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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第5回

2015年04月19日 | 日記

 

5、聖霊のみ力によって働く

 

 私たちは、聖霊に満たされた者として、偉大なる征服者であり創造主であられる神様のみ名によって、真理を伝えるものですから、もっと確信に満ち、大胆に、積極的に働く方法を学ぶべきです。私たちは肉体的な力で働く者ではなく、聖霊の力によって働く者です。私たちの信じる神様は、敵であるサタンよりも大きな力ある方です。このような神様を賛美しましょう。

 

ところで、クリスチャン生活に関して、次のようなことを言う人がいます。「キリスト教には、めんどうな規則や制約が多くて難しい」。このように感じられる人は、実は大切な聖書の教えを知らないで、表面的な理解しか持っていない人が多いのです。確かに聖書には、十戒を始めとして、神様と人との間の色々な戒めや教えがあります。そしてこのような教えは、生まれ変わっていない人間の性質にとってはとても難しく、実行不可能なものさえあります。しかし私たちが、神様の愛によって心が変えられ、神様と人を愛する新しい心が与えられると、自然に、喜んで実行したいと思うようになるのです。その体験をヨハネはこのように表現しました。

「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(Ⅰヨハネ5:3)。

 イエス・キリストの愛を知り、その愛に心が感動する時、私たちはこの愛に応えたいという思いが湧き上がってきます。そのような心で戒めに向かう時、戒めはめんどうな規則ではなく、愛する方への感謝の応答となっていくのです。私の心を喜びで満たして下さった方を、自分も喜ばせたいという、自由で感謝に満ちた心で、戒めに従うことが出来るようにさせられます。詩篇記者もヨハネの言葉に同意しています。

「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)。新しく生まれ変わったクリスチャンにとって、神様に仕えることは決して重荷にはなりません。なぜなら、神様が自分を愛して、自分を最善の道に導いて下さるという絶対的な確信があるからです。また、そのような人は、キリストを愛して、そのお方を決して悲しませることのないように、心を尽くします。


救いは取り消されないのか 第4回

2015年04月17日 | 日記

4、拒まない者はみな救われる!

 

神様は、私たちを救う力を持っておられるだけではなく、救いたいと望んでおられます。あらゆる人が悔い改めて救われることこそが、神様の真のみ心なのです。使徒パウロは私たちに保証して言いました。「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」(ローマ2:4)。神様は、どれほど多くの人々を悔い改めへと導こうとされますか?もちろんあらゆる人を導いておられます。あらゆる人を救うことが、神様のみ心なのです。「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)。

 

神様の愛は、少数の選ばれた人だけに注がれているのではなく、すべての人々に注がれ、救いを得るようにと訴えかけておられます。善意に満ちておられる神様は、あらゆる魂を悔い改めへと導き、そのお方の愛は、あらゆる者を十字架に引き寄せます。このような神様の善意と愛があるので、人が救われないことが不思議なほどなのです。それでも救われないで滅びる人がいるのは、彼らが、頑固に救いを拒み、救われないように熱心に努力するからなのです。どんな人でも、聖霊の優しい導きと訴えに抵抗しなければ、滅びることはありません。「とげのあるむちをければ、傷を負うだけである」と言われたように、真理に逆らわないことが大切なのです。

 

驚くべき事実は、救われることが難しいのではなく、神様の救いのみ業を受け入れないで抵抗して戦うことの方が難しいということです!私たちが抵抗しなければ、神様はご自分の摂理のままに導き、私たちをご自分のところに引き寄せて下さいます。「すべての人を救う神の恵みが現れ」(テトス2:11)ました。神様の恵みは、どのぐらい多くの人々に現れましたか?「すべての人」に現れました。へブル人への手紙2章9節には、「すべての人のために死を味わわれるためであった」と言われています。同じく「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」(Ⅱコリント5:19)と言われています。世界中のすべての人が全員救われるわけではないたった一つの理由は、多くの人が、人を義に創り変え、聖くして下さる神様の摂理に抵抗するためです。

 

聖書は、「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」(ローマ5:18英語訳)と教えています。「義がすべての人に及ぶ」という言葉には非常に重要な意味があります。キリストによって、この世に生まれてきたすべての人を義とするための秘策が設けられました。それがキリストの十字架です。キリストの十字架の死は、全世界のすべての人を救うのに十分なものでした。十字架を通して、人は合法的に神様の前に義と認められ、聖なる神様の律法の前に、恥じるところなく立つことが出来る者とされます。キリストの十字架の死は、私の罪の身代わりであったことを信仰によって捕らえる時に、義は豊かにその人に適用されるのです。

全ての人は、変わる必要性を持っている罪人です。あらゆる人は、律法の前で何かの恵みや赦しを得ることが出来るような存在ではなく、犯罪者として、罪に定められた存在です。律法の前に立つ者は、自分の中にどんな義も見つけ出すことができません。また律法を行うどんな力も得ることができません。罪人は律法の呪いの下で、罪に定められた状態で無力にいることしかできません。しかし十字架を通して、このすべての呪いと罪の定めから逃れる道が開かれたのです。

 


救いは取り消されないのか 第3回

2015年04月16日 | 日記

3、服従の道はたやすく、罪人の道は困難

    

イエス様はご自分に従う道はやさしいと言われました。イエス様はクリスチャン生活に伴う数々の制約がもたらす重荷によって、クリスチャンたちはいつも不幸であるという印象を全く与えられませんでした。むしろ、その荷は軽く負いやすいと約束されました(マタイ11:30)。イエス様は、ダマスコに行く途中で、ご自分を迫害するサウロに対して「とげのあるむちをければ、傷を負うだけである」(使徒26:14)と言われました。この言葉の意味は明白です。真理に逆らえば苦しみを受けると言われたのです。真理に従う人は、心に平和と平安がありますが、聖霊に逆らう者の道は険しく困難なのです。

 

私たちは、人間は弱いものだからサタンの力には勝てない、罪の誘惑には負けてしまうというような、偽りの考えに洗脳されないようにしなければなりません。もちろん、人が罪の支配下にいる時には、正しいことをするより誤ったことのほうが行いやすくなります。しかしそのような時、私たちは神様の子として、私たちに与えられた特権、イエス様が罪に勝利された力を主張しましょう。聖書の記者たちは、どんなサタンの誘惑にもおどしにも屈しないで、神様に従うことを選び続けました。私たちもそうあるべきです。パウロはこう書きました。「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」(ローマ5:20、21)。

 

「罪が・・・支配するに至ったように」という表現を注意してみてください。罪は人の心を支配する権勢があるということです。どのように罪が支配するに至りますか?罪を犯し続ける生活は良心を麻痺させ、人を否応なく滅亡の死に引きずっていくのです。しかし、恵みが罪以上に「ますます満ちあふれた」ことと「罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配」している事実に目を向けて下さい。神様の恵みには、罪のあらゆる力を超える圧倒的な力があるというのです。これは実に驚くべき保証ではありませんか?悪魔の力は、キリストに服従する人に働く、福音の爆発的な力に比べると、余りにもちっぽけなものに過ぎません。

 


救いは取り消されないのか 第2回

2015年04月15日 | 日記

2、サタンは神様の子供たちに手をつけることができない

 

なぜ、クリスチャンたちが罪に勝利することができず、自分たちの軟弱さを嘆き、人間的な信仰に走ってしまっているのでしょうか?その理由は、彼らがサタンの与える誘惑や、自分の感情をコントロールすることに、何度も失敗したために、信仰に対して臆病になってしまったからです。サタンは、人間が持っている最も基本的な特権である、意志の力を弱めることに成功しました。私たちはそのサタンの欺瞞(ぎまん)を見破り,サタンの主張する偽りを暴露する必要があります。

サタンは、この世界とあらゆる人間を、自分の意のままに動かすことが出来ると、人々が信じてくれることを望みます。どんなに頑張ってもサタンには勝てないのだ、罪には勝てないのだというような、偽りの主張を信じてはなりません。彼は神様の子供たちを支配する権利を持っていません。そして聖徒たちを理解できる力もありません。キリストがおられる所、その方が治められる所では、サタンは頭を上げることが出来ず、ブルブルと震えながら逃げていきます。神様のみ力はサタンの力よりはるかに大きいという、栄光ある真理によって、私たちの心が常に満ちているようにしましょう。

 

もちろん、サタンはすごい力を持っています。私たちはサタンが人間に働いて、彼らを自分の奴隷として引きずっていく強い影響力を目にしたことでしょう。しかし、キリストがその人の心を支配される時、サタンは追い出され、善の力が悪の力に打ち勝ちます。サタンよりキリストのみ力はさらに大きいのです。罪人の力より恵みのみ力はさらに強力に働きます。神様とキリストと聖霊は、この宇宙の中のどんな存在よりも偉大な力を発揮されます。キリストはすでに、十字架上で繰り広げられた大争闘において勝利をおさめられ、サタンは完全に敗北してしまったことを覚えましょう。私たちがこの事実を正確に認識するなら、私たちは罪に負けて滅びることより、罪に勝利して救われることの方が、はるかにやさしいという結論に到達します。


救いは取り消されないのか・ 第1回

2015年04月14日 | 日記

第1部:滅びる方が難しい!?

1、序論

 

ダイナマイトはギリシヤ語の『Dunamis(デュナミス)』から来ていて、その原語の意味は『力』です。聖書で『力』と訳された言葉は、キリストの福音の持つ力を描写するためにしばしば用いられています。パウロは「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ1:16)と言いました。

 

現在どれだけのクリスチャンが、この福音のダイナマイト、爆発的な力を体験しているでしょうか?ローマ人への手紙1章に記されたパウロの言葉が事実であれば、福音を所有したすべての人は、驚くべき力を所有していなければなりません。しかし、果たして現実はどうでしょうか?

不幸にも現代の多くのクリスチャンの生活は、無気力で軟弱です。ダイナマイトのような驚くべき力の代わりに、敗北と失望がその場を占めています。どうしてそうなったのでしょうか。そのような人たちが、本当に福音を信じているといえるでしょうか?なぜ、彼らの生涯にはパウロの言うような力(ダイナマイト)がないのでしょうか?その理由は、彼らが自分たちが語っていることを本当には信じていないか、偽りの福音を信じているために、真の福音だけが与えることのできる力を持っていないからではないでしょうか?

 

実は、現代の大きな霊的問題は、偽りの福音が語られ、それを信じ込んでいる人が多いということです。不幸なことに、多くの人が福音を通して与えられるものが何で、その福音は彼らのために何が出来るかということを正しく理解していません。そのために、福音を通して持つことの出来る力を体験することが出来ず、多くのクリスチャンが、しばしば罪に負けて倒れてしまい、自分たちの弱さを嘆き、結果として罪を愛する人間の性質にちょうどいい、耳ざわりの良い福音で心を満たそうとしています。