ひまわりさんより(12月29日)
ローマ2:4には、「神の慈愛があなたを悔改めに導くことを知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」とあります。私は、この悔改めということが分からなくて悩んでいた時期が長くありました。悔いるというと、「私はこんなことをやってきました」とか、「こんなにひどいものでした」と言って自分を嘆くことのように感じていて、一日中、「神様ごめんなさい。私は罪人です。私は本当にどうしようもないものでした」と言い続けていたこともありました。でも今では、悔い改めというのは、自分を支配してきた、闇の霊に従わないで、み言葉を優先して生きていくことで、そのような思いがどんどん強くなっていくことではないか、と思うようになってきました。悔改めというのは、そのような路線上にあるのではないか、と思っていますがどうなのでしょうか。
かつての私(デビット・カン講演2)
私はかつてはとても高慢な人間でした。何をやっても自分は一番になれると思っていたことがありました。家族の者から、また教会員、友人たちから、たくさん称賛されていました。教会では牧師として働いていましたので、学校等でもいろんな会議の議長とかに任命され、そういったいろんな責任を負わされていたわけです。そして、聖歌隊ではいつも指揮者に選ばれていました。何をやっても、人よりすぐれた人間として目立っていたわけです。必然的に私は、高慢な人間になっていきました。教会員が私のところに来て、「誰々先生の説教を聞いたことがありますか」、と尋ねられたことがありました。「素晴らしい説教をなさる方がいますよ」とかそういう話を聞くと、わたしは嫉妬の念にかられるわけです。いつも自分が一番になりたかったのです。