ひまわりさんより(12月9日)
前にも書いたと思いますが、聖書には、『主の日は、盗人が夜くるようにくる。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが望むように、突如として滅びが彼らをおそって来る』(1テサロニケ5:2,3など)と書かれています。でも、他の聖書の箇所では、イエス様が来られる前には、地震や災害、迫害などが起きるので(マタイ24章など)、盗人のようではないのになあと、小さい時から思っていました。しかし、この「盗人のように来る」というのは、再臨の事ではなく、恩恵期間の終了の事だということが分かりました。再臨の前に、私たちが、平和だ、無事だと思っている時に、突然恵みの扉が閉ざされるということが起きることなのです。このことは、10人の乙女のたとえ話で詳しく教えられていました。この、10人の乙女のたとえ話は、再臨の時の光景だと教えられてきましたが、花婿、花嫁と一緒に婚礼の席に入って行く乙女としての、私たちの立場やイエス様との関係がよく分かりませんでした。「サンライズ・ミニストリー」で出版している、『各時代の大争闘』を読んでいるうちに、10人の乙女のたとえ話で、この時の出来事は、婚宴(再臨)の事ではなくて、その前に、天でキリストが新エルサレムを受けられる婚姻(結婚式)の事で、そこに、私たち信徒は、信仰によって参加していなければならないということでした。「これらの人々は、天の聖所に関する真理と、救い主のご奉仕の変化とを認め、信仰によって、天の聖所における主の働きに従っていった。そして、聖書の証を通して同じ真理を受け入れ、キリストが仲保の最後の働きを行うために、またその最後にはみ国を受けるために、神の前に出られるとき、信仰によってこれに従う者が、婚姻の部屋に入る者としてあらわされているのである」(653頁)。イエス様が、1844年から、天の至聖所において、仲保の最後の働き(天の聖所の清め)をしておられる間に、地上で、聖霊様がなさる清めの働き(心の宮の清め)に協力していない人は、恵みの扉が閉ざされてしまうのです。神様が、どのようにして罪をこの地上から除かれるかということを教える聖所の働きをよく理解して、今、天でイエス様が至聖所で行っておられる最後の贖いの働きに、協力せずにはおれない思いが、日々、強まり、深まっていくことが、大切なのだと思います。
神の言葉は命(デビット・カン講演12)
神の言葉は、雨のようなものです。前の雨、先の雨とは何ですか。種が蒔かれるとき雨を必要とします。電気を必要とします。地に埋もれた種を起こすためには雷が必要です。雨が必要です。死んだような種が発芽して、重たい土とか雪を押しのけて、芽が出てきます。そこに命があります。力強い生命です。成長していきます。なぜですか。命があるからです。この本、神の言葉に命があります。神の種が私たちのうちにとどまるならば、私たちは罪を犯すことができないと、使徒ヨハネは言っています。