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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 114

2014年02月23日 | 日記

  

   福音の力を体験せよ 114

“キリストが我々のうちに働き、ご自身の義を着せてくださるので、真理によって清める聖霊の働きを通して、信徒は天国へ入るのに適した者となる。この聖化の過程なくして、誰も天国に入る資格を得ることはできない。我々は、聖霊の感化とキリストの義によって、聖なる雰囲気の中で暮らす資格を得ない限り、天国の喜びを享受することはできないであろう。”(1SM395 

“み国の無尽蔵の倉から、彼らの求めに応じて豊かに供給される。キリストは、ご自身の霊、すなわちご自身の生命の息吹を彼らにふきこまれる。聖霊が、その働きを遂行するために、その最高の活力を心と精神のうちに芽吹かせる。”(6T306) 

皆さん、神様はすべてのクリスチャンに対して、まさにその業をなさりたいと願っておられます。

  

⑧ 神様と共にあることを訓練しなさい

 

私たちは、いつ、どこにおいても、神様の臨在を感じ取る能力を養わなければなりません。ニコラス・ヘルマン(1605~1691)は、彼の著書『神の聖前に在る修練』で、「神の臨在を練習しなければなりません。短い時間が与えられたときには、それを逃さず神に祈りを捧げなさい」と言いました。

また、A・B・シンプソン博士(1843~1919)は、「絶えず祈りなさい」という聖書の言葉について、このように言いました。「どのようにして絶え間なく祈ることができるか? それは、羅針盤の針が、常に北を指しているように、忙しい生活の中でも、複雑な暮らしを送る際であっても、目の前のことに捕らわれず、心を絶えず天の父へ向けることである」。

決して私たちは一人ではありません。どこへ行っても、何をしても、三位一体なる神様がおられます。願うなら、私たちはいつでも、三位一体の神様と対話することができます。その方の臨在を意識しながら、いつでもその方のみ前にいることができるよう心を訓練し、神様と同行してください。(この項最終回)

 


福音の力を体験せよ 113

2014年02月22日 | 日記

 福音の力を体験せよ 113

 聖化すなわち婚礼の礼服は、私たちがキリストと同じ生涯を送ることです。聖霊の実とは、イエス・キリストの品性をもって生きることを言います。それが、私たちを覆ってくれる礼服なのです。

私たちの内におられるお方が、まさに私たちが御国に至る切符なのです。コロサイ人への手紙では、私たちの内におられるキリストこそが、栄光の望みであると述べられています。イエス様が私たちのうちにおられなければ、栄光の望みはありません。

まさに、私たちがキリストを受け入れることが、み国へ至る切符です。イエス様が私たちのうちに生きられることに同意し協力することが、天国で暮らすための適性であります。私たちは、これら二つの要素を兼ね備えていなければなりません。

  真のキリスト者の歩むべき道  19

⑦ み言葉を黙想しなさい

 神様と共に歩むためには、私たちは、み言葉からその方を探さなければなりません。なぜなら、その方は霊感によって書かれた聖書を通して、ご自分を現しておられるからです。そして、私たちは主の言葉を黙想するべきです。私たちが犯しやすい誤りのひとつは、黙想することより、研究することを重要視することです。もちろん研究することは必要なのですが、黙想することはさらに大切なことなのです。多くの人は、聖書を知識や情報源として頭でとらえ、知っただけで実行しようとしません。黙想を通して、心で聖書に接近するなら、聖書は、魂に語りかける神のみ声となり、あなたは聖書の教えを実行したくなって、あなたの生涯はみ言葉によって日々新しくされていくのです。

真理がキリスト者の生活を変えないとするなら、それは、間違った聖書のとらえ方をしているからです。変化のないキリスト者の生涯と信仰なら、何の役に立つことがあるでしょうか? 私たちの人生を変えるためには、天の父なる神様が与えて下った聖書を、深く黙想しなければなりません。そうして、真理によって変わるべきです。


福音の力を体験せよ 112

2014年02月21日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 112

皆さん、私たちはこれまで、次のように信じてきました。「義認とは、私たちの罪を覆い隠して、あたかも義人であるかのように見てもらえることだ」と。もちろん、皆がそのように信じたわけではありませんが、大方の人がそのように信じてきました。

多くのクリスチャンが、「ただ、イエス・キリストの完全な義なる生命が私の魂に入り、覆ってくださるのだ。こうして私は、自分のうちに義を取り入れるため、上がったり下がったりしながら、非常な努力を続けるのである」と言います。そして「まさしくこの経験こそが聖化、すなわち分け与えられる義だ」と説明します。また、「罪を犯している間も、外部からの義が私を覆ってくれるか、あるいは満たしてくれる」と言います。

皆さん、それは、み言葉に記されていることとは異なります。このような思想を支持しているみ言葉はありません。覆ってくれる義は私たちの内にある、とみ言葉は述べています。つまりそれは、分け与えられる義が実際に私たちを保護し、覆ってくれることです。

   真のキリスト者の歩むべき道 18

私たちの主であるイエス様は、十字架で釘付けられて死に、弟子ヤコブは剣によって殺され、パウロはローマで首を切られ、また多くの弟子たちが殉教していきました。教会の歴史は、この世からの冷遇と迫害と殉教の歴史ではありませんか? クリスチャンである私たちが、このような教会の歴史を、確かに知りながらも、人々からのけものにされることを恐れているのでしょうか?

