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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか  第10回

2015年04月24日 | 日記

 

2、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)。

罪に対する勝利は、それを信仰によって求めるあらゆる人に約束されています。私たちはこのみ言葉に基づいて、勝利を得ることを信じることが出来ます。なぜなら、神様は真実な方であり、決して嘘をつかれるお方ではないからです。ですから、罪への勝利を願い求めて祈ったならば、約束が必ず成就すると信じて感謝し、あたかもそれが実現したかのように行動していくことが出来るのです。私たちの祈りの応答として、何かの感じや感情が起きることを期待する必要はありません。私たちは、神様が語られたゆえに、勝利するのです。約束の中にある能力が、私たちの勝利の秘訣です。

 

3、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ6:11)。

「認むべきである」という言葉は、「信じること、または成し遂げられたこととして考えること」を意味します。つまり、自分自身を罪について「死んだ者」として見なされなければならないと言う意味です。死んだ者は怒りません。死んだ者は利己的なむさぼりを持ちません。

かりに皆さんが、罪に対して勝利を得たいと思うのであれば、皆さん自身を罪に対して死んだ者と見なさなければなりません!現在皆さんが抱えておられる、勝利できない問題は何でしょうか。皆さんは喫煙の習慣や、執拗につきまとう罪を克服したいと本当に望みますか?今キリストは語られます。「私はあなたに勝利を与えよう」。皆さんがこの約束を信じる限り、神様は勝利を与えて下さるのです。そしてこれから皆さんは、罪に対しては死んだ者として行動してください。勝利のための力を求める祈りをしてください。皆さんが勝利を求めた瞬間、勝利の力は天の補給所から皆さんの生活の中に、即座に下ることになるのです。たとえそれを感じることができなくても、それは間違いなく皆さんの生活の中に表れるようになります。皆さんがそれを信仰で受け入れる限り、いつもそこにあるでしょう。

ある人々は、この勝利を劇的に経験し、今まで好きだった罪を嫌悪するようになり、罪はその味を失ってしまいます。喫煙中毒だった人が、喫煙の要求から完全に解放されることがあります。けれども、このような方法は、神様が一般的にとられる方法ではありません。多くの人の場合、勝利の経験は与えられますが、心には罪の欲求と欲望が残っていて、機会をとらえて人を誘惑してきます。しかし、誘惑の瞬間ごとに、それを克服できる力が天から私たちの心に伝わってきて、力強く私たちを支配するようになります。

私たちの肉体と感覚が、私たちに罪を行うように激烈に要求したとしても、私たちの良心の中で語られる聖霊の静かな訴えが耳に響いて、私たちは自分自身をすでにキリストにあって死んだ者と見なして、聖霊のみ声に屈服するようになります。このような経験を通して、私たちの信仰は天に向かってぐんぐん成長していきます。


救いは取り消されないのか 第9回

2015年04月23日 | 日記

 

9、勝利を得る方法

 

 皆さんはこれまで、悪い習慣や罪は、斬新的に、つまり徐々に克服できるようになると教えられてきたのではないでしょうか。それは『努力し続ければいつかは出来る』という考え方ですが、それではいつまでたっても勝利することが出来ません。40年以上教会生活を真面目に続けていても、教会の長老や役員をやってきたとしても、自我や感情、肉欲から解放されている人はほとんどいません。もちろん、人が年をとって来ると、誘惑や罪に対する関心が薄くなってきて、短気だった人が穏やかになったりすることはありますが、究極的に、私たちは努力によって悪魔に打ち勝つことは出来ないのです。

なぜなら、悪魔は私たちよりはるかに強いからです。もし私たちが、悪魔に勝とうとして熱心に努力して、1年ほどがたち、私と悪魔の力を比較してみたら、どうでしょう。悪魔の力の方が、依然として私たちよりはるかに強いのです。私たちの努力だけでは、ただ一度であっても、思い通りに罪の勢力を打ち破ることはできません。その理由は、私たちは常に、私たちよりもっと強い敵と戦いをしているからなのです。

それでは、どのようにして私たちは、この自分の弱さや敗北を克服することができるのでしょうか?この質問は、私たちを神様の尊いみ言葉の奥義へと案内します。

私たちは、信仰生活の勝利というこのとても大切なテーマを明らかにするために、聖書の4つのみ言葉から学んでいきましょう。これらの4つ聖句は、神様が私たちに与えて下さる勝利と、その力の秘訣について、詳しく教えてくれています。

 

1、「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」(Ⅰコリント15:57)。

皆さんの心に、このメッセージを深く刻んで下さい。勝利は賜物なのです。それは私たちがどんなに努力をしたとしても、自分の力では得ることができません。何かの善行をたくさん行ったからといって、勝利する力や資格が生じるものではありません。私たちに必要なただ一つのことは、それを切なる心で求めることであり、その勝利はキリストの恵みを通して代価なしに与えられるのです。キリストはサタンに打ち勝たれた唯一のお方であり、私たちが受ける全ての勝利はそのお方からもたらされる賜物なのです。

ある人は食欲の奴隷であり、ある人はアルコールやタバコの奴隷になっています。またある人は高慢不遜な態度や短気な性格、あるいは世俗的な欲望を押えるために、必死になってもがきます。聖書は、ただイエス・キリストを通して、賜物として勝利が与えられると教えています。皆さんは、神様にその力を求めるなら、それを得る事が出来るとお信じになりますか?勝利を求める皆さんの祈りに対して、神様はただちに応答して下さることを全的に信じますか?

皆さんは、勝利を、キリストが保証なさる約束として確実に信じることができます!



救いは取り消されないのか 第8回

2015年04月22日 | 日記

8、愛がなければ結婚も宗教生活も悲惨になる

 

お互いの愛が冷えてしまった夫婦にとって、結婚生活とは束縛であり足かせのように思えるかもしれません。愛し合っている時には、少しも苦痛でなかった、相手のために自分を犠牲にすることや、忍耐すること、赦すことなどが、辛く苦しいことになってしまいます。そして相手に対する不平や不満ばかりが目につくようになるのです。この場合、間違っているのは結婚生活ではなく、愛が壊れてしまったことにあります。

同じように、クリスチャンがキリストの愛から離れ、親しい関係がなくなる時、戒めや宗教的義務に対して不平を言うようになります。この場合も、問題は戒めにあるのではなく、神様に対する愛が冷えてしまったことにあるのです。

 

主を愛するクリスチャンは、喜んで自分自身を否定しながらこの世を歩むでしょう。キリストは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)。キリストのこの言葉は、「キリストに従う道は厳しくつらいけれども、自分を殺して不平を言わずについてきなさい」、という意味でしょうか?いいえ違います。そのお方はただ、クリスチャンの歩みには、心を混乱させる色んな誘惑がつきまとうので、それからどうやって逃れるかを教えておられるのです。この世には、常に私たちを魅惑してキリストから離れさせるような、肉体的、世俗的な誘惑があります。私たちは、現在自分たちが持っているような愛よりも、もっと高く、強力な愛に支配されていなければ、それらの感覚的な誘惑が私たちを圧倒し、敗北してしまうことでしょう。自分を捨てるとは、頼りにならない自分の知恵や能力によって生きるのではなく、100%神様の力によって生きるということです。自分の心の中のゴミを全部捨てる時に、神様の愛が心を満たし、主の奉仕のために与えられる十字架が喜びと感謝になるのです。

 

人が自分自身の全てを祭壇に捧げた時、キリストの強い愛がその人を支配するようになり、肉欲的な、世俗的なさまざまなサタンの誘惑に対して、はっきりと「NO」と言えるようになります。サタンは何度も何度も、私たちの弱い部分に攻撃を仕かけてくるでしょう。そして、私たちとキリストとの愛の関係を破壊しようとするのです。しかし私たちは、この世の何ものよりもキリストを愛することによって、また、キリストは私のためにいつも最善、最高のことをして下さるという信頼によって、サタンの誘惑を退けるのです。

 

サタンは特に、クリスチャンの感情を動揺させることを通して、強力に働いてくるでしょう。しかし、真のクリスチャンは、自分の感情や感覚は全く信頼出来ないことをよくわきまえています。私たちは義と真理のみ言葉に基づいて信じるべきであって、心や思いの中に浮かぶ、感じや感情を根拠にして信じるのではありません。今日、教会の中で、興奮してわけの分からないことをしゃべったり、絶叫したり、踊り狂ったりする人がありますが、そのような人の大部分は悪魔にだまされているとしか言いようがありません。

また、人が一時的な満足を得るために、罪深い快楽を求めたり、自分の欲望を満足させようとするなら、どんどんそれから離れることが出来ないようになり、ついにはロボットのように自分の欲望が命じるままに行動するようになり、悪魔の奴隷になってしまうことでしょう。

 

今日の教会の大きな問題は、多くのクリスチャンが、自分たちが従うべき聖書の教え、愛の原則に従う力がないことです。肉体的な欲望に抵抗できる力がなく、肉欲の命じるままに思いと体を任せる肉欲の奴隷になっています。また、自我も同じように、外部からやって来る刺激にすぐ反応して感情が動揺し、理性でコントロールすることが出来ません。堕落して弱められた意志は、力を失ってふらつきながら、感情と感覚が要求するまま引きずり回されています。このような人にとっては、正しいことをするより、悪を行うことのほうがもっと簡単になってしまいます。

しかし、キリストの中にいる真実なクリスチャンにとっては、義の原則に対する確信が強力であるため、誰も彼に罪を犯させるように強要することができません。そのような人の心の中には、神様の力ある真理のみ言葉が深く刻まれているからです。

そしてこのことの中に、イエス・キリストの完全な福音の喜びの知らせがあります。私は読者の皆さんに、そのことをお伝えしたいと思います。イエス様は私たちに、義を重んじる心を与えて下さり、聖なることができるように、ダイナマイトのような力を与えるために来られました。私たちは罪責感と罪の勢力に対して、勝ち得て余りある勝利を得ることが可能なのです。


救いは取り消されないのか  第7回

2015年04月21日 | 日記

 

7、狭い道は果たして不幸の道だろうか?

 

イエス・キリストを信じることは、しばしば結婚にたとえられています。この結婚生活というのは、ある意味宗教生活よりももっと制約が多い関係です。だからと言って、そのような制約が結婚生活を不幸にするのでしょうか?愛し合う新郎新婦が、お互いに取り交わした誓いについて、不平を言うことがあるでしょうか。結婚したばかりの夫婦が、彼らの誓いについて不満を漏らすことはありません。彼らは相手のためなら、自分の命をも奉げると約束しながら、心から喜んでいるのです。

 

バプテスマは、私たちの花婿であるイエス様と結婚する儀式です。誰かが、新しくバプテスマを受ける人を失望させようとして、このように言ったとしたらどうでしょう?「おやおや、あなた大変だよ、考えてごらんよ、これからは飲み屋にも行けなくなるし、ダンス・パーティーも行けない、毎週教会に行くなんて、制約が多すぎるんじゃない?」。その時、新しく生まれ変わったクリスチャンは、明るい笑顔で言うでしょう。「それでもいいです。むしろそれが私の大きな喜びですから!」。

キリストとクリスチャンの関係についての説明が、コリント人への第二の手紙5章14節に教えられています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」。キリストが私たちの救いのために死んで下さるという、大きな愛を示されました。その愛を知った私たちも、キリストを愛するゆえに自分に死んで、自分のために生きることをやめ、自分のために死んで下さった方を喜ばせることに全力を尽くすようになります。そのような心で奉仕と従順の道を歩む者たちには、キリストが教えられるどんなことも、重荷や足かせとはなりません。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(黙示録22:14)。


救いは取り消されないのか 第6回

2015年04月20日 | 日記

6、義務は喜びに、服従は楽しみに!

 

聖書に記録されている戒めや、それに従わなかった人への刑罰について疑問を感じる人もいます。特に旧約聖書には、厳しいと思えるような刑罰が、不服従の人々へ臨みました。では、そのような制裁や刑罰があるから、私たちが神様に従うことが困難になるのでしょうか。このような問題について正しく理解するために、次のような例話を考えたいと思います。

今私が、健康診断を終わって、医者の前にいるとします。医者は私の診断書を見ながら、こう言います。「健康診断の結果、あなたには多くの問題が見つかりました。これからあなたは、私の言うことをきちんと守らなければ、確実に死ぬことになります。あなたの命を救うためには、私が教えることに従って、健康原則を守り規則正しく生活しなければなりません。この指示を毎日しっかり実行しないなら、あなたの残りの生涯はとても危険なものになり、確実に数年以内に死ぬことになるでしょう」。

 

このように医者から言われたことは、従わなければ死ぬという、いわば死の刑罰がついている厳しい規則であるに違いありません。私がその医者の処方を実行しないなら、命を失うことがあるのです。このような場合に、私はその命令に従うことはとても難しいことでしょうか?もちろんそうではありません。もし医者が、「健康で長生きをしたかったら、酒やタバコ、暴飲暴食をやめ、野菜中心の食事を規則正しく摂るようにしなさい」と言ったとしたら、医者は私にとって最善のアドバイスをしてくれたのだと信じて、どんな不平も言わずにその指示に従うのです。本当に健康で長生きをしたい人は、必ずそれを実行します。従わなければ、やがて厳しい運命が待っているからです。

 

同じように、クリスチャン生活の中には、神様が私たちの幸福と満足のために与えて下さった戒めに従う喜びがあります。たとえ、従わないものに対する厳しい刑罰が教えられていたとしても、それに目を向けるのではなく、私たちを愛して下さる神様の教えを実行することに喜びを見いだすのです。なぜなら、戒めと原則を下さった方は、私たちのために十字架にかかられるほどに私たちを愛して下さった方だからです。キリストの愛にひとたび感動した心は、どうしたらキリストに喜んでいただけるかだけを考えるようになり、このお方に従うことが人生の最高の目標であり喜びになります。その時、義務は喜びに、服従は楽しみになるのです!