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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 109

2014年02月18日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 109

皆さん、枝の中にある生きた生涯の原則とは何ですか?それが、すなわち着せられた義です。その着せられた義とは、キリストが私たちの心の中で働かれることを言います。この研究を続けていくうちに、なぜ私がこの言葉を強調するのか、徐々に理解するようになるでしょう。 

“彼〔キリスト〕が与える〔着せる〕義を受け入れることにより、聖霊の改変させる力を通して、我々は彼のようになる。”(6BC1098)

キリストが着せてくださる義は、すなわち力です。聖霊が私たちの心の内に働くゆえに、また私たちがその力によって生きるゆえに、彼のようになるのです。つまり、キリストのように生きるとき、それが分け与えられた義となるのです。着せられる義とは、私たちの内に働く力のことで、分け与えられる義とは、わがものとなった力によって、義の生涯を送れるようになることです。

   

  真のキリスト者の歩むべき道  15

     《聖霊と同行する条件》 

1、まず、お互いに同行する意志があるかどうか、確認しなければなりません。幸い、聖霊は常に私たちと共におられることを願っておられます。私たちがそれを願うかどうかだけです。

2、目的地に対して合意しなければなりません。聖霊と私たちは、神様の栄光を表すことを目的とします。 

3、どの道を選ぶかについて合意しなければなりません。世の踏みならされた道や、世の人々に賞賛される道なのか、キリストと共に、十字架をとって歩む道を行くのか決めなければなりません。 

  このようにして、聖霊と共に歩むなら、あなたの生涯は自然にキリストの生涯に似てくるのです。


福音の力を体験せよ 108

2014年02月17日 | 日記

 福音の力を体験せよ 108

ブドウの木と枝の関係を再考察しましょう。イエス様はブドウの木です。根から上がってくる養分は聖霊です。私たちは小枝に過ぎません。私たちが神に屈服するならば、そのブドウの木につながることになります。その時、木につながった枝に養分が流れ込みます。流れくる養分を十分に受けた枝は、何を産み出しますか? 

そう、実〔果実〕を産み出すのです。聖霊の実とは何でしょうか?愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です。イエス様がその人の生命に宿られるなら、その人の生涯に聖霊の実がことごとく実ります。 

“キリストは、ご自分のみ名を信じる信仰をとおして、彼の義を我々に着せられ、それが、われわれの生涯において生きた原則となるのである。”(TMK302)

  

     真のキリスト者の歩むべき道 14

④ 清らかな人格を持ち聖霊と共に歩みなさい 

私たちが聖霊と共に歩む者になるためには、私たちの人格を清く保っていなければなりません。聖霊は、尊く清いみ霊なる神様です。それゆえ、聖霊に来ていただくためには、私たちの思いが聖く純粋でなければなりません。聖霊は清らかな心の聖所を望まれます。

聖霊は、悪意、自己中心、偽り、愚かな行動、ずるがしこさ、好色などと共に住むことはおできになりません。もしあなたが、これらのことにふけるなら、聖霊は沈黙し、あなたはその方の恵み深く麗しい臨在を感じなくなるでしょう。その方は、あなたを助けられなくなり、やがては、悲しみながらあなたを去られ、あなたは別の霊の支配を受けることになるでしょう。それゆえに、聖霊と共に歩む、真のキリスト者の生き方を続けていただきたいと願います。

ところで、聖霊と共に歩むためには、条件があります。「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス書3:3)とあるように、聖霊と私たちの間に、同行のための合意が必要なのです。


福音の力を体験せよ 107

2014年02月16日 | 日記

    

 福音の力を体験せよ 107

信仰による義とは、キリストが私たちの内に生きて、その御心を行ないたいとの願いを起こさせ、かつ実現に至らせることです(ピリピ2:13参照)    

“「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。この力は人間には備わっていない。それは神の力である。魂はキリストを受けいれるとき、キリストのような生活を送る力を受ける。”(COL314) 

イエス様はただ、力を下さるために来られたのではなく、皆さんの内に生きるために来られました。なぜなら、その力はキリストの内にあるからです。 

“キリストは、罪に沈んだ弱い無力な人間を、限りない力の源につないでくださるのです。”(SC20)

   真のキリスト者の歩むべき道 13  (A.W.トゥザーより翻案)

キリストが魂の宮に入って下さるように、あなた自身をキリストに差し出してください。キリストをあなたの心の王座につかせてください。すべての精神と心を尽くしてキリストを愛し、キリストからあなたを引き離すもの、あなたを縛り付けてキリストへ行かせない鎖を断ち切ってください。キリストがあなたにとってすべてのすべてであるようにしてください。

あなたは、すべてのものの根源であるキリストに出会われたでしょうか。キリストは教会ではありません。キリストは宗教でさえもありません。キリストは、あなたとの生きた愛の関係そのものなのです。


福音の力を体験せよ 106

2014年02月15日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 106

ところがこの福音は、様々なゴミにおおわれてしまっていました。人間の言い伝えにより隠されてきたのです。現在それを見出しているのは、わずかな人たちだけです。

当時、連合会長であった牧師にも、この問題を申し上げました。私の話が終わると、彼はこのように言いました。「デイビスさん、私は、様々な問題を抱えて事務所にやってくる人たちの対応に追われる毎日でした。けれども、あなたが私のところにいらして、初めて私の魂に食物を伝えてくれました。誠に感謝します。もしあなたが、このメッセージのために反対や迫害にあわれたら、どうぞ私に知らせてください」と。こういうわけで、私は二十年間このメッセージを伝え続けています。

“福音を、生命のない理論としてではなくて、生活を変える生きた力として示さねばならない。神は、ご自分の恩恵を受ける者たちをその力の証人にならせようと望んでおられる。”(DA826)

“わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。”(ロ-マ1:16-17)

 

    真のキリスト者の歩むべき道 12

③ すべての源なるキリストを愛しなさい 

今日、宗教のセミナーや、さまざまな宗教行事へ参加するなら、たくさんの知識を得ることができます。そこでは、預言、ユダヤの歴史、聖書の教理などが教えられ、その上ギリシア語、ヘブライ語の解説まであります。そうした集会へ参加すると、私たちは自分が、有識者になったような錯覚に陥ります。そこで教えられる聖書の歴史、神学、語学、宗教の形式などはそれぞれ重要な役割を持っています。しかし、もし私たちがその中から、生きておられるイエス・キリストと出会い、心が変えられることがないなら、それらのものは何の意味もありません。キリスト教とは、イエス・キリストを崇める宗教です。キリスト教は、単に人が罪の刑罰から救われることを教えるだけにとどまりません。キリスト教は、神様の創造の目的を実現する宗教です。神様の創造の目的とは、神様のご品性に似た子供たちが、創造主を深く愛しながら、心からその方に仕え礼拝することです。

神様は、み子キリストを通して、罪に堕ちた人間が神様のみ姿に変えられる道を開いて下さいました。神様はあらゆる問題の解決者であり、知恵の源です。み子キリストによって、私たちは神様の持っておられるすべてのものを受けることができるようにされました。それゆえに、キリストを愛することは、キリスト教の核心です。何より神の御子、主イエスを愛してください。

多くの人は、キリストを知識として、情報として知っていますが、私たちは、キリストを心の奥深くで探し求め、体験しなければなりません。ダビデは、「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」(詩編73:17)と告白しました。私たちに最も大きな悟りがもたらされるところは聖所です。あなたの魂の聖所、中世の著述家たちが、ぺネトラリア(奥の院、魂の深奥部)と呼んだところ、あなたの霊魂の最も深いところにあって、イエス・キリストと出会うことが必要です。


福音の力を体験せよ  105

2014年02月14日 | 日記

   

 福音の力を体験せよ  105   

  5、新生と聖化との関係

教会でみ言葉を伝えるようにとの要請を受け始めたころ、私はまず、世界総会の総理のところに行くべきだと思いました。当時は、世界総会本部のあるタコマパ-クに住んでいました。世界総会の総理である先生のところに行って、「私は、教会で説教するように招待を受けていますが、私が教えていることについて、少し話を聞いてくださいますか」と申し上げました。 

総理は、「では、世界総会の職員を何人か呼びますので、どうぞお話しください」と言われました。こうして私は、世界総会でまる一日を過ごしました。そこの先生方は、私が教えている事柄から、一つの間違いも発見することはありませんでした。1975年にビエンナで開かれた世界総会において、総理は代表たちの前で、私の主人が書いた本を掲げて、「この本は、各教会員の家庭に置かれるべきです」と言われました。その頃、世界総会の牧師会から、その本の概略を書くように依頼されました。それからこの本は、すべての教区教会の祈祷会における聖書研究の参考書に推薦されました。

   真のキリスト者の歩むべき道 11

人々があなたがたを高く評価しようが、反対に、批判されようが、人々の反応に揺り動かされてはなりません。正当な批判もありますが、他人を批判する事を好む者は、たいていは自分自身の劣等感を克服するためにそのようにするのです。称賛されても、批判されても、私たちは人々の手ひらでもて遊ばれてはなりません。私たちの未来や、私たち自身を人々の手に任せてはなりません。何より重要なことは、天の父なる神様と親密に交わること、主の導きを求めることです。人々の意見や判断、評価に一喜一憂せず、神様のみ言葉とみ心に一致することを最初で最後としていくならば、何ごとにも振り回されることなく、神様のみ業を確信をもって進めていくことができるようにされていくのです。