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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演7)

2012年12月03日 | 日記



     ひまわりさんより(12月4日)

エゼキエル書14章14節には「たといそこにノア、ダニエル、ヨブの3人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみである、と主なる神は言われる」とあります。新改訳聖書ではここは、「彼らは自分たちの義によって自分たちの命を救いだすだけだ」となっています。この聖句も、意味が良くわかりませんでした。今日デビット・カン先生のテープを聞いていて、この義というのは、天の至聖所でのイエス様のとりなしが止み、一時的に真の神の民が仲保者なしで生きていく、その時の姿だということを思いました。人が罪を犯し続ける間は、イエス様はとりなし続けられ、再臨されることができません。でもある時点で、イエス様はとりなしを終わられ、天の至聖所を出て、神の民を迎えるために再臨なさるのです。その時、神様の民は、イエス様からいただいた義、つまり、繰り返され、習慣となり、品性となった自分自身の義によって立つ者となっていなければならないのです。そのことを思うと、厳粛さで身が引き締まる思いです。「お言葉どおりこの身になりますように」と祈らずにおれません。

    失敗はあるが意図的な罪は犯さない(デビット・カン講演7)

ですからイエス様は、私を愛するなら、私の戒めを守りなさいと言われました。神様を愛するならば、神様の戒めを破ることはなくなります。不可能になるのです。
意図せずして失敗したり間違いを犯したりすることはあるでしょう。やるつもりではないわけです。何か急いでいて、誰かにぶつかったとします。やるつもりではないわけです。「あ、すみません」と言いますね。私も時には失敗します。そのつもりではないわけです。意図せずして、誰かを傷つけることもあります。そんなつもりはないんです。時には忙しすぎて、物を忘れることがあります。心がせわしくなって、誰かに対して失礼なことをすることがあります。神様は、そのような私たちの心の内を理解してくださいます。
しかし私たちは、愛する者に対して、意図的に罪を犯すことはなくなるのです。では完全とは何でしょう。神の戒めを守るということはどういうことでしょう。心をつくして神を愛することです。神様に心を捧げて、心をつくして神を愛するなら、神様の愛が私たちの心の中に注がれます。そして、他の人々をも愛することができるようになります。はじめに、神の愛が注がれるのです。そしたら、自然に私たちは相手を正しく扱うことができるようになりまし。接することができるようになります。これこそが、神の戒めを守るということです。