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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 94

2014年02月03日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 94

“わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。”(ゼカリヤ12:10)

実際私たちは、イエス様のお心を最も傷めています。それは、彼の肉体に釘を打ちつけるのと同じことです。自分たちが本当に何をしたか認めさえすれば、私たちは真の悔い改めの経験をするようになるでしょう。それは、罪を心から嘆くことです。

“われわれは、自分の悪い行為によって面白くない結果が自分自身にふりかかるために悲しむことがよくある。しかし、これは悔い改めではない。罪について本当に悲しむことは、聖霊の働きの結果である。みたまは、救い主を軽んじ悲しませた忘恩を示し、われわれを砕けた心をもって十字架のもとに行かせる。われわれが罪を犯すたびに、イエスは新たな傷を受けられる。自分が刺したイエスを仰ぎ見るとき、われわれは、イエスに苦悩を与えた罪について悲しむ。このように悲しむことによって、われわれは、罪を放棄するようになるのである。”(DA300)

    主の幕屋の中へ 28  (最終回)

  皆さんの聖所はどうでしょうか?本当に聖所で行なわれるキリストの働きを通して、皆さんのうちに、神様が住んでおられるでしょうか?神様が私のうちに住み、私のうちで働きを行い、神様は私たちの神になられ、私たちは神の民となっているでしょうか?地球上のすべての人々のための、聖別された神様の聖所になっているでしょうか?   

「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エジプト記25:8)。神様が、私たちのうちに住むと言われました。私たちは神様の聖なる宮です。それは、私たちが偉いからではなく、その中に神様がおられるからです。

「 わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう」(レビ記26:11、12)。(今回で主の幕屋の中へは最終回です。なおこの原稿ご希望の方は、sostvjapan@outlook.com  までお申し込みください。無料で送らせていただきます)

 

 

 


福音の力を体験せよ 93

2014年02月02日 | 日記

    

 福音の力を体験せよ 93

私の罪は、父の罪と比べれば、ささいなものに思われるかもしれません。たまに腹を立てたり、ちょっとイライラしたり、夫に対して良くない感情を抱いたりする程度ですが、神様が心の中の罪を悟らせてくださったとき、私は自分の罪を認めなければなりませんでした。

そこで、私は夫に向かって、おだやかにこう言いました。「私が悪かったです。あなたの子供たちへの接しかたを見て、私はあなたに良くない感情を抱きました。そうする権利がないのに、私は罪を犯しました」。そして子供たちにも、「今までお母さんは、神様の愛をもって生きてきませんでした。私が間違っていました」と告白しました。

すると、夫も子供たちに対して、自分の罪を認めました。これまでずっと、子供たちを拒絶していたことも認めました。

夫が息子に言いました。「お前はまだ小さかったから、良く分からなかったと思うが、この事は、お前が小さい時から始まっていたんだ。お前とどう接するべきか分かってはいたが、私が望むことをお前がしなかったときは、特に厳しく当たり、愛をもって向き合うことができなかった」と。

   主の幕屋の中へ 27

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに進める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである(ローマ12:1、2)

  聖所の儀式において、神様は不完全な、傷のある捧げものは受け入れられませんでした。神様は私たちの 80% の献身を受け入れられません。99%でもだめです。完全な献身が必要です。犠牲の供え物は、捧げられたすべてが焼かれました。全部でなく、ある部分はとっておくということはできませんでした。私たちは神様に、自分自身のすべてを差し出さなければなりません。私という人間の全体を、神様にお捧げしなければなりません。


福音の力を体験せよ 92

2014年02月01日 | 日記

    

 福音の力を体験せよ 92

“神のみ前で自分の魂をへりくだらせ、自分の罪を認めようとしない者たちは、神から受け入れられるための最初の段階にも達していないのである。” 

皆さん自身の罪について、決して誰かを恨んだり、誰かのせいにしたりすることはできません。相手が皆さんより十倍も非があり、誤っていたとしても、それに誤って反応したのであるなら、その間違いの責任は皆さん自身にあるのです。

私たちは、絶対に罪の言い訳をすることはできません。罪の言い訳をしている限り、神様から悔い改めの心をいただくことはできません。皆さんに悔い改めの賜物を与えることがおできにならない間は、神様は皆さんを赦すことがおできになりません。

   主の幕屋の中へ 26

口を開けば、十字架とかイエス様なのに、心の中には、罪の問題を抱え、真の安息と平安を楽しむことができなくて、いつも罪に引っ張られている、そのような状態を中毒だと言います。フロイドが宗教を「強迫神経症の一つ」と嘲笑したことも、そのような理由からではないかと思います。

  ところで、中毒には、関係中毒と物質中毒があります。私たちは、よく中毒と言えばお酒、タバコ、麻薬のような、物質による中毒のことを考えますが、それに劣らず恐ろしいのが関係中毒です。宗教中毒は、関係中毒の代表的なものと言えるでしょう。宗教中毒患者の代表はパリサイ人たちです。彼らほど神殿儀式や規則に忠実な人々はいませんでした。彼らほど聖書の知識を持っている人はいませんでした。しかし、その彼らが、神殿が指し示す方、イエス様を殺したのです。

私たちも、気をつけないと、彼らのようになってしまう可能性があります。聖書を読み、お祈りをし、献金や奉仕活動をしていながら、心にイエス様を宿していないことがあり得るのです。そして、最後の時になって、「あれもしました、これもしました」と言いながら、イエス様からは、「わたしはお前をまったく知らない」(マタイ7:22、23参照)と言い渡されてしまうような、一方通行の愛しか表すことができないのです。このような、ひとりよがりの、宗教中毒患者にならないように、私たちは、イエス様との深い交わりを創っていきたいと思います。