キリスト者として十字架を担い、他の人々とは異なった生活をするべきだという言葉にびっくりして、人からののしられるような信仰生活はしたくない、私は平凡な人間だから、平凡な人生を歩ませてくださいと、言うつもりでしょうか? そのような人生は決してありません。キリストと共に歩まない人生は、苦しみと悲しみの連続であり、その最後は永遠の滅亡だけなのです。

神様と共に歩むなら、苦難の中にあっても、希望と平安と喜びに満ちた人生を送れるのです。


福音の力を体験せよ 111

2014年02月20日 | 日記

  福音の力を体験せよ 111

“内側〔心〕が義である人は、強情でも無情でもなく、日々キリストのみかたちへと成長し、その力強い成長を継続する。”(MYP35)     

“真理によって聖別され〔清められ〕た人は、よく自制し、栄光のみ国に入るまで、キリストの足跡について行くであろう。”(MYP35)

「栄光のみ国にはいる」ときとは、いつのことなのでしょう?栄光の王国の到来、すなわち私たちの体が栄化されるとき、すなわち再臨のときのことです。続きに、結論が述べられています。

“義認の経験によって着せられる義と、聖化の経験によって分け与えられる義がある。前者は天国に入るための権利書であり、後者は天国で暮らすための我々の適性である。”(MYP35)

     真のキリスト者の歩むべき道 17 

⑥ 問題となるものは断ちなさい

あなたの霊的な進歩を邪魔するものは、何であれ捨てるべきです。このことは、霊的な生活のための実際的で有用な原理であり、聖書の教訓なのです。霊的に健全であるためには、霊的に害を与えるものをすべて断つべきです。もしあなたが、聖霊との親しい交わりを持ち、神さまのみ心に添った歩みをしたいと思うなら、神様が喜ばれない罪をことごとく捨ててください。

このように言うと、多くの人が、今まで楽しんできたものを断ってしまえば、不便になるし、他の人から嫌われ、嘲笑されるのではないかと恐れ、そうすることをためらいます。今日のクリスチャンたちは、どれほど臆病者になっていることでしょうか?

 


福音の力を体験せよ 110

2014年02月19日 | 日記

 

福音の力を体験せよ  110

最初に着せられる義を「義認」と言い、次に分け与えられる義を「聖化」と言います。ここで、これらの二つが合わさった状態について書かれたことばを読みます。 

“魂のうちに宿られるキリストが変質させる力を発揮し、その外観は、内面をつかさどる平和と喜びを証する。枝がブドウの木から栄養素を吸収するように、我々はキリストの愛を飲む。もしも我々がキリストに接ぎ木され、繊維の一つひとつが生きたぶどうの木とつながっているなら、我々は生ける実という豊かな房をみのらせることによって、それが事実である証拠を生じさせるであろう。”(1SM337) 

“内面の義は、外面に現れる義によって証明される。”(MYP35)

皆さん、小さい枝の外側に現れる義とは何ですか?まさに、それが聖霊の実であります。すなわち、分け与えられる義のことです。それでは、その枝の中にある義とは何ですか?それは聖霊です。実を産み出すための養分です。すなわち、ブドウの木であられるイエス様から送られる聖霊の力のことです。それが着せられる義であります。続きを読んでいきます。

   真のキリスト社の歩むべき道 16

  ⑤ 信仰は天国へ入るための保険ではない 

ある人々は、教会へ行き、お祈りをし、献金を捧げ、神様の話をしたり、奉仕活動をしていながら、聖霊と共に歩む経験をしていません。そのような人にとって、信仰とは、まるで保険に加入するようなものです。そのような人々がキリスト教から願うものは、死んで地獄へ行かず、天国へ無事に入ることです。そのために彼らが支払う保険料は、多少不便さを感じながらも、礼拝日には我慢して教会へ出席することです。彼らは献金を捧げ、悪質な快楽や不道徳なことは避けるでしょう。彼らは保険が無効にならないように、自分なりに教会が要求することを実行していきます。このようにして彼らは、いつか自分自身が死んだら天の御国へ受け入れられることを信じます。

彼らは、聖書に記されている真理を、自分たちの都合にあわせて解釈します。神様の愛や赦しの言葉は好きですが、聖書に書かれた、罪を指摘して悔い改めをうながす言葉や、不従順なものに対する刑罰、最後の審判などの恐るべき言葉は、彼らの目に深くとまりません。このような人々は、キリストの品性を反映することができないので、最後になって「あなたを知らない」と言われてしまうことでしょう。私たちは、聖霊によってキリストに似た者と造り変えられるので,キリストの関係者として「あなたを知っている」と言われ、み国に受け入れられるのです。

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