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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 99

2014年02月08日 | 日記

  

   福音の力を体験せよ 99

私たちはそれぞれの行いによって裁かれるとありますが、実際には、行いの根底にある思いと精神が裁かれるのです。私がよからぬ思いと誤った精神をもって天国の門を叩くとき、誰が私を主導しているのでしょうか?心は、イエス様の霊によって主導されるか、サタンの霊によって主導されるかのどちらかしかありません。皆さん、神様は、サタンがみ国に入るのを許容することはできません。私が心に恨みを抱き、サタンが私の精神を主導するなら、私は天国に入ることができません。ではどうすれば、天国に入れるようになるのでしょう?

神様のすべての律法に服従していないのに、安息日を聖く守りなさいと言われても、そうしたいとの願いは湧いてきません。その時、皆さんの心と精神はどんな状態でしょうか?皆さんは今、背信の中にいるのです。反逆は占いの罪と同じであると言われていますが、それはなぜでしょうか?

   真のキリスト者の歩むべき道 5

魂が満たされず空虚感が起きることは、神様が私たちの魂を訪ねられ、石地のような心に鋤をかけて耕し、肥えた良い地として創り上げてくださる経験なのです。時には、様々な事件や、嫌いな人を通して私たちの心に鋤をかけて、石地の心をひっくり返されます。

そのようにして人は、神様だけに頼るようにされるのです。ダビデは、このような体験の後、「耕す者はわたしの背の上をたがやして、そのうねみぞを長くした」(詩篇129:3)と告白しました。私たちの心をひっくり返す神様の働きを悟り、その試練の時を聖霊で満たされる機会とする人は、神様から愛される者になることでしょう。


福音の力を体験せよ 98

2014年02月07日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 98

皆さん、悔い改めとは何でしょうか?

「悔い改めとは、罪を悲しむことと、罪を離れることを含みます。」言い換えるなら、罪に対する権利を放棄することを言います。「私たちは、たった一つの罪でも悔い改めず、告白せず、捨てきれない状態で、平和のうちにキリストと会うことはできない。」

恐らくある人は、「それは本当に難しいことです」と言うでしょう。それでは、実際に考察してみましょう。私が心の中で夫に対して良くない感情を抱いているとします。そのまま天国に行って門を叩き、「イエス様、私を入れて下さい」と叫んだとします。

イエス様は、入れることがおできになるでしょうか?神様の愛が、私の心を主導しているでしょうか?イエス様が来られるときに私たちの罪を持って行かれるのでは、もう遅すぎると思いませんか?もし私がこのまま天国に入ったとしたら、永遠に心の中に悪感情をもって生きなければならないでしょう。イエス様は、そのような人をみ国へ連れていくことはできません。

   

    真のキリスト者の歩む道 4 

2、生ぬるい信仰から抜け出すためには?

 

《聖霊に満たされるべきです》 

生ぬるい信仰の状態から抜け出すためには、聖霊の充満を経験しなければなりません。しかし、聖霊に満たされた人は、その前に、誰であれ、自分自身を神様に明け渡す段階を経ています。この段階において彼らは、まず自分の心の空しさ、信仰の力なさを深く感じました。偉大な説教者の一人であったムーディは、聖霊の力強い働きのもと、数多くの人々を主のもとへ導いた人として知られています。ところが、彼はキリストの働きについたころ、自分自身の心の空虚感に悩まされて、聖霊の満たしを慕い求めました。その結果、彼は聖霊に用いられる器として大きな働きを成し遂げるようになったのです。

多くの人は、試みや不安、空しさが押し迫って来たとき、感情に振り回されて右往左往します。そしてそのような時、真剣に神様を慕い求めて、神様のみ霊で心を満たされ、人知ではかりしれない神様の平安にあずかる経験に入らないどころか、不平、不信を口にしたりしています。

 


福音の力を体験せよ 97

2014年02月06日 | 日記

  

 福音の力を体験せよ 97

ついに私は、心の底からクリスチャンになることの意味を理解し始めました。それは、「罪に対して死んだ者となり、神にあって生きている者となりなさい」ということでした。皆さんが神にあって生きているなら、神様の愛のみわざを心に成し遂げていただく権利を持つことになります。そのとき皆さんは、敵をも愛するようになるのです。 

パウロは、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と言いました(ピリピ4:13)。私たちは、一瞬一瞬、キリストの愛が私たちを主導なさるように願うべきです。すべての重荷をキリストのもとに投げ出して、「ああ主よ、私はこれらすべてのものを、完全に追いやっていただくことを願います」と言うならば、主がその次の段階に着手してくださいます。その時、主が私たちのあらゆる罪を赦し、その結果、あらゆる不義から清めることがおできになります。皆さん、私たちが自分の役割を果たすなら、イエス様はそうすることがおできになります。     

“キリストは、信仰をもって彼のみもとに来るすべての人を、完全に救うことがおできになる。もし彼らがキリストにゆだねるならば、彼らをすべての汚れから清められる。しかし、もし彼らが罪に執着するならば、救われることは不可能となる。キリストの義が、悔い改めていない罪を覆うことはないからである。”(7BC931)

  真のキリスト者の歩むべき道 3

  3

肝に銘じてほしいのです。十字架のキリスト教は、世のご機嫌をとるためにお世辞を言ったりするようなものではありません。過去の教会は、世から評価されることに最大の努力を傾けたりしませんでした。むしろ、十字架を担って、「天の父なる神様、私たちはただあなたに認められ、あなたに評価されることのみを求めます。あなたのみ心に添わないことが少しでもありませんように、私たちを助けてください」と祈りました。 

教会は、聖書的な原理原則の上に固く立って、世に向かって聖霊のみ声を聞かせなければなりません。そうすれば、世の人々は群れになって教会へ押し寄せてくるでしょう。あなたは適当に世と妥協しながら、現在の生ぬるい状態に引き続きとどまることで満足されるでしょうか。もし、そのように思うのであるならば、私はこのようにお尋ねしたいと思います。あなたは、現在の信仰生活を続けていきさえすれば、信仰が増し加わり、聖霊の豊かな実を結び、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで到達し、晴れてキリストに会えると信じますか? 

あなたはそのようになることはできないのです。正直なところ、あなた自身もそのようになれると信じていないのではないでしょうか。それでは、どのようにしたら、生ぬるい信仰状態から抜け出すことができるでしょうか?


福音の力を体験せよ 96

2014年02月05日 | 日記

 


  福音の力を体験せよ 96

皆さん、「罪に対して死んだ者」とはどういう意味ですか?本当に死んだら、皆さんは罪に対して何らかの権限がありますか?誰かが皆さんを不当に扱っても、本当に死んだ状態ならば、はらわたが煮えくり返ることはないはずです。子供たちが不従順な態度を示しても、腹を立てられますか?いいえ、死んだ人がそんなことはできません。

聖書は、「あなたたちが罪に対して死んだ者となりなさい」と教えています。それはどういう意味ですか?「罪を犯す権利を放棄しなさい」という意味です。

私たちは、イエス様と共に十字架につけられねばなりません。イエス様が皆さんの心の中に生きるべきです。ぜひ、他人に腹を立てることができるという権利を放棄してください!他の人が皆さんにどんな事をしようとも、イライラし、心に恨みを抱く権利を放棄してください。イエス様は、「敵を愛し、〔あなたを〕憎む者に親切にせよ」と言われました(ルカ6:27)。

   真のキリスト者の歩むべき道  2

1、世と妥協しながら生ぬるく生きない

《世から嘲笑され排斥されることを恐れない》

過去、この世が教会のあとを追う時代がありました。教会が主導権を握り、人々を教え導き、生き方の模範を示していたのです。この世は教会によってたくさんの恩恵を受けました。ところが、今は正反対です。今は、教会がひざを屈してこの世から教えを乞うています。世の流行を追い、その真似をしています。

過去の教会は、キリストの美しい花嫁でしたが、今の教会は、しおれて捨てられる寸前の花のようになってしまいました。かつての教会は、世に向かって「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒行伝3:6)と言いました。今の教会は、世の道端に出て行き、人々から銅貨1枚を恵んでもらうために手を差し出しているようなものです。 

現今の教会は、「どうぞ、私たちを変人扱いしないでください。私たちは、キリストを信じていることを除けば、他のあらゆる面において、皆さんと全く同じなのです」と言っています。今日のキリスト教会が、たくさんの時間と労力と資金を投じて、世に伝えているものは何なのでしょうか? それは、神様の愛の名のもとに、人々を手軽に赦し受け入れるだけで、神様の霊による新しい生まれ変わりに導かない、安易な福音なのです。聖書的なキリスト教ではなく、世に受け入れられやすい教え、すなわち、混じり物のキリスト教なのです。

 


福音の力を体験せよ 95

2014年02月04日 | 日記

    

  福音の力を体験せよ 95

“その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける。”

(箴言28:13)

イエス様が私たちの心に真の悔い改めと罪を嘆く心を注いでくださるとき、私たちの役割である罪を告白して捨てることが、たやすくなるのであります。

皆さん、罪を捨てるとは、どういう意味ですか?私は長い時間を費やして、この問題に取り組みました。おかげで私は、「世にある罪など、これ以上願いません」と、たやすく言えるようになりました。

ある人は酒を飲み、タバコ吸うことをやめます。クラブや劇場へ行くのを、きっぱりやめる人もいます。さらに、飲食や服装まで改革する人もいます。

しかし、心にある罪悪はどうでしょうか?皆さんの心の中にある恨み、怒り、嫉妬、イライラ、といった罪悪はどうでしょうか?

皆さん、これらの罪悪はどのように締め出しますか?多くの人はクリスチャンになっても、これらの罪を持ったままです。それが私の悩みでもあり、そのため私は、これらの問題について祈り、研究しました。「天のお父様、私はこれ以上、これらの罪悪を心に抱くのを願いません」と。すると神様は、いくつものみ言葉を私に示してくださいました。

 “このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。”

  

 

 真のキリスト者の歩むべき道

   1

ますます世俗的になっていく現代のキリスト教会は、この世との違いをあまり見ることができません。最近のクリスチャンたちは、世の中の人々とさほど差がないような生活をしているように見えます。本当のクリスチャンの生き方とはどのようなものでしょうか? 今回の信仰記事は、現代における預言者のような存在と評価されていたA・W・トゥザー牧師(1897~1963)の文を参考にして編集構成しました。今現在を生きるキリスト者の正しい信仰の姿勢を、この記事を通して学び体験されることをお祈りします。

 私たちは非常に世俗化した時代を生きています。その中で、キリスト教会の多くは、真のキリスト者の役割や使命を悟ることもなく、この世の生活を十分楽しみながら、この世から認められることを願って過ごしているように思えます。しかし、神様はこのような深い眠りに陥っている教会に対して、目を覚ましなさいと言われます。では、真のキリスト者としてこの世に生きるとはどのようなことでしょうか。共に考えてみましょう。