ひまわりさんより(12月10日)
イエス様は、「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て」なさい(マタイ16:24)と言われました。証の書でも、エレン・ホワイトは、「自我を屈服させることがキリストの教えの本質である」(各時代の希望中間333p)とか、「人は、最高の意味において、イエスを信じる者となることができる前に、自分自身をむなしくしなければならない。自我が放棄されるとき、主はその人を新しい人間にすることがおできになる」(同上巻358p)と言っておられます。自分を捨てていなければ、イエス様について行くことはできない、自我を放棄しなければ、新生を経験したのではないと言われています。ではこの自分を捨てる、自我を放棄するとは、どのようなことでしょうか。長年私は、このことを知りたいと思い、いろいろなことをやったり、やめたりしてきました。そして、今私が感じているのは、自我の本質、罪の根とでも言うべきものとは、『各時代の大争闘』にある、「自分の力で救われようとする心と、罪のままで救われようとする心」(下巻330p)の事ではないかと思います。人は、この二つの罪の性質を持っており、人によって、このどちらかが優勢なのですが、どちらも、神様の力によらない、自分を中心とした救いなのだと思います。律法を自分の力で守ろうとして、必死になる人と、どうせ律法は守れないんだから、ありのままでいいんだ、という人は、どちらも、全能の神様の力を知らない、信じていない人だと思います。私が過ごしてきた以前のSDAは、前者の傾向が強く、現在のSDAは後者の傾向が強いように思います。
麦と毒麦の違い(デビット・カン講演13)
ヨハネ第1の手紙1章10節を見てみましょう。「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである」。 多くの人はここを理解していません。「これによって」という言葉がありますね。この、「これ」とは何でしょう。「神の種がその人のうちにとどまっているなら罪を犯すことができない」、その経験を言っているんですね。このことによって、神の子と悪魔の区別が明らかになるというのです。
麦と毒麦、皆さんはどちらに属する者ですか? この経験によって、神の子と悪魔の子の区別が明らかにされるのです。
終末における、麦と毒麦の違いは何でしょうか。印された者と印されていない者です。神の子と、悪魔の子です。その2種類の人々が区別されます。生ける神の印を額に受けた者たちと、獣の刻印を受けた者たち、この経験において、人は区別されるようになります。その経験とは、罪を犯すことができなくなるという経験です。なぜなら、神の言葉が、彼らのうちにとどまり、生きているからです。