義の教師が教会にいない!?
こういったことが今私たちの教会でも起こっていないでしょうか?現在も忠実な、誠実な民が何人かいます。心の清い人たち、真心から真理を求めている人たちです。彼らが聖書、証の書を真剣に学んでいると声が聞こえてくるわけです。「自分や教会はこのままでいいのだろうか?」。しかしどうしたらいいのかよくわからないのです。それを正しく教えてくれる義の教師が教会に、身の回りにいないわけです。どうしたらよいのでしょう。他にすべがないので偉い先生の所に行くわけですね。経験豊富な牧師たちの所や、あるいは教師たち、長老たちの所に行きます。ところがそうすると、時にはその人は狂信的だと思われる時があります。時には「イエス様が間もなくお出でになる」ということを教会で語ったならば、そんなことで教会を騒がしてはいけないと言われてしまいます。神の民を脅かしていると・・・。
このサムエルの経験は、私たちが自分自身の経験にあてはめること出来るのです。ですから『コリント人への第一の手紙』第10章で、パウロはこの神様の言葉は「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」と、つまり、最後の時代のために書かれていると言ったのです。神様の言葉というのは鏡のようなものです。アブラハムの所を読みますと、そこに自分自身を見ることが出来ます。それから今現在の教会の状況も映し出されているのが分かります。ですから、イスラエルの歴史を読んでいきますと、自分自身と今の教会の姿が、映し出されているのが見えます。
日本の兄弟姉妹の皆さんに申し上げたいことがあります。この聖書というのは、私たちのために書かれたものです。特に今の世代のために、過去の世代の人たちのため以上に、特別に私たちのための書物なのです。なぜなら私たちはこの神様のみ言葉が、神様の預言が、結末を迎える時に住んでいるからです。そういう意味で私たちは、使徒パウロよりも、使徒ヨハネよりも、もっと私たちは聖書の真理を理解していると言えるのです。私たちが彼らより優れているという意味ではありません。私たちの知能指数が、彼らより高いという意味ではありません。ただ私たちは、積み重ねられた真理の光に浴しているからなのです。神様からの祝福がさらに大きいという意味です。
しかしながら、この私たちの世代というのは、弱い人たちの集まりでもありますね。ですからサムエルの歴史を見る時に、これも鏡のようなもので、私の経験が、教会の経験がそこに映し出されているのです。私たちが聖書を読む時に、その中に神様は、ご自身の姿と、私たち自分自身の状態を示して下さっているのです。聖書を見ると、そこに本当の神様の姿を垣間見る事が出来るようになります。聖書の至る所に神様の姿が映し出されています。