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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

サムエルの経験 デイビット・カン説教より 第2回

2016年10月05日 | 日記

現代のみ言葉の飢饉

今朝は皆さんに、サムエルの経験からお話しをしたいと思っております。今朝なぜサムエルの経験から分かっていただきたいかと申しますと、今現在、教会にみ言葉の飢饉が起こっているからなのです。私が今、言おうとしていることがお分かりになりますでしょうか?私たちは神様のみ言葉であふれていますね。すぐにみ言葉を開くことが出来るようになっています。すぐそばに聖書がありますよね。霊感の書もたくさんあります。もうたくさんの本が出ています。先駆者たちが書いた本も残っています。そのように、神様の言葉は私たちのまわりにはあふれています。にもかかわらず今教会は、み言葉の飢饉に苦しんでいるのです。なぜでしょうか?このようなことが、イスラエルの歴史においても繰り返し起きました。イスラエルの人たちも、聖書、神様のみ言葉を持っていました。多くの預言者も現れました。特にモーセの言葉は重要視されていたわけです。当時、サムエルの時代ですが、モーセの言葉が律法として重んじられていたわけです。当時の人たちにとっての預言の霊であったわけですね。それらが神様のみ心の解説をしてくれたわけです。そして神様の戒めの大切な点を解説してくれました。

神様はご自分の民を、真理の民に仕立てようとしておられました。真理が彼らの文化となるように計画しておられました。にもかかわらず、彼らはその神様の期待を大いに裏切ってしまったわけです。その結果、彼らは王様を求めるようになりました。神様を王とするのではなく、人間の王を立てたいと思ったわけです。

神政政治、神様の直接の統治を彼らは欲しくなかったのです。王政国家、王様によって統治される国家を彼らは求めました。つまり、世の中の制度を取り入れたいと、強く思ったわけです。世の中の成功、世の中の繁栄、そういったものに彼らは飢え渇いていました。そのような心の民と神様はどうやって交わることが出来るでしょうか?預言者を通してしか、おできになりませんでした。ですから、特にモーセの言葉を通してみ心を伝えようとされたのです。

しかしイスラエルの人たちは、それを求めなかったのですね。そういったモーセの言葉、神様からのメッセージを、何と言いますか、もてあましていたわけですね。自分たちの宗教経験においてもっと安易な、自由な立場を得たいと思ったわけです。神様のみ言葉によってがんじがらめになっている、自分たちは不自由な思いをさせられていると感じていました。どうしてだと思いますか?なぜなら彼らは、回心という経験にあずかっていなかったからでした。み言葉を自分たちの唯一の生きる道として、それを受け入れていなかったからです。