのかと、
思った人も多かった事だろう。
もう二度と、あの監督・西本氏の頑固でありながら温厚な勇姿を、
見る事はできないが、
ただ、突然の訃報、西本幸雄氏のご冥福をお祈りします。
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江夏 豊
今も語られる。球史に残る奇跡「江夏の21球」とは
54年の日本シリーズは最初、近鉄が優勢だった。どうしても
日本一の座にすわれない、悲運の闘将・西本幸雄監督の夢が、
このシリーズ日本一の夢が、実現するかと思われたが、広島が
もり返し、3勝3敗ともつれこみ、最終戦を迎えた。
昭和54年11月4日、大阪球場で行われた。広島カープは1回、
3回に各1点、そして6回に水沼四郎の2ランが出て優位にたった。
しかし近鉄バッファローズも粘った。5回裏に平野光泰の2ラン、
6回に1点を追加して1点差とし、俄然(がぜん)試合はもり
あがってきた。7回裏、ワンアウト、ランナー1塁で
福士明夫投手をリリーフした江夏は、7回、8回と簡単に
近鉄打線を抑え、いよいよ9回裏に入った。
江夏の調子からみて、よほどのことがないかぎり、4-3で
広島の逃げきりムードが漂いはじめた。9回裏、近鉄最後の攻撃、
バッターボックスには6番打者の羽田耕一が入った。
西本監督がとくに目をかけ、中心打者に育てたがムラッ気があり、
もうひとつ確実性がないが、ここは1点差を追う近鉄、普通なら
第一打者は、なんとかねばって四球でもいいから出塁しようと
するもので。ここで打者は慎重に攻めようという気になるはず
だと江夏は思った。ファースト・ストライクを打つわけがない、
おどろいたことに、羽田は第1球を打ってきた。
外角の直球をみごとにジャストミートし、ボールはライナーと
なってセンター前に飛んだ。
江夏の緻密な頭脳が猛烈な勢いで動きはじめる前、出会いがしらに
ガツンと打たれたような感じである。そして、 羽田に代わって、
代走は藤瀬史朗である。打者はアーノルド、江夏は、ランナーは
二の次、アーノルドだけに気持ちを集中させようと、自分に言い
きかせた。第1球は外角高目のシュートでボール。第2球は
内角高目の直球でボール。第3球は内角ベルトのあたりの直球で
ストライク。カウント1-2。第4球目のボールは、外角低目の
直球がはずれてボール。このとき1塁にいた藤瀬が猛然と二盗を
敢行した、単独スチールに見えたが、実はヒット・エンド・ラン
だったのを、アーノルドがサインを見落としたのである。
これに慌てた水沼捕手の送球は、ワンバウンドしてセンターに
抜け、駿足の藤瀬はやすやすと3塁まで進んだ。
これで、無死3塁。近鉄にとっては願ってもないチャンスとなった。
アーノルドのカウントは1-3。江夏は外野フライを警戒して、
5球目は内角低目にカーブを投げたがボールとなり、1塁に
歩かせた。代走に吹石徳一が起用された。足の速い選手を使って、
心理的に圧迫を加えようとしていた西本監督。
三人目の打席に平野光泰が入った。平野はこの試合、5回に
ホームランを放ち、気をよくしている。気分屋の平野が調子に
のると怖い。平野への3球目を投げボールになった時、一塁走者の
吹石は二盗に成功した、こうなれば満塁策しかない。
平野は敬遠のフォアボールで1塁に歩いて、これで近鉄は
ノーアウト満塁、押せ押せムード。
広島絶体絶命のピンチを迎えたのである。
9回裏、広島は1点リードしているとはいえ、打倒江夏に、
とっておきの、前年の首位打者、代打に近鉄の佐々木恭介が
ボックスに入った。
江夏はこの佐々木に対して、内角外角と低目でかわした、
第3球目は,真ん中低目のフォーク。佐々木のバットは
鋭くとらえた。打球は快音を発して3塁線を痛烈にゴロで
抜いたかと思われたが、わずかにラインの左にそれた。
もう30センチばかり内側を抜けていたら、サヨナラ2塁打で
あったが、最後に江夏は、慢心ヒザ元へ鋭く曲がる
カーブであえなく三振。
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後日談で江夏 豊は「あのコースの球を引っぱると絶対ヒットに
ならないんや、ボテボテの内野ゴロか、いい当りをしても
ファウルになる球筋なんや」という自信満々のボールだった。
だから、佐々木のバットは快音を発したが、これはファウルだ、
と確信して打球の行方すら追わなかったと言ってのけたそして。
無死満塁も、かくして一死満塁。
打席には石渡茂。広島バッテリーはスクイズを警戒していた。
カウント1-0からの2球目、早く追い込みたい、バッテリーが
選択したのはカーブ、セットポジションから江夏が右足を
上げた瞬間、三塁ランナー藤瀬が絶好のスタートを切る
スクイズだ。「打者を目で追いながら、三塁ランナーの気配を
感じていた。スタートを切ったのが視界に入ったから、カーブの
握りのままウエストした」江夏の9回裏に投じた19球目は、
ウエストボールとしては中途半端な高さであったが、カーブと
いう球種が幸いし、石渡のバットにかすりもしなかった、
三塁ランナーはホームベースを前にして憤死。二死となり、
江夏は21球目も内角に鋭く曲がるカーブで石渡を三振に斬って
取った。広島が初めて日本一に輝いた瞬間だった。
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無死満塁で無得点…。
近鉄にしてみれば、ほんの10分間で天国から地獄へ突き落とされた
ような最悪の結果となった。
この奇跡のような21球は、天才的な『洞察力』と『天候のいたずら』が
成した賜物であった。
これがあの9回表の攻防「江夏の21球」の真実だ。