聖所における儀式の一つ一つは、イエス·キリストの生涯と働きを意味すると同時に、神様を信じる者たちの救いの経験と段階がどうあるべきかを説明してくれるのです。燔祭は悔い改めと新生の経験を実物教訓に示された犠牲制度です。罪を告白した罪人は、それで終わることはありません。燔祭は神様の指示どおりに犠牲の動物の皮を剥がすことになります。なぜそのように指示されたのでしょうか?それは悔い改めた人間が自分自身の聖や義に対して無価値であることを悟って、自己義認の服を脱いで、イエス·キリストの義の服を着るという願いを象徴するものです。自分の醜さとどうしようもなさを骨身にしみる感じを合わせた表現です。そして、腹、その中にあるすべての内臓を取り出し出すのです。そして、それらを水できれいに洗うことでした。それはまた、何を意味するものだったでしょうか?
罪を告白しましたが、心の中にまだ隠れている罪を探るために、自分の心を大きく開いて「神様!私の中に隠れた他の罪がないかどうか調べて下さい。私は神様に全ての心を捧げたいと思います。私の考えと思想が主に受け入れられることを願っています」と祈ることを象徴するものです。そして、中の内蔵と腸までもすべて水できれいに洗うのです。聖書でいう水は、聖霊と神様の御言葉を象徴します。ですから、悔い改めた罪人は、罪を告白して終わるのではなく、罪を一つ一つ告白した後、放棄して、捨て去り。出してしまっても、神の御言葉の中にある真理の御言葉に従って、誤った部分を是正し、改革することが必ず伴わなければならないのです。
形式的な悔い改めと簡単に過ぎ去る表面的な悔い改めではなく、実際に自分の心を内省し、罪を放棄し、間違った生活を真理に沿って変革する徹底した悔い改めを教える時にいけにえが燔祭として捧げられました。このような神の救いの青写真に照らして見る時、今日多くのクリスチャンの悔い改めがどれほど表面的でしょうか!もっとはっきり言えば、どれほどのように安っぽいでしょうか!今日のキリスト教会の真の問題は、ほとんどの教会の信者に真の新生の経験がないことにあります。私たちは、神に受け入れられる悔い改めをささべるべきです